鏡の中の君へ 前編 (加賀美朱里編) その1
2 鏡の中の君へ 前編(加賀美朱里編)
夏ほど悩まない季節はない。
梓馬はカットソーとワイドパンツ姿の自分を、電車の窓に映していた。川を渡る電車の中の冷房は弱く、額に浮いた汗はまだ消えていない。
しかし不快感など忘れて、うっすらと反射する左右逆の自分を点検していた。自分の一番のネックは、長い顎。これが全体のバランスを狂わせている。
外には大きな川と点在するバーベキューの村々が映っているが、そこにはピントを合わせない。
自分が他人からどう見られているか、車窓の中の像に焦点を合わせている。溜息は窓を曇らせなかったが、心は晴れなかった。
とはいえ、良い物を身に着けていると気分も良くなる。梓馬はまじまじと胸に大きくプリントされた有名ブランドロゴを眺め、ワイドパンツから垂れるアジャスターにもブランドロゴがあることを確認した。どちらも高校生や大学生に人気のアウトドアブランドで、これさえ着ていれば問題ないと言われている。色合わせもダークトーンでまとめているので、文句のつけようもない。
これが他の季節となると身に着けるアイテム数が増えるせいで、色合わせと素材合わせにまとまりを持たせるのが難しくなる。だから夏はコーディネイトに悩まない。
目的の駅につくと、一番端の階段を下りて改札をくぐった。
右に行けば比較的若者向けの商業ビルがあり、左に行けば百貨店が並ぶエリアがある。高校生の梓馬は無表情を取り繕って、左へと向かった。
駅を出て横断歩道を渡れば、すぐに三大セレクトショップの看板が目に入る。正面に見えるのは南館で、本館に比べると扱うアイテムの価格が控えめだ。
梓馬は横目でちらりと本館の方を見た。水商売の界隈で人気なフランスのブランドが目に入った。
途端に湧いてくる反発心、ああいった物を持っている奴はただの馬鹿だと心中で吐き捨てる。周りに聞こえそうなほどの心の声は、それだけ憧れていることの裏返しだ。しかし当の本人はそんなことには気付いていなかった。
信号は赤い。同じように立ち止まる人々の服装を見た。本館に向かいそうな人間は大抵、コーディネイトが黒でまとめられている。
アイテムが高額ならば使いまわせる黒が人気になるのは必然で、梓馬はその点でも他人を馬鹿にしていた。自分は黒いアイテムは使わないんだと、頑なになっていた。
「よろしくお願いしまぁす」
ビラ紙が野太い声とともに視界に刺し込まれてきた。
人間品評に躍起になっていた梓馬は少しのけ反る。差し出されたビラには、ぐにゃりと笑った高齢の男のバストアップと、与党公認ばんどう元治という文字が書かれていた。苗字がひらがなになっているのは、親しみやすさを演出し、覚えやすくするためだ。
梓馬は無視を決め込んでいたが、チラシは相変わらず自分の進路を塞いでいる。苛立って顔を向けた。少し威圧を込めた目で。
ネイビーのスーツを窮屈に着こなした若い男が、にかりと微笑んでいた。
ジャケットの胸にはチーフではなく、鳩池と書かれた名札。シャツは第二ボタンまでが外されており、スラックスの裾からは足首が出ている。スキンフェードの短髪と浅黒い肌が、白い歯を不気味に強調していた。
腰を折り曲げてはいるものの、男の堂々とした態度を、梓馬は不快に感じた。
「結構です」
自分の声が思ったよりも小さく、一瞬で気圧されていたことを自覚した。
自己嫌悪に飲み込まれる前に、空想で攻撃をしかける。
きっとあいつは女の体を使って遊ぶ軽薄な男だ、自分もやろうと思えばできるがやらない、頭もきっと自分のほうがいい、自分ならスーツをあんなふうに着こなしはしない。
梓馬は戦っている相手が自分だということに気付いていなかった。
それも日常、横断歩道を渡ると正面に南館の入口が見えてくる。自動ドアを抜けて長くとられたスロープを歩けば、意識は今日の目的である秋服に移っていた。
