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断定された行方(市原梓馬編) その1



 この小説を、年を取れなかった渡見樹里に捧げる。






                    二〇二三年 四月二十五日  牟礼南極







1 断定された行方市原(いちはら)梓馬(あずま)編)


 母親は誰に命令されたのだろう。

 梓馬は同じ市原という苗字を持つ女を見ていた。節分に豆をまくのは一般的な家庭ならば不思議ではない。しかし心に隙間風吹くこの家では、あまりにうすら寒い儀式だった。

「鬼は外……」

 母親が真面目な顔で、キッチンの窓から豆を捨てた。父親も疲れた顔でリビングの窓から庭に豆を捨てる。梓馬も仕方なくそれに続いた。

 参加しなければ、母親と余計な会話をすることになる。小言どころか、溜息すら聞きたくなかった。

「福は内」

 豆がぱらぱらと、フローリングに乾いた音を立てる。そしてその豆を、母親は真面目な顔で拾い集め、口のなかに入れていく。

 目線が上を向いているのは、頭のなかで年齢と豆の数を合わせているからだ。白目を剥いているようで不気味だった。

 夕食は当然、イワシのつみれ汁と恵方巻が用意されている。加えて生野菜の切りっぱなしが、大きな皿に盛られていた。栄養バランスを考えているようで、実際は繕われている。

 家族全員で南南東を向く。食べ終わるまで無言、恵方巻は口から一度も離さない。奥歯の裏にたまっていく米粒は、溢れそうな本音とともに喉を詰まらせた。

 つみれ汁で一気に喉奥を流したいが、母親に話しかけられる隙を与えたくない。指摘される前に生野菜を箸で掴み、作業とばかりに口径接種していく。

 歯と頬の内側を使って緑黄色野菜をすり潰す。溢れてきた汁と水道水が、舌の上で無関心に広がった。ドレッシングは感情があるので使わない。

「あっくん、ちゃんとサラダも食べないとだめよ」

 母親は眉をひそめて言った。

 野菜を頬張っている梓馬は、咀嚼する口を止めてしまった。喉に熱い圧迫を感じるが、我慢して野菜もろとも飲み込む。なにを言っても無駄なことを、この十八年間で学んでいた。

「わかってる」

 かろうじてそう言うと、横目に映る父親が生野菜に箸を向けたのが見えた。

 だろうな――

 夕飯を終えて二階にある自室へ戻った。机には行かず、ベッドに大の字になる。伸びた喉が気道を確保すると、先ほど腹に収めた怒りが逆流してきた。それは口から出ていくと悲しみに戻った。

 もし自分が死ねば、と考える。きっと母親は号泣するだろう。しかしそれは息子が死んだとき、理想の母親は泣くべきだからだ。そして理想の母親は栄養面で注意することを怠らないし、遊ぶ友達も選別してくれる。性に関心を持つのはまだ早くて、しかし小遣いは周りよりも少し多くて、父親とも上手く連携し、井戸端では夫をATMとあだ名して愚痴り合う。

 誰かが書いた日本人という脚本は、おそらく中流家庭にだけ配られた。ほとんどの人間は、その中の一部を偏見として身に着ける。母親はそれが人より多かっただけに過ぎない。

 それゆえに梓馬は、母親に育てられはしたが、義務によるものだと思っていた。子供が自分でなくともよかっただろうし、科学で証明されれば、肌の色が違う子供だったとしても変わらぬ愛情を注ぐだろうと。

 梓馬は意識的に起き上がると机に向かった。立てかけてある写真を見る。そこに映るふたりは恋人で、顔を強張らせた自分と、クラスメイトの加賀美(かがみ)朱里(しゅり)が笑っていた。

 観覧車に乗ったあと、スタッフに記念撮影を勧められたときのものだ。ふたりとも食い気味に、お願いしますと声をそろえたのを思い出すと、自然と口角が上がっていく。

 そして心のなかに、観覧車での暖かいメロディーが流れた。その温もりは血管を通り、また心へと循環していく。

 こんな単純なことで胸から幸せが零れた。人間は一度に二つの感情を持つことができない。梓馬の意識が未来方向へと流れていく。おそらく数年内に、自分は同棲するという楽しみの方角。

