雲覆う谷間の影には(松本花編) その2
このチェーン店は、ドリンクを薄めて利益を稼ごうとはしていない。万人に愛されるには、百点を狙うのではなく七十点を狙うのが正解だからだ。
むしろこのチェーンはコストパフォーマンスを売りにしており、それはフードメニューに顕著にでている。
周囲を見渡せば、ボリュームのあるサンド類やシチューセットが、どのテーブルにもある。コーヒーの三九〇円という低価格に対して年齢層が高めなのは、ドリンクのみで来店する人間が少ないからだ。
いまもちょうど日曜だというのに、疲れた様子のサラリーマンが入ってきた。
よほどの疲労があるのか、まるで斜面を登るような足取りだ。重そうなカバンは、底が地面にこすられている。しかし眼光は警戒色を灯しており、社会の厳しさを体現していた。
そのサラリーマンは窓際のカウンター席に案内されたが、カバンを持ち上げて見せてから、四人がけの席を希望した。
そして店員の返事も待たず、自ら梓馬と沙月の後ろの四人がけの席に座る。
少しも困った顔をしなかった店員に、梓馬はただただ感心した。自分なら態度に出てしまいそうだと。ここにもまた、社会の厳しさが体現されていた。
そしてそこから数分ほどすると、娘とその母親と思われる二人組が入店してきた。
沙月は筋張った首を動かしてはアングルを変えて、「あれ、なんで」と漏らしている。
入店してきた松本花はその様子に気付くと、こちらに向かって歩き始めた。背後に女性を伴いながら。
「五十嵐さん久しぶり」
「こちらこそ久しぶり。松本さん元気だった?」
松本花は答えながら、ふわふわした雲のようなマフラーに手をかけた。だが梓馬を見て目を見開くと、マフラーにかけていた手を止める。やがて発生された声は、少し詰まっていた。
「ん、まあまあ元気かな」
座っていた梓馬も同様に、松本花の後ろに立つ松本母を見て、喉を詰まらせていた。
すぐに虚偽の説明をするつもりだった。自分は沙月の彼氏です、と。それができなかったのは、異様な展開に飲み込まれて硬直していたからだ。
そして同時に、沙月を自分の隣に座らせておいて本当に良かったと思う。もう少しで、自分の隣に松本母が座るところだった。
「そちらの方は松本さんのお母さん?」
沙月が質問すると、その女性はぬっと前に出てくる。
「花の母です。ごめんね、おばちゃんまでついてきちゃって」
ぬらりと笑顔を見せた松本母に、梓馬は得体のしれないものを感じた。
「いえいえ、あたしも変なの連れてきちゃってますから」
沙月も笑顔を引きつらせながら応じた。
「五十嵐沙月の彼氏です。市原梓馬です、よろしく」
梓馬も顔を引きつらせながら笑顔を作り、真っ赤な嘘を述べた。
隣でがたりと鳴るテーブルの音と、こちらを凝視する気配が怖い。それでも梓馬はそれらを無視して、軽薄かつ陽気な笑顔を維持する。
これほど表情が不揃いの席もないだろう。久しぶりの会合に、招かざる供をお互いに連れてきた二人の女。これからいったいなにが始まるのか、予測することができなかった。
「ほんと懐かしいね。松本さんは確か文芸部だったっけ」
「うん、そうだよ」
多少強引であっても口火を切れば、会話の主導権は握れる。朱里を妊娠させた男は未来や現在よりも、過去の話に出てくる可能性が高い。
「文芸部では誰と仲良かったの?」
「米ちゃんとか、美月ちゃんかなあ」
朱里との親交リストにある名前は一つもなかった。
梓馬はその動機と、自分がなぜここにいるかを誤認させるために発言をする。
「文芸部って男子とかもいたんですか?」
「いたけど」
花は態度を硬変させ、ぶっきらぼうに答えた。
「へえ、男子で文芸部って珍しいな」
「そうかな……」
テーブルを覆う空気に少しの変化があったことを、梓馬はしっかりと気付いた。特に重要なのは、「いたけど」の「けど」の部分だ。なにかを隠しているのは言うまでもないが、松本母の顔色が変わったのも見逃せない。