季節はまだ夏だったが、秋になってからでは売れ筋は消えている。梓馬は心の中で、自分のように感度の高い人間は夏に動き出すと呟いて口端を曲げた。
広い玄関ホールを過ぎると立ちどころに並ぶレディースブランド、脇のポップストアはコスメと香水が並べていた。それらを横目にエスカレーターに乗ろうとすると、別方向からきた女性とタイミングが同じで、梓馬が先に足を止めた。
「あっ、すいません」
「いえ、お気になさらず」
その女性は肌が甘白く、長い黒髪が輝いているせいで、ずいぶんまぶしく見えた。見とれてしまった自分を隠しつつ、身を引いて順番を譲る。
凝視したことに気付かれただろうかと冷や汗をかいた。
「ありがとうございます」
その女性は譲る気配を見せることないまま、スイッチが入ったかのような会釈をすると、当然とばかりにエスカレーターに足をかけた。
振り返る気配がないことで、梓馬は自分が男として安く見積もられたと感じつつ、四段は空けて後に続いた。
前に立つ女性の後ろ姿を視線でなぞっていく。赤いカーディガンは薄手だが体の線があまり目立っておらず、たゆたうドレープの波間に光沢がある。肩部分には縫製の跡がなく、詰まっているリブが華奢な体を一層と細く見せていた。
次に梓馬の視線は尻をなぞり始める。インナーのワンピースは光沢のあるアイボリーで、特徴的なモノグラムが、ヒップラインで歪んでいた。
それほど煽情的な尻というわけでもないが、どこかアカデミックな小ぶりさは、乱暴に扱いたくなる。だが白い腕を隠すようにつけられたブレスレットやバングルと、足元の鋭利なハイヒールが、扱いづらい女性性を感じさせていた。
そう思わせられるのは、高級品を肩ひじ張らずに身に着けていることと、段差による位置関係もある。
どんな男にならセックスをさせるんだろう――
改めて後ろ姿を凝視する。尻は、もう少し大きいほうがいい。胸はおそらく小さいだろうが、甘白い肌から乳頭はピンクだろうという仮説を立てる。髪は相当な手入れがされているのか、後頭部の形がわかるほど柔らかく、口に含めばトウモロコシの味がしそうだった。
目的のフロアに到着すると名残惜しさもあったが、自分に関心がない女を高級品のように感じているのも嫌で、意識を切り替えて目的のセレクトショップの方へ向かうことにした。
数歩も歩けば、意識から先ほどの女性は消えて、股間のかすかな熱も引いていく。そして導線を塞いでいる大学生カップルを見つけたころには、苛立ちだけが心を支配していた。
そのまま避けるつもりだった梓馬だが、そのカップルが二人ともファストファッションブランドのジーンズを履いていることに気付くと、わざと強めの咳払いをする。
たっぷりと邪魔だという感情を垂れ流して道を譲らせた。本人は優越感を得ているが、劣等感が燃料になっていることに気付ていない。
目的のセレクトショップはカジュアル寄りの傾向を持つが、向かって右側にはフォーマルアイテムも揃えられている。梓馬は左側から入ってカジュアルラインの平台を眺めたあと、中央部の渡りから右側のエリアに入った。
足音を響かせる床、ウッドラックに並ぶニット、吊るされたセットアップ、引き出しに丸く収まったネクタイ群。高校生の梓馬には食指の向かないものばかりだったが、入口の一角には高額なダウンで有名なフランスのブランドがあった。
部位ごとに一グラム単位で計算されて作られることから、高品質であり、なおかつ大量生産ができない。そうなると当然、価格は大卒初任給を超えてくる。タウンユースには過剰なフィルパワーだが、腕部のワッペンは街で目立つ。
そんなものを高校生の自分が、なんでもない顔で着ることに憧れていた。
梓馬はハンガーにかかっているダウンベストを三歩分の距離を空けて横目で見た。値段は知っている、約十三万円。もし人に訊かれたら十五万くらいだと答えようと決めていた。