 ここのところ朱里は不動産屋の前を通るとき、目線をよく変える。窓ガラスに並ぶ物件の詳細を見ているのが明白だった。

 梓馬はそれに気付かない振りをして、自分もまたどんな部屋がいいかと考えていた。

 空想で朱里と暮らす部屋はいつもボロアパートで、幸せを置くスペースがないほど狭い。でもそれでいい。どんな広い部屋だったとしても、人間ふたりが肩を並べられるスペースがあればいい。

 妄想を泳ぐ、体が熱を帯びていた。机に戻る気力が湧いてくる。受験を上手くやりさえすれば、残りの人生すべてが保証される。

 ベッドから立ち上がり椅子に座り、開かれた参考書のページから三十分前の自分がなにを考えていたかを思い出していく。

 すると蘇ってくるのは現実感で、途端に自分がなにも成せない人間に思えてきた。だがこれがいつもどおりだ。折れたままの心で今日まで歩いてきた。

 梓馬は世界史の文化史ノートに手を伸ばしたところで振動音を察知、スマートフォンに通知が着ていることに気付いた。

 五十嵐いがらし沙月(さつき)からの着信が五十八件とメッセージが一件。嫌な予感は働かず、薄い疑問を持っただけだ。

 沙月は朱里の友人でしかなく、普段から連絡を取り合うという関係性でもない。なんだと思ってみても意図は読めず、ともかくと、スマートフォンに恥ずかしいパスコードを打ってロックを外した。


 件名なし

 朱里が車に轢かれた

 総合病院にいる早くきて


 それだけだった。梓馬はしばらく食い入るように文面を見ていた。人間が車に轢かれるとどうなるのか、上手くイメージができない。頭の中に嫌な予感が無数に浮かんでいく。

 そのなかから後遺症という単語をフォーカスしたとき、たまらずに沙月に電話をかけた。しばらくかけ続けたが出る気配はない。なぜ出ないのかという怒りで、スマートフォンの画面を睨みつける。そこで梓馬はようやく電話に意味がないことに気付いた。

 沙月が電話に出たところで、朱里の容態にどんな変化も起きない。

 着の身着のままで財布だけを持って飛び出す。車庫から自転車を引っ張りだして、駅の方向へと走り出した。沙月の電話と同様、自分が病院に行っても朱里の容態が変わらないことに気付かぬまま、住宅街を駆け抜けていく。

 ペダルを強く踏むごとに前髪と景色が流れる。駅でタクシーに乗る算段だったが、夕方のこの時間にすぐに乗れるのかわからなかった。

 サラリーマンの帰宅時間を考えれば、駅に人間が多い時間ではある。だが雨が降っているわけではない。大丈夫だろうと思いながらも、梓馬はそこで思考を止めなかった。どんな些細なことも断定しない。

 タクシー乗り場に人が並んでいれば、恋人が事故にあったと大声で叫ぶ。人々が驚いている間にタクシーに乗り込んでしまえばいい。

 わざわざ文句を言いに来る人間もいないはずだ――

 梓馬はそう決めると、いつもは自転車を押して登る坂道に、体全体で立ち向かっていった。中腹まで立ちこぎでなんとか辿り着くと、蕎麦屋とカフェの前に、ハザードを焚いている一台のタクシーが見えた。即座に近づいて自転車を乗り捨てる。

 開いたドアの隙間から流れ出る加齢臭、乗客が支払いの途中だった。

「恋人が事故にあいました。総合病院まで」

 自分の声を聞いて、どこか芝居のように思えてしまう。

 乗客の男は腰を曲げながら、手刀を切りつつ急いで降車してくれた。入れ替わるように梓馬が乗り込むと運転手は、白い手袋をつけた手で帽子を深く被りなおしながら言った。

「急ぎます、シートベルトを」

 アクセルの加速は急で、背中が座席に沈んでいく。そのせいで梓馬はシートベルトを上手くつけることができなかった。

 陸の嵐の中、ただ己の腕力で掴む命綱。かちりという音が聞こえると、梓馬の手は自然と胸の前で組まれていた。いくつか浮かぶ最悪の事態、せめてそれらよりも良い状態でありますようにと。

