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吊るされたもの 〜 それは祝福と呼ばれている。前日譚 〜

作者: 高山 墨人
掲載日:2026/06/21

『それは祝福と呼ばれている。』本編読了後の閲覧を推奨します。

本編の前日譚にあたる短編です。

その館には、かつて役目があった。


黒檀の扉。深い緑の絨毯。赤銅色の壁紙。夜ごと油を足される真鍮の燭台。天井まで届く書架には、竜の骨、角のある獣、海の底で歌うもの、花の中に棲む小さなものについて記された古い本が並んでいた。


客人が初めてその館を訪れたなら、古い童話の中へ迷い込んだように思ったかもしれない。廊下の窓は細長く、月の光は色硝子を通って床に落ちた。階段の手すりには蔦のような細工があり、暖炉の上には、今はもう使われない家紋が沈んだ金色で刻まれている。


けれど、その館が本当に守っていたのは、そうした美しいものではなかった。


世界には、触れてはいけないものがある。


呼んではいけないものがある。


見つけても、拾ってはいけないものがある。


この家の古い魔法使いたちは、それらを封じた。名を与えず、形を隠し、地図に記して、深い森や古い井戸や崩れた礼拝堂の奥へしまい込んだ。封は年月とともに弱まる。だから代々の者は、ときおり封を締め直した。


それは高貴な仕事だった。


危険で、静かで、誰にも褒められない仕事だった。


初代たちは、禁忌を恐れていた。二代目も、三代目も、まだそれを仕事ではなく務めだと知っていた。夜明け前に館を出て、封が緩んでいないか確かめ、必要なら札を貼り替え、古い印を結び直す。帰れば何日も寝込むこともあった。それでも、彼らは行った。


しかし、封じるべきものが少なくなるほど、仕事は形だけになっていった。恐怖は作法になり、作法は面倒な家訓になった。


やがて、その家に生まれる者は、先祖の務めを誇るばかりで、何を封じているのかを知らなくなった。古い地図は読まれなくなり、札の作り方は儀礼になり、封を締め直す日付だけが帳面に残った。


最後に館を継いだ魔法使いは、先祖ほど優秀ではなかった。


彼は、自分を不運だと思っていた。


かつては名家だった。立派な館もある。書物もある。古い道具もある。だというのに、金はなかった。客は少なく、彼が作る魔法道具はすぐ壊れ、修理を頼みに来た者は二度と来なかった。薬草を調合すれば焦がし、護符を作れば文字を間違えた。


それでも、彼は自分が愚かだとは思わなかった。


悪いのは時代だと思っていた。先祖の名にふさわしい仕事が残っていないからだと思っていた。もっと金になるものがあれば、自分は本来の力を示せるはずだと信じていた。


先祖の名は、彼を養ってはくれなかった。


近くの町では、彼の家名だけを聞いて頭を下げる者もまだいた。だが、二度目に訪れる者は少なかった。子どもの熱を下げる護符は効き目が薄く、恋を叶える香油はただの油と変わらず、壊れた燭台を直したはずが翌朝にはまた傾いていた。


それでも彼は、自分の腕が悪いとは思わなかった。


世間が古い魔法の価値を忘れたのだと思っていた。客が貧しいせいだと思っていた。先祖が本当に価値のあるものを隠して、自分に何も残さなかったのだと思っていた。


そう思う方が、楽だった。


「馬鹿げている」


ある夜、彼は空になった食器を見ながら言った。


「こんな家に生まれて、どうして俺だけがこんな目に遭う」


館は答えなかった。


廊下の奥には、古い木人形が置かれていた。


それは棚の高いところにあった。人形と呼ぶには大きく、人間と呼ぶには小さい。子供が抱えれば胸元まで隠れるほどの大きさで、手足は細く、顔は簡素に彫られている。首には古い紐がかけられていた。紐には小さな札がいくつも結ばれ、黒ずんだ印が薄く残っている。