並ぶ隙間から最もワッペンのサイズが大きいものを探す。正直なところサイズはどうでもいい。タイトだろうとオーバーサイズだろうと、パンツでシルエットを調整してしまえばどうとでもなる。カラーは使いまわしを考えて黒、先ほどの自分の考えは忘れていた。
梓馬はこれだというものを決めると、店員に目を合わせた。
「袖とおしていいですか」
梓馬がそう言うとスタッフは満面の笑みで近づいてきた。胸についた名札に中村と書いてある。
中村は「はい、鏡はこちらです」と言うと、手でスタンドミラーの方へと促す。梓馬からベストを受け取ると、ファスナーを開いて中に風を入れた。
梓馬はベストを着せてもらいながら、中村を観察していた。髪は前下がりのミディアムで、オイルでタイトにまとめられている。髭とメガネのアパレル店員セットも完璧だ。
コーディネイトは、モスグリーンのセットアップをクルーネックとスニーカーで着崩しており、足元まで見たところで嫌だなと思った。
「こちらはAWの新作で、去年からあるモデルと――」
中村はアイテムのスペックを語り始める。土地柄もあってスペックから入ったのだろうが、高校生はコーディネイトを重視している場合が多い。
「これって着回しききますか」
梓馬は高校生らしく、コーディネイトの質問をした。
「そうですね、ブラックはやはり定番カラーなのでどんなコーデにも合いますよ。今日のコーデの上からそのままでも、すごくお似合いになると思いますよ」
「なるほど」
梓馬は曖昧な返事をしながら、スタンドミラーに様々な角度の自分を映していた。前が開くアウター類は、正面からでは問題なくとも、横から見ると裾が広がって不格好だったりする。しかしさすがに値段もあって、シルエットに問題はなかった。
「オーバーサイズで着たいんですけど、これの5番ってありますか?」
梓馬がいま着ているベストのサイズは2で、おおよそMサイズということになる。日本ではMサイズが最も売れるサイズで、いま在庫を訊いた5はXL相当で在庫が少数、またはない可能性が他のものより高い。
「ああ、ちょっと在庫のほう確認してまいりますね」
中村はそう言うとバックヤードへと向かった。
梓馬はそれを見送ってから、ベストを脱がずにその場を後にした。そしてなに食わぬ顔でエレベーターへと向かう。全力で走りたかったが、それはあまりに目立ちすぎる。
この瞬間はいつも、跳ねる心臓と足の回転のリズムが合わない。蹴った床からの反作用で体が浮いてしまいそうな不安がある。
緊張が自覚を上回っており、あらゆるコントロールがおろそかになっている。そのせいか、エスカレーターで下のフロアに降りるときに躓いてしまった。
態勢が大きく崩れ、持ち直そうとしたところで、右肩をつかまれた。それがどういう意味か瞬時にわかると、心臓が腹に落ちたような衝撃を味わう。
梓馬は窃盗の興奮と躓いたときの過集中で、中村の走る音が聞こえていなかった。
「ふざけてんじゃねえぞ」
中村は語気荒く、そのまま梓馬のカットソーを強く引っ張って転倒させ覆いかぶさった。梓馬はなんとか逃れようと体をねじるが、逃がすまいとする中村も同じように体をねじる。二つの雑巾が戦っているようだった。
この騒ぎに周囲は何事かと遠巻きに視線を向けてきていた。近づいてくる人影もいくつかあり、そのなかにいた小柄な女性スタッフが的確な質問をする。
「万引きですか」
「そう、どうすりゃいいんだろ」
「警備員さん呼びますか?」
「そうして」
女性スタッフは頷くと小走りでいなくなり、すぐに戦闘力の低そうな警備員を連れてきた。濃紺の制服は軍服のようないかつさがあったが、帽子からは白髪がはみ出ており、体格もやせ型だった。
