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鏡の中の君へ 後編(加賀美朱里編) 最終話

 外が暗くなり始めていた。四枚の窓はやはり中央が開け放たれたままで、ライトアップされた桜の木から伸びる影が、部屋に感傷を持ち込んでいた。

 子供のように泣いていた梓馬は自分が恥ずかしく、対面に座りなおしたマキナにそっぽを向けていた。

 マキナは梓馬のコーチジャケットから取り出した果物ナイフを、面白そうにもてあそんでいた。

「暗くなってきましたね」

 部屋の照明がつけられると、自分の情けなさにスポットライトが当てられているように感じる。そろそろ帰ろうかと思った矢先、日常を知らせる足音が聞こえてきた。そのどたどたした遠慮ない歩調は、まったく空気を読めていないものだった。

 赤く腫れた目を晒しながら、梓馬は入ってきた三人を見る。子供の男の子が二人と、先ほど池のほとりで見た大学生くらいの男だった。

「マキナ、すいません。この二人が喧嘩を始めて――」

裕明(ひろあき)が殴ってきたんですっ」

 一人の男の子が、食い気味に割り込んだ。名前は陽介(ようすけ)くんだ。

 その訴えを聞いたマキナは、もう一人の男の子の裕明くんに質問をした。

「陽介の言うことは本当ですか?」

「殴りました」

 裕明くんは短くそう答えた。顔はしかめたままで、反省の色はない。

 マキナは嬉しそうに溜息を吐くと、裕明くんに質問をする。

「原因はなんですか?」

「言いません」

「そうですか、困りましたね。では謝ることは?」

「ないです」

 裕明くんの強情な返答を受けて、マキナは次に陽介くんに質問をした。

「殴られる覚えは?」

「ないです」

「でしょうね」

 マキナは肩をすくめると、梓馬のほうを見て顎をしゃくる。

 梓馬はここまでのやり取りを見ていて、殴られた方の陽介くんが、気付かないうちに裕明くんになにかしていたのではないかと思っていた。

 指名されたと思った梓馬は、さっそく質問をする。

「誰かをかばってるのか?」

「えっ……」

 殴った方の裕明くんは、ぎくりと背筋を伸ばした。

 梓馬はさらに質問を続ける。

「俺がここに来る途中、池に数人でいるところを見た。年齢がばらばらだったが、君より小さい子がいたな。陽介くんがその子たちになにかして、それで君は怒ったんじゃないのか」

「…………」

 裕明くんは伸びた背筋を、戻すことができなくなっていた。

 その様子を見ていた陽介くんは、自分に非があるものかと口を尖らせて抗議する。

「ぼくなんにもしてないですっ」

 その声の調子から、嘘は吐いてなさそうだな、と梓馬は思った。

「じゃあ、知らないうちになにかしたんだろうな。なにをしてたんですか?」

 質問の矛先を大学生に向けた。

「鯉がいるんですよ。餌をあげてて、あと絵日記も描いてました」

「なるほど。じゃあ陽介くんが知らないうちに餌をあげすぎていたとか、他の子の前に割り込んで絵を邪魔していたとか、他にもいくつか考えられるが」

 梓馬はいくつかの可能性を述べながら、裕明くんの顔を見ていた。明らかに絵のくだりで表情を変えていた。子供は実にわかりやすい。

 これでおそらく陽介くんに真相が伝わったとは思うが、念のためにもう少し絵の話をしようとする。子供ならばさらにボロを出すだろうと。

 そこでマキナがストップをかけた。

「梓馬、あまり感心しないやり方です。ですがボランティアをやるならば歓迎しますよ」

 それで今度は、梓馬が口を閉ざすはめになった。確かにやり過ぎたかもと思ったからだ。

 裕明くんは謝りたくないようだった。男の子として譲れない部分があるのだろう。その意地が、謝罪の言葉を口にすることを躊躇わせている。

 マキナは加害者の裕明くんの肩に手を置いた。

「裕明、私はあなたがすべて悪いと思ってはいません。問題は抗議の手段です。あなたが理由なく人を叩くなど、ないことだと知っていますよ」

 手に力は入っていない。しかし言葉の重力がかかったか、裕明くんの頭が徐々に沈み始めている。そして動機を語り始めた。

「ぼくは悪くない、陽介が間違ってます。自分より小さい子を守れってシュリーが」

 マキナは梓馬に一瞥すると、口元で指を立てた。そして改めて裕明くんに向き直る。

「もし相手の考えを変えたいなら、暴力は最も遠い手段だと言えるでしょう。なぜなら痛みという現実的な手段がコントロールできるのは、同じく現実的な身体だけだからです。心に挑むならば、心を用いないといけません。それとも表面的な同意さえあれば、それで良しと言いますか?」