厄災を受けるための身代わり。


呪いが戻らぬよう、首に封を置かれた器。


この家が封じるものと向き合うために、古い魔法使いたちが作ったもの。


だが、今の魔法使いはそれを知らなかった。


彼にとってそれは、埃をかぶった不気味な飾りにすぎなかった。幼い頃からそこにあり、誰も動かさず、誰も説明しなかった。だから、意味のないものだと思っていた。


それを意味のないものとして扱える程度に、家はすでに落ちていた。


ある日、魔法使いは館の奥で、開かないはずの扉を見つけた。


扉には、先祖の紋章が刻まれていた。黒い封蝋。細い銀の線。内側から風が漏れているような、冷えた気配。


扉の前に立つと、館全体が少しだけ黙ったように感じた。燭台の火が細くなり、廊下の奥で吊るしたばかりの木人形が、きし、と小さく鳴った。


彼はそれを、長いあいだ物置の扉だと思っていた。だが、鍵穴の周囲に刻まれた古い文字を見つけた時、何かあると思った。


金目のものがあるかもしれない。


彼の考えは、それだけだった。


開けるのは簡単ではなかった。だが、彼には先祖の帳面があった。読めない文字は多かったが、封を締め直す手順だけはかろうじて追えた。封じるための印。封を弱める時の順番。札の置き方。言葉の区切り。


先祖は封を守るためにそれを残した。


彼は、封を開けるために使った。


扉が開いた時、部屋の中には埃が積もっていた。


思っていたような宝石はなかった。


金貨もなかった。


飾り剣も、宝杯も、王侯に売れそうな魔道具もなかった。


あるのは、黒い机。古い本。封の道具。乾いた札。壁に掛けられた地図。天井の梁。細い台。壁際に置かれた全身鏡。


鏡だけは妙に新しかった。古い部屋の中で、それだけが曇らず、人の姿をはっきり映す。だが魔法使いは、そこに映った自分の疲れた顔を見て、すぐに目を逸らした。


「鏡は嫌いだ」


昔、誰かがそんなことを言っていた。


鏡は真を映す。魔法で飾っても、呪いで隠しても、そこだけは変わらない。


彼には、つまらない迷信に聞こえていた。


それらは本来、封印管理室の道具だった。


この館そのものが、代々の封印管理拠点だった。


地図も、札も、鍵も、本も、すべては外にあるものを館から見張るために残されていた。


だが、彼には価値が分からなかった。


「使えねえ」


彼は吐き捨てた。


その声が部屋に残った。


彼は机の引き出しを開け、棚を漁り、古い箱をひっくり返した。出てくるのは、黒い印のついた紙片ばかりだった。札。札。札。破れた札。まだ使える札。封を示す札。回収のために使われていた札。


彼には、ただの古紙に見えた。


腹立ちまぎれに、彼は廊下の棚から木人形を引きずり下ろした。


埃が舞う。


首の紐についた札が乾いた音を立てる。


「ありがたい守り神なら、少しは役に立ってみろ」


彼は笑った。


それは儀式ではなかった。


祈りでもなかった。


幼稚な八つ当たりだった。


木人形の首にあった封の紐を梁へかける。細い台に乗り、手を伸ばし、紐を結ぶ。人形は廊下の端で、ぶらりと吊られた。


その形に意味があることを、彼は知らなかった。


呪いを受ける器の首を、さらに封じる形にしたこと。


中に空白を持つものを、受け取りやすい姿勢へ置いたこと。


ただの悪ふざけが、あとで何を呼ぶのか。


彼は知らなかった。


台から降りようとした時、ふと視線が高くなっていることに気づいた。


普段なら見えない場所が見えた。


梁の向こう。壁の上。黒い木枠の陰。


そこに、小さな継ぎ目があった。


「……なんだ」


彼は手を伸ばした。


指先が、薄い板の端に触れる。押すと、天井近くの小さな隠し戸が開いた。中から落ちてきたのは、細長い筒と、黒い封蝋で留められた数枚の紙だった。


筒の中には、地図が入っていた。


そこには、森の奥、井戸、礼拝堂、古い墓所、岩山の下、海に近い洞穴などが、細かな印で記されていた。印の横には、古い文字で注意書きがある。触れるな。開けるな。封を締め直せ。声を出すな。月の欠けた夜に近づくな。