梓馬はそれらの要素から、松本家は男関係に厳しいのかもしれない、と予測する。それならば自分の存在が、松本母を呼び寄せた可能性が高い。だが次の瞬間には、違うと気付く。
沙月は自分に連れがいることを、ここで告げた。変なのを連れてきたと謝っていた。だったら女同士で会うとしか思っていなかったはずだ。ならばなぜ、母親がここにいるのか。
「男子ってちゃんと本とか読めるの?」
沙月がどういう偏見を持っているかはともかく、目的どおりに男関係に話を進めていく。
「読むよ。アニメの小説とかが多かったかな」
「ああ、郷田が読んでそうなやつとか?」
「郷田くんも文芸部だよ」
二人は少し笑った。どうやら郷田くんには、不当な評価がされているようだった。
「松本さんは郷田と話してたりしてた?」
「女子と男子は、まったく口利いてなかったね」
松本花の返答は、まるで自分が含まれていないかのようだった。自身と郷田のことを訊かれて、女子と男子に主語をすり替えている。
違和感を持った梓馬は、直感で松本母を見た。なにか情報が取れるかもと思ったからだ。
松本母はちょうどブレンドに口をつけているところだったが、マグカップで口元が見えない。
多分、いま心の中でしゃべってるな――
そう読んで眺めていると、カップの縁越しに松本母と目が合った。眼球の動作がゆっくりで、ぎくりとする。慌てて目線を逸らした。
視界に映るのは松本花。なにか、普通の人とは違う雰囲気を持つ女性だった。
黒い髪は一本いっぽんが細く、まるで一枚の布のように見える。化粧はしていない。肌は青白く整っているが、目の縁が茶色くくすんでいる。
雲のようなマフラーの前面についたタグは、いわゆるプチプラと呼ばれるブランドのものだ。毛羽立っていることから、ずいぶん使い込んでいることがわかり、女の匂いが染み付いていそうだった。
着たままのダッフルコートはネイビーで、肩が小さい作りになっている。
昨今の流行はドロップショルダーなので、ずいぶん前に買ったものか、あるいは学校指定のものかもしれない。ネイビーという色からも、学校指定の線は強いように思えた。
以上のことから、松本花は自身の外見を気にしていない可能性が高い、と梓馬は結論付けた。文芸部を選んでいたという点と合わせて、自分だけの世界に引きこもるのが好きそうに見える。
だが沙月とのやり取りを見る限りでは、コミュニケーションが苦手というわけでもない。
ここまで考えて梓馬は、松本母がこの場にいるのは、沙月のせいではないかと思った。
ちらりと横を向けば、その奇抜さがしんしんと感じられる。ロックとパンクの違いがわからない大人から見れば、沙月という存在は、いかにも娘を悪い道に引っ張りそうな見た目をしていた。おまけに重そうな胸と煽情的な腰のくびれは、とても反社会的だ。
梓馬はまた少し態度以外を硬くしつつ、松本母は沙月という存在を、どの程度知っていたのだろうかと考えた。沙月は先ほど、松本さんのお母さんかと訊いていた。面識があったということはないはずだ。
「でも裏でこっそり男子と仲良くしてた子とかいたかもね」
沙月は、でも、から始めて、かもで締める。この言いようは、自分はこの話がしたくてしょうがないですと告白しているようなものだ。
「男子と? ないよ。現実の男なんてみんな興味ないもん」
「へ、へえ……」
苦しい相槌。郷田くんのアニメ小説を馬鹿にしたあとで、文芸部の女子も実は大差ないものを読んでいたことが明らかになれば、沙月もさすがに笑顔が引きつる。
ここで梓馬は、大まかに文芸部がどういうところだったかを掴む。想像していたよりも、ずっとライトな集まりだったのではないかと。
ならばここに、朱里を妊娠させた相手の手がかりがある可能性は低い。
その根拠は、自分がオタクに負けるわけがないというくだらない思い込みだ。学歴や将来性や家柄のことはまったく考えておらず、自身の偏見のコレクションしか参考にできていない。