 子供には難しすぎる、梓馬は聞きながらそう思った。たったこれだけのことを理解していない大人が、社会の大半であり中心だ。それを子供に言ったところで、どれだけの理解があるだろうか。だがマキナがそんなことに気付いていないわけがないことも明白。そこに至り梓馬は、自分に向けて言われたのかと考えた。暴力という言葉が、果物ナイフのように胸に刺さる。

「わかったよ……わかったから」

 子供ながらも裕明くんはわかっていたようだった。そして陽介くんに体を向けて、ただじっと見つめた。直接の謝罪の言葉は、まだ言えないようだ。しかし自分に非があると思っていることは明白で、それはきちんと伝わる。

「ぼくも……、わかったよ」

 陽介くんは目に大粒の涙をためながら、顎をとても重たそうに頷かせた。相手の思想を受け止めると表明したということだ。

 その様子をマキナは嬉しそうに見ていた。

「お互いに言葉を選んだようですね、私の悪ガキさんたち。あなたたちがそれでいいならば、私ももう口を閉ざしましょう。そしてまたケンカしないかと不安に思う私を、二人はきっと安心させてくれます。こんなときどうすればいいとシュリーは言いましたか?」

 裕明くんと陽介くんは、照れ臭そうにはにかんだ。目線が微妙に外れていることから、わだかまりが完全になくなっていないことがわかる。しかし口角は上がり、反発しあっていたパーソナルスペースが、徐々に重なり始めていた。

 先に陽介くんが動いた。人差し指と親指で、自分の顎を摘まむ。

 それを見た裕明くんも同じように、自分の顎を指で摘まんだ。

「えっ」

 梓馬は小さな声を上げ、思わずソファーから立ち上がっていた。目の前の動作から、これからなにが起こるかを直感的に理解したからだ。

 裕明くんと陽介くんは二人同時に、顎を摘まんでいる指を下に引っ張った。向き合うにっこりとした笑顔には、恥ずかしさが彩られていた。

 それを見て唖然としている梓馬に、マキナが微笑んだ。

「シュリーが考えたのです。ここの子供たちは意地っ張りが多くて、素直に謝罪することができません。しかし態度とは中身の一番外側だと、誰かさんが吹き込んだようですね」

 サロンの朱里が蘇る。確かに自分は、そんなことを言ったと。

「そんな、俺はてっきり……」

「シュリーはそれをこの子たちに教えました。喧嘩をして素直に謝れないなら、言葉にできないことを仕草で伝えましょうと。手話ですよ。有馬という子に必要で、シュリーはずっと勉強していました」

「俺はてっきり、からかわれているとばかり……」

 脳裏に、これまでの朱里との思い出がせり上がってくる。告白したとき、クリスマスのとき、なにげないとき、朱里はことあるごとにこの動作を行ってきていた。

 声のない思い出の数々にいま、『ごめんなさい』という声が書き加えられ、輪唱のように広がっていく。

「ずっと俺に謝ってたのか……」

 朱里の微笑みの裏に潜んでいた感情を想像すると、もう責める言葉はなくなっていた。向いた矛先は自分に移り、ただただ後悔が波のように押し寄せてくる。

 朱里がどれほどの罪悪感の嵐のなかにいただろうか。まっすぐ立っていられないほど不安定な心は、いつも罪悪感のベクトルに引きちぎられていたはずだ。

 それでもただの一度も、痛みを声に出すことはなかった。溢れていく血の涙を飲み干しながら、笑顔で困っている人に手を差し伸べていた。そして世界に謝罪し続けていた。自分を永遠に許さないと誓って。

 梓馬は朱里を守ると約束していながら、自分の心を守ることに夢中になっていたことを恥じた。自分が傷つくことよりも、朱里が傷つくことがこんなに辛いと、なぜもっと早く気付けなかったのかと。