梓馬は二対一という構図に心を折られ、中村と警備員に立たされる。連行された先はスタッフオンリーというプレートがかかった部屋で、室内には長椅子とロッカーがところ狭しと並んでいた。休憩中だった他のスタッフたちが、菓子パンを片手に口をあんぐりと開けて梓馬を見ている。
「座れ」
中村は周囲の視線を無視したまま梓馬を突き飛ばした。
梓馬は顔を青くしながら、座る以外の選択肢を取れなかった。
「ごめん、こいつ万引き犯なんだ。いまからここ使うからちょっと席外してくれる? ごめんね」
中村の言葉に、休憩を取っていたスタッフたちはやや色めき立ち、梓馬を興味深げに見ながら次々と出ていった。室外に出た途端、こぞって万引きの話を大声で始めるだろう。
「自分ちょっと店長呼んでくるんで、こいつ見てもらってていいすか」
「はい、はい」
年老いた警備員、胸に古田という名札をつけた初老の男は、中村を見送ると梓馬のほうへと顔を向ける。
「なんで万引きなんかしたのぉ」
老人らしいゆっくりとした口調で、古田はそう問うた。やせ型の体形に似合った優しそうな声と、哀れみを示す八の字になった眉毛。良い人間だということが痛いほど伝わってくる。
梓馬は質問には答えず、古田の体格をじっと眺めていた。簡単な話で、さっきまでは二対一だったが、いまなら自分より弱そうな初老の男と一対一だということだ。
梓馬は想像する。目の前の老人を殴り倒し、顔を踏んづけてから逃走するという手段を。逃げるならばいまが最大の機会で、これを逃せば状況はますます悪くなる。問題は罪悪感だけだった。
「警備員という仕事を自分で選んだんだから、覚悟はできてるんだよな」
梓馬はそう独り言ちると、椅子からゆっくりと立ち上がった。
古田は「ん?」と首をかしげると、膝を曲げて威圧感を消す。子供を安心させる姿勢、その疑うことを知らない様子は、膝蹴りの射程に自分から入ってしまったことなど考えもしない。
それが梓馬の気勢を削いでしまう。膝で蹴れば古田の鼻がひしゃげる様子が、容易に想像できてしまう。
膝を上げるだけだ、実行したほうがいい――
目の前の古田は相変わらず「ん?」と言っている。いまは見下ろされていること、梓馬の方が体格が良いということの意味をまるでわかっていない。
梓馬は深く息を吸う。次に吐きだしたとき、古田の顔面に膝を入れるつもりだった。だが突然ドアをノックする音が聞こえ、張り詰めていたせいか「うわあっ」と叫んでしまった。その声に古田も「うわっ」と驚いて、カエルのようにひっくり返り、寸前だった梓馬の膝が空を切った。
ノックの主はドアを開けた。
「失礼します」
赤いカーディガンに、モノグラム柄ワンピースの女性が頭を深々と入ってきた。先ほどエスカレーターでぶつかりそうになった女性だ。
ここで働いていたのか、と梓馬は顔をしかめる。二対一という状況に戻ってしまった。
「休憩かい? 悪いんだけどこの部屋いまから使うんだよ。この男の子が万引きしちゃってね」
古田が体を起こしながら、状況説明を兼ねて女性に言った。
「やはり万引きですか……」
「最近の若い子はねぇ」
「近年、少年犯罪は減少傾向にありますよ」
女性はそう言うと、何事か考え込むように腕を組んだ。
今度はノックなくドアが開く。キャップをかぶったラフな男は店長の伊藤で、隣に中村もいる。
これで状況は四対一、小さな躊躇の連続が時間の浪費に繋がった。最善よりも最速が功を奏すシーンは多い。
「ふざけんなよお前さあ」
伊藤は開口一番そう言い、机を拳の底で強く叩いた。
「うわっ、お前なんでまだベスト着てんだよ」
中村も手を振り上げていたが、そこに梓馬がベストを脱いで差し出すとそのまま受け取った。
「すいません……」
梓馬は頭を下げたが、伊藤はそれを無視。即座に自分の要求だけを口にする。
「家の電話番号は? それと学校も」
「親だけは勘弁してください、学校もすいません。なんでもするんで、本当にすいません」