梓馬は小さく咳払いをして、耳たぶを摘まむ。会話の方向性を変えろという合図だ。沙月はその合図に気付き、話を左折させた。
「うちのクラスも男子と女子、あんまり仲良くなかったよね」
「ああ、うちはほとんど外部生ばっかりだったからね」
梓馬はこの流れの鮮やかさに、素直に感心した。沙月をもっと馬鹿だと思っていて、下手をすれば耳たぶが千切れるかもと思っていたからだ。
そして耳たぶから指を離そうとしたとき、手が止まってしまう。
松本母がこちらの動作を見ていたからだ。
目の前の人間の小さな動作など、普通ならば注目することではない。しかし松本母は、梓馬の指と手が膝に戻ったあとも、耳たぶを凝視していた。ブレンドで口元を隠しながら。
意図が読まれたとまでは思わない。しかし観察されている可能性が高い。輪郭のない恐怖が、匂いとなって立ち込める。あまりにも胡散臭い。
いまこの場には、なにかルールがあるんじゃないのか――
梓馬はこの異様な状況を、日常の範囲内だと認識していた。こちらに目的があることを偽り、演じ切れていると思っていた。
だが状況は最初から、それに対してNOを掲示している。一番問題なのは、あちらも目的を隠しているということだ。
この場でなにが起きているのか。梓馬はそれを確かめるべく、自ら主導権を握ることにした。
「なあ、沙月と松本さんには、共通の友達とかいなかったのか?」
意図がなければ、地雷を踏む可能性が高い質問だ。この二人の薄氷のような関係性は、触ることすら躊躇われる。
だが、共通の友人がいると知っているからこそ訊く。いまこの場で隠されているものは、リスクを払うだけの価値がある。
沙月は明らかに固まった。松本花も同様だ。
梓馬はそれらを無視して発言していく。
「地蔵が突然しゃべってごめん。沙月と花さんがどんな友達だったのか、俺よく知らなくってさ」
クラスメイトだったということは、先ほどの会話でわかっている。それでも尚、関係を訊ねるのは、朱里の名前を使うという合図だった。
しかしさすがに沙月は気付かない。なにが起きているかわからないと、口をぽかんと開けているだけだ。
「クラスが同じだったの」
花がわかりきっていることを答える。共通の友達という質問には答えていない。沙月と朱里が友人関係にあったことを、知らない可能性が出てきた。
主導権を握り続けるため、梓馬はさらに質問を重ねる。
「へえ、沙月ってやっぱりクラスで浮いてた?」
「ど、どうだったかな……」
浮いていたらしい。やはりなと思ったところで、自分が犯したミスに気付いて沙月を見る。緊張した顔を松本花に向けたままだった。ならばと、話を続ける。
「でもクラス外には仲良かった子いたような。あの子、名前なんだっけ」
そう言って、梓馬は沙月に顔を向けた。
沙月も意図を察したのか、一瞬だけ目を暗くする。そして目尻を引き結んで、松本花の顔を覗き込んだ。
「加賀美朱里、だよ」
こちらの肝を見せることになる名前。沙月もその重要性を理解しているだけに、質問者である梓馬に対してではなく、松本花に向かって答えていた。
状況は沈黙。硬直している松本花と、思わず背筋を伸ばした松本母。
朱里の名前を出すことで、想定以上の反応を得た。これは明らかに危うい反応だ。
梓馬は空気を緩和させるために、なにかしらの弁明をしようとした。だがそのとき、視界に影がかかる。自分たちの頭上に、まるで大きな雲がかかったようだった。
違う、これは人の影だ。誰かが自分たちを、見下ろしている。
「君たちは加賀美朱里の友達か? いったいなんの用だ?」
梓馬と沙月の二人は、声の主へと揃って顔を向けた。そこには先ほど、一人で四人がけのテーブルを選んだサラリーマンが立っていた。目に暗い穴が開いている。
梓馬は質問には答えず、サラリーマンから目線を外すと、松本母を見て驚愕する。そこにもまた同様に、暗い穴の目があった。
この目はきっと、底なしの絶望を長時間見続けた後遺症だ。