 届かないとわかっている声が、それでも行き場を探して宙に浮かんでいく。

「しゅ、り……」

 謝るのは俺の方なんだ――

「しゅり……」

 自分の無能さをお前にぶつけてた――

「しゅりっ……」

 他人よりも俺を助けてくれって思ってた――

「朱里っ、大好きだ」

 好きだと言われたくて、俺が自分を好きじゃなかっただけなのに――

「朱里、お前がいなくて寂しいよ。俺は頭がおかしくなっちまった。声が聴きたいのに……」

 ここにくれば決着が手に入ると思っていた。どちらにせよ自分は救われるだろうと。いまはその考えすら子供じみて思える。朱里が自分を犠牲にしている間、どれだけ情けないことを言い続けてきたか。そして、朱里はそれをどういう気持ちで聞いていたか。

「そんなの決まってる。俺の人生が上手くいくようにと、地獄に落ちる決意をしたんだ。助けてを声に出さず、謝罪をくり返しながら、俺のために地獄に飛び込む女なんだ、あいつはっ」

 悲鳴にも似た叫びが、室内に響いていた。周囲が見えなくなっている梓馬は、床に向かって拳を何度か落とした後、今度は自らの頭を打ち付け始めた。

 ごつごつと鈍い音が自分を責めている。心配する人間たちの声が、自分を気味悪がっている。それはありもしない悪口とともに。

『あなたのせいで死んだのですよ』

『女を助けられなかったらしい』

『シュリーにずっと謝らせてたんだって』

『自分のことしか考えてないらしいよ』

 梓馬は急に上半身を起こした。

「俺が殺したのか……?」

 自分に集中している視線を受けて、梓馬は急に正気に戻った。しかし直前の自分の声は、いまも生々しく耳にへばりついている。お前が殺したと囁いている。

 半ば強引に鳩池に向けていた殺意は、なにかを隠そうとしていたのか。これまでの一筆書きで培った推測が、自分を裁こうと法廷を開こうとしている。しかしそこに一人だけの部外者がいた。

 マキナだけが、梓馬に話を合わせられた。

「いいえ、違いますよ」

「あんたがいまそう言った。俺が朱里を殺したって」

「気付いていませんか。あなたが自分に言ったのです」

 真実が付与された言葉は、的確に梓馬に刺さった。

「あっ……」

 いままで聞こえていた人間語の悪口。その正体を他人に知らされて、しかし梓馬はこれ以上ないほど納得していた。

 この一連のやり取りから、マキナは梓馬がかなり危険な状態にあると判断した。そして見落としていた果物ナイフの意味にも気付く。どうやら自分は、沙月に引っ張られていたらしいと。

「まったく梓馬、強がりだけはたいしたものです。だとしたらこの小さな悪意は、私ではなく自分に向けていたのですね。これでは窓を開けっぱなしにしていた私が、ただの馬鹿みたいじゃないですか」

「死ぬと決めたら、色んなことが楽になったんだ……」

 指摘された梓馬は俯くしかなかった。気まずさが視線を逃がそうとして、窓が見えそうになると、また目をそむける。

 もちろんマキナはそれに気付いた。

「おや、あなたは窓に私とは違うタグを付けていますね。それは先ほどの取り乱しようと関係していますか?」

「え……」

 梓馬は信じられないと思った。自分にしか見えていないはずのものを、どうして推測することができるのかと。

「目に見えるものすらと言いましたが、先ほどの様子は幻覚か、幻聴か……、まあ両方でしょうね」

 まだ悪夢から覚めていないかもしれない、そんな不安が梓馬を襲った。目の前のマキナの言葉はそれほど的確だった。

 朱里、どうして俺がこの人に勝てると思ったんだ――

 途方もないほど力の差を感じた梓馬は、白状するしかないと諦めた。

「朱里がいなくなってから、俺はたまにおかしくなります……」

「見えているのはシュリーですね?」

「なんでそこまで……」

「あなたは激しい妄想を、現実として生きてきました。それは実際よりも、ずっとひどいものだったでしょう。では、そんなあなたを脅せるものはなんでしょうか。あなた自身か、シュリーか、そのどちらかです。でもいま目の前であなたは、自分を必要以上に責めていた。だったらもうシュリーしかいないでしょう。いま、見えているんですね?」

「いえ、いまは見えていません。でもさっき俺の悪口が聞こえたから……」

「なるほど、では止めを刺しましょう。それは窓に映っていますね?」

 マキナはそう言ってから、窓を完全に閉めに向かった。勢いよく閉められた窓が音を立てて、部屋に伸びてきていた桜の木の影が切断されてしまう。それで梓馬はようやく金縛りから解放された。