魔法使いには、それが警告に見えなかった。


宝の地図に見えた。


彼は笑った。


先祖は、やはり何かを隠していたのだと思った。金目のものを残しておきながら、自分に渡さなかったのだと思った。胸の奥で、古い恨みが温まる。


封印管理室の机には、札の型があった。


黒い印を押す小さな道具があった。


古い鍵がいくつもあった。


本来なら、封を締め直すためのもの。


けれど、封を締める道具は、手順を逆にすれば封を緩めることもできる。


魔法使いは、それだけを理解した。


それから数日、彼は部屋に籠もった。


帳面を読み、札に印を押し、地図の古い文字を照らし合わせる。封を締めるための言葉は退屈だった。守れ、閉じよ、戻るな、眠れ。そういう言葉ばかりだった。


だが、線を逆に辿れば、意味は変わる。


開け。緩め。呼べ。入れ。


彼はそこで初めて、先祖の残した仕事を面白いと思った。


最初に向かった場所は、森の奥だった。


出発の朝、館の廊下にはまだ木人形が吊られていた。首の紐に結ばれた古い札が、窓から入る風でかすかに揺れる。魔法使いはそれを一瞥し、鼻で笑った。


「見張っていろ」


何の意味もない言葉だった。


それでも、木人形はそこにあった。


地図には、古い石室が示されている。倒れた鳥居にも似た石門を抜け、苔に覆われた階段を下り、湿った空気の底へ向かう。木々は不自然に曲がり、鳥の声は途中で途切れた。足元の泥は冷たく、革靴の底へまとわりつく。


一度だけ、彼は戻ろうかと思った。


だが、戻ればまた空の食器と壊れた魔法道具の前に座るだけだった。先祖の名前を抱えたまま、誰にも必要とされず、古い館で痩せていくだけだった。


彼は札を握り直した。


彼の持つ札は、先祖の印を帯びていた。扉は、それを知っていた。


封は弱まっていた。


だが、まだ生きていた。


魔法使いは札を貼り、鍵を差し込み、帳面で覚えた言葉を唱えた。


正しくはなかった。


けれど、十分だった。


石の扉が、内側から息を吐くように開いた。


中には、二つのものがあった。


ひとつは、白いもの。


小さな石の器の中で、丸まっている。虫のようにも見える。糸の束のようにも見える。乾いているのに湿っていて、死んでいるように静かなのに、目を離すと少しだけ形が変わっている。