「ふざけんな、言わねえと帰さねえぞ。スマホだせよ」
伊藤は手近にあった椅子を強く蹴っ飛ばした。狙ったわけではないが、許さないという硬い意志が上手く表現されていた。
梓馬はスマートフォンを渡し、パスコードを訊かれた際にも自分の誕生日と西暦の組み合わせを正直に答えた。
伊藤は電話帳を開きながら、口も開く。
「学校どこよ」
「明条です……」
「本当かよ……」
不信感を隠さず伊藤は梓馬のスマートフォンを操作し続け、目的の番号を見つけた。
「この自宅ってのがお前ん家?」
そうだと答えれば即座に発信されると感じた梓馬は、跳ねるように土下座した。
「勘弁してください、本当にすいませんでした」
「いや、そういうのいいから、意味ないから」
伊藤が面倒くさそうに言い放ち、梓馬の自宅に電話を発信しようとした。
そのとき、赤いカーディガンの女性が咳払いでそれを止めた。
室内の視線すべてが白い肌に集まっていく。女性は見られることに慣れているのか、物おじない態度で腰に手を当てている。
「お支払いをすれば済むでしょうか」
難しい文法のない言葉だったが、誰もが理解しかねていた。伊藤が単純な疑問を口に出す。
「誰?」
「私は加賀美朱里です。通りすがりの者です」
「ええ、関係者じゃないの」
古田がすっとんきょうな声をあげる。ここに部外者を入れないことも仕事の一つだったからだ。
「そうなんです、ごめんなさい」
朱里はそう言うと、手にかけていた籐のバッグから財布を取り出して、滑らせるようにクレジットカードを出した。
伊藤は黙ったまま、朱里とカードを交互に見つめる。中村がそうだったように、こういった状況に慣れてもいなければ、万引きに対する哲学というものもない。本社勤務やバイヤーになるという夢を諦めきれない、ただの販売員だ。
室内の誰もが言葉を失っていた。こういった特殊な申し出があったとき、どう振る舞えばいいのか習うことがなかったからだ。
朱里はさらにクレジットカードを押し付ける。ここで伊藤はカードのグレードに意識が向いた。そして袖から覗く過剰な量のブレスレットやリングもまた、ワンピースと同じ高額なアイテムだということにも。
朱里は最後の一押しとして、手元をごそごそと動かしていた。バッグからなにかを取り出したが、梓馬からは死角で見えなかった。
朱里は取り出したものを伊藤に見せながら、
「私は面倒くさいですよ」
と少し笑う。
伊藤は取り出されたものとカードを交互に見たあと、大きくため息を吐いた。
「このカードは本当に使える?」
「試せばわかることです」
「じゃあ処理してくるから」
「ありがとうございます」
腰が折れそうなほど頭を下げた朱里に対して、梓馬はただ椅子に座っているだけだった。
伊藤と中村は出ていき、室内には梓馬、朱里、古田という三人のみ。梓馬は意味がわからず、しかし朱里に問いかけることもできなかった。
もちろんどんな事情で助けてくれたのか、気にならないわけではない。ただ、そのことを古田のいる前で訊きたくなかった。
しばらくすると、中村がMサイズのショップバッグを携えて現れた。一瞬、どちらに渡せばいいのか迷ったようだが朱里に渡す。
「あ、ここにサインお願いします」
どういったテンションで言えばいいかわからない。そんな中村の声は、やや丁寧だったが、一通りの工程が終わると最後には、「またお越しくださいませ」と言ってしまっていた。
「じゃ、行きましょうか」
朱里は明確に、梓馬を見て言った。
「はい……」
梓馬はそう言うと、突き出されたショップバッグを無様に受け取った。
朱里はとことこと進み、エスカレーターに乗った。梓馬もそれに付き従うがしばらく歩いたところで、もしかして先ほどの「行きましょうか」は、この部屋から出ようというだけの意味だったのではと思い始めた。