 タクシーは飛ばしていた。車窓の外では、他の車が後方へと流れていく。すれ違う対向車の質量は鉄の車体を振動させ、こんな物体がこの速度で朱里の細い体にぶち当たったと思うと、人間の体がどうなってしまうのか想像がつかなかった。

 タクシーの急速な進路変更のたびに、何度も体が外側に倒れる。同じように心も振り回され、内臓だけが渋滞する。そうして病院が丘の上に見えたとき、沙月から着信があった。

『ねえ……』

 泣いているのがわかる声だった。これまでの沙月の印象からは想像もできない声の色が、最悪の事態の輪郭を色濃くしていく。 

『もうすぐ着く。朱里は大丈夫なのか』

 そう問うて、返事を待つが聞こえない。緊張が耳に集まっていく。あまりの答えのなさに、梓馬は自分の耳がおかしいのかとも思った。

『なにか言ってくれ』

 梓馬は恐怖心から責めるような声になっていた。そのとき、これまで考えもしなかった事態が脳裏に浮かんだ。それは暗い穴だ、とても深い。

『頼むからなにか言ってくれよ』

 梓馬の怒りは混乱に変化し、誰もいない座席に拳を落とす。そしてようやく聞こえてきたのは、荒れた泣き声と収まりそうもない嗚咽だった。

 それもまた梓馬を苛立たせた。

『おい、どっちなんだよ』

 いつの間にか、身体機能の欠損、あるいは死亡のどちらかが朱里に起こったということが確信に変わっていた。すると不思議なことに、ほんの数分前は後遺症ですら最悪の事態だったというのに、いまでは朱里の身体の欠損を望んでいる。

 なくなるものは視力でも味覚でも、歩行でも言語でも構わない。例え子供が作れなくなったとしてもまったく問題ない。

『ただ命だけ、それだけ残してくれれば……』

 願いが口から漏れると、通話が切られた音がした。

 運転手は声が聞こえたのか、タクシーはさらにスピードを上げる。景色が流れ、残像がヘッドライトを伸ばしていく。

 梓馬はなぜか、バックミラーに移る自分の顔から目が離せなかった。初めて見る他人のような自分の顔。尖った顎がいつもより鋭利に見えていた。

 総合病院の来客用の駐車場に入るもタクシーはそこで止まらずに、わざわざ病院の入口に着けた。入口に座り込んでいる人影は特徴的な白に近い金髪で、五十嵐沙月だということがすぐにわかる。

 梓馬は一万円札を渡してタクシーから飛び出すと、こちらに顔を上げない沙月に声をかけた。

「どうなってるか教えてくれ」

 沙月は電話よりも落ち着いているのか、たどたどしく話し始めた。

「いま……親族だけって」

 どうとでも取れる内容だった。

 もどかしくなった梓馬は沙月に顔を近づけ、言い含めるように訊ねる。

「おい、朱里は大丈夫なのか?」

「……し、し、し」

 沙月はそう言いかけると、また嗚咽に支配されて喋れなくなってしまう。朱里と言おうとしているのか、状態を言おうとしているのか。梓馬は拗音の気配がなかったことで質問の方向性を決めた。

「視力を失ったか?」

 沙月は首を横に振る。

「植物状態になったのか?」

 沙月は首を横に振る。

「じゃあ……」

 梓馬は次に心肺停止という言葉を思いついて、重い躊躇いを感じた。その重量に耐えきれず首が傾く。そのせいで頬に熱い軌跡を感じ、自分が泣いていることに気付いた。一度そう自覚すると、両足が震えていることにも気付く。膝が折れてぺたりと座り込むと、梓馬はようやく最後の質問をした。

「朱里は生きてるのか?」

 沙月は首を左右に振った。


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