「合わせる顔がない、やめてください」

 梓馬は咄嗟に体ごと翻し、窓を見ないようにする。振り返った先では、大学生、裕明くん、陽介くんの心配そうな顔が向けられていた。

 その優しくて遠い視線が苦しかった。彼らの目が、自分をどう映しているかを知りたくない。かといって窓の方へ振り向くこともできなかった。

 もう目のやり場は残されていない。

「振り向きなさい。窓を見るのです、梓馬」

「嫌だ……。本当は俺が悪いはずなのに、朱里に謝られたくないんだ」

「違います、あの子は許されようとは思っていませんでした。あの子の真意、その心の声が本当にわかりませんか。あなたにはそれを聴く力があるんですよ」

 マキナは言うと、梓馬の髪を掴んだ。そして無理やり窓へと振り向かせる。

 梓馬は意地でも窓を見ないと、目をぎゅっと結んだ。すると瞼の裏に、黒のスクリーンが広がっていく。やはり耳を塞ぐことはできず、マキナの声が暗闇に侵入してくる。

「目に見えるものを見てきたあなたにいま、とうとう目に見えないものを見るときが来ました」

 梓馬は聞きたくなくて、より強く目を閉じる。しかしそれではマキナの声を止めることはできない。

「梓馬、あなたは先ほどの仲直りの手話の意味を、勘違いしていますね?」

 マキナのその言葉には、別の意味があるという情報が惜しみなく添えられていた。

 どんな暗闇も目を完全に塞ぐことはできない。暗闇もまた一つの景色だからだ。

 無数の雑念が明滅する宇宙の彼方で、ただ一つの可能性が煌めき始めていた。そこから紡ぎ出される真意へのルートは、次々とこれまでの情報を連結していく。やがて現れた朱里の真意と思われるものは、信じられない光量を放っている。

 それは太陽だった。直視すると、目を焼かれてしまう。逃れるためには目を開くしかなかった。

「嘘だ……」

「いいえ、それがあの子の真意です。シュリーは素直になれない子供に、謝罪を強要する子ようなことはしませんでした。争いを終わらせるのに必要なもの、それを知っている子でした」

 マキナは顎の先端を、人差し指と親指で摘まんだ。そしてそのまま下に下ろしていく。

「これが意味するものは……」

 梓馬は最後まで聞かず、立ち上がると窓の方へと歩き出していた。夜の闇を利用して、窓を鏡面へと作り上げていく。そこには自らの姿が投射されていく。

 鏡の梓馬は泣いていた。情けない自分を目にして、それが似非の客観性だと理解できた。ずれていた焦点を、マキナによって調整されていたからだ。

 自分だけへと過剰に向いていた意識。そのピントが調整されたとき、梓馬は鏡に映る自分の隣に別の像を結んでいた。

「朱里……」

 加賀美朱里がすぐそばに立っていた。まるでずっと隣にいたように。

 そこに立つ朱里は、にっこりと笑っているだけだった。そしてやはり顎を指で摘まみ、下へと引っ張っている。もう何度となく、くり返し見てきた動作だった。

 そこに梓馬は、先ほど知った手話の意味を上書きしていく。

『だいすきです』

 そう言った朱里は、にっこりと笑った。しかし梓馬はすでに太陽を見つけている。朱里が自分にこの手話をくり返していたのは、確かに顎をからかってもいたからだと知っている。少しブラックなジョークが好きなんだと知っている。

 ロングロングアゴーって言ったとき、肩を震わせていたよな――

 梓馬はとうとう見つけた。むかしむかしから、ずっとくり返されてきた動作の意味。加賀美朱里の真意を。

 いま市原梓馬の推測は、この一点において立花マキナを凌駕していた。

 朱里が指で顎を摘まんで、引っ張った

『あいしています』

 朱里はそう言っていた。これまでずっと聴こえていたはずだった。

『あいしています』

 朱里は何度も言っていた。梓馬だけにしか聴こえない声だった。

『あいしています』

 朱里はずっと梓馬を愛していた。それはきっといつまでも心の果てで。

 ふたりはあいしあっていた。









最後まで読んでいただきありがとうございます。


市原梓馬が主人公の物語は、「貨車が通り過ぎたら(仮)」「五月の雨(仮)」と、あと二作ほど考えています。


いつ書くことになるかわかりませんが、出来上がり次第、順次youtubeで宣伝していきます。


それでは、本当にありがとうございました!

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