もうひとつは、黒い本だった。


本は鎖で石台に繋がれていた。表紙には題名がない。触れるな、と書かれた札がいくつも貼られている。だが、その札の端は古く、剥がれかけていた。


白いものも、黒い本も、同じ場所に封じられていた。


片方だけでも危険だった。


揃えば、もっと危険だった。


だから先祖は、一緒に封じた。


魔法使いは、そうは考えなかった。


彼は白いものを売れると思った。薬師か、好事家か、禁じられたものを欲しがる貴族にでも見せれば金になるかもしれないと思った。


近づくと、白いものは少しだけ縮んだように見えた。逃げようとしたのではない。触れられるのを待つように、形を小さく畳んだだけだった。


魔法使いはそれを、扱いやすいと思った。


黒い本はもっとよかった。


魔法書なら売れる。


読めれば、自分でも使える。


先祖の遺産を、自分のものにできる。


持ち帰ってはいけないと分かっていた。


分かっていたはずだった。


それでも、手が伸びた。


白いものは動かなかった。黒い本も口を開かなかった。けれど、彼はそれらを持ち帰ることを、自分で決めたのだと思った。


館へ戻った夜、封印管理室の空気は変わった。


白いものは石の器に入れられたまま、机の隅に置かれた。黒い本は机の中央に置かれた。窓は閉じていたのに、燭台の火が細く揺れた。


魔法使いは本を開いた。


読めない文字が多かった。


だが、ところどころは読めた。


肉体。


器。


形を保つもの。


魂を落とすもの。


人ではないものを、人のそばへ立たせる術。


彼は意味を理解していなかった。


ただ、使えると思った。


使えれば、自分はまた金を得られる。名声を得られる。先祖のように敬われる。いや、先祖よりも優れた者になれる。


そう思った。


最初の夜、彼は数行で本を閉じた。


読んでいると、喉が渇く。目が乾く。耳の奥で、誰かが別の読み方を囁いている気がする。だが翌日になると、その気味悪さよりも、続きが気になった。


次の夜、彼は声に出した。


声に出すと、不思議と読みやすかった。自分で読んでいるのか、読まされているのか、その境目は曖昧になった。


夜ごと、彼は本を読んだ。


声に出して。


読み間違えた。区切りを誤った。意味を取り違えた。けれど、声は部屋に満ち、廊下へ流れた。


吊るされた木人形は、それを聞いていた。


聞いていた、という言い方が正しいのかは分からない。耳などなかった。意識もなかった。少なくとも、その時までは。


ただ、声は木の中に残った。


肉体。形。戻る。器。触れる。歩く。


そういう言葉だけが、乾いた木目の奥へ少しずつ入り込んだ。


木人形は、廊下で吊られたままだった。


魔法使いが本を読むたび、首に結ばれた札がかすかに擦れた。紙が鳴るだけの音だった。けれど、部屋の中の白いものは、その音がするたびに少しだけ伸び、また縮んだ。


魔法使いは気づかなかった。


魔法使いは、儀式の日を決めた。


真夜中だった。


館の燭台すべてに火を入れ、封印管理室の床に印を描き、札を円形に並べた。石の器に白いものを置き、黒い本を開く。


声に出して読む。


読み間違えた。


それでも読んだ。


手順は歪み、印は不完全で、彼の魔力は足りなかった。


けれど、部屋の外には別の器があった。


廊下の奥、首に縄をかけられた木人形。


呪いを受けるためのもの。


厄災を代わりに留めるためのもの。


中に空白を持つもの。


術は、魔法使いではなく、そちらへ向かった。


白いものが、器の中でわずかにほどけた。


黒い本のページが、風もないのにめくれた。


床の印が、ほんの一瞬だけ、廊下の方へ伸びた。


魔法使いは気づかなかった。


彼の目には、何も起きていないように見えた。


部屋は静かだった。白いものは器の中で縮んだまま、黒い本もページを揺らしただけだった。


「失敗か」


彼は吐き捨てた。


「やはり、先祖の本など役に立たん」


彼は本を閉じた。


札を片付けず、床の印も消さず、白いものもそのままにした。


火だけが残った。


床の印は、乾かないまま黒く光っていた。札の端は、誰も触れていないのに少しずつ廊下の方へ向きを変えていた。


それでも、部屋の主はもういなかった。


廊下の奥で、木人形は吊るされていた。


夜が深くなる。


館は静かだった。


魔法使いは自室で眠った。


吊るされたものは、初めて床が遠いことを知った。


最初にあったのは、痛みではなかった。


重さだった。


首に何かがある。


それは、吊るされた痛みではなかった。


封じられているという感覚でもなかった。


ただ、そこに何かが巻かれている。あるべき場所に、あるべきものがある。そのことだけが、最初から決まっていたように分かった。


手がある。足がある。けれど動かない。動かそうとしても、どこへ力を入れればいいのか分からない。


下を、人が歩く音がした。


あれは、さっき声を出していたものだ。


あれは動ける。


歩ける。


振り返れる。


窓の外に、薄い月があった。


見える、ということを、吊るされたものは初めて知った。


その次に、羨ましい、というものが来た。


それはまだ言葉ではなかった。


ただ、下を歩くものの足音が、とても遠く、とても綺麗だった。


吊るされた木人形の中には、空白があった。


厄災を受けるために作られた場所。誰かの代わりになるために、長いあいだ何も入れられずに残されていた場所。


その夜、空白が震えた。


そして、何かが、そこに入った。

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