-あなたに出逢えてよかった。
※冒頭およそ3,000字のみ特別公開 2024.1.8
3,000字→10,000字にパワーアップ! 2024.1.14
「あたし…死ぬわ。」
最愛の恋人の口から告げられる。
またそんな事を言って…。
少し面倒に感じながら、まだ成人したての幼気のあるその顔にそっと口付け彼女の瞳を見つめた。
「そんな事、嘘でも言っちゃダメだ。」
「でもっ…あたしなんか…あなたと釣り合わないっ…。」
「ううん、そんな事ないよ。みゆきは俺にとっての1番の彼女だから、これからもずっと一緒がいいよ。」
こんな感じの会話を何度繰り返した事だろうか。
彼女とは付き合い始め数年が経ち結婚をした。
今は彼女のお腹に赤ん坊がいる。双子の女の子だ。もうすぐ“パパ”になる自分。
嬉しくも恥ずかしい自分。
帰宅の足も軽やかになる。
赤ん坊を身に宿してから彼女は“死にたい”という発言をしなくなった。
自分だけの身体では無くなったからだろう。
『“母親”としての責任と“妻”としての自覚』
この2つが彼女が今持つ責務。
それをハッキリと自覚しているからだ。
あぁ…あれは何年前のクリスマスだったか。
初めて彼女と心も身体も繋がった日。
「ね…ちゅー…して?」
甘い声でねだられ、蕩ける様な快感にお互いに身を委ねる。
「ねー、一緒に遊ぼうよ!」
海に行った夏。彼女は日焼けなんてお構いなしにはしゃいで、水着の日焼け痕を作って泣きべそをかいていたっけ。
「ど、どう…かな?似合う?」
新年には一緒に初詣に行った。
彼女は着物を着て来てくれた。いつもとは違う雰囲気に魅了されていたのは内緒だ。
「誕生日おめでとっ!」
そう言い彼女がくれたプレゼントというのは暖かなマフラーだった。
俺の誕生日はこれから冷え込む11月。
彼女なりの気遣いと誕生日を覚えていてくれていたという嬉しさに、涙を流して彼女を困らせたのは恥ずかしい思い出だ。
「チョコレート…作ってみたんだけど美味しくできたと思うから!」
照れながら渡してくれたチョコレート。
何故だか苦かった。きっと溶かす時に焦げたのだろう。ホワイトデーには甘いチョコレートを差し入れた。
めぐるめく。
何年彼女とは共に過ごしたか。
ずっとそばにいたい。
支えたい。彼女からの愛が欲しい。
何故今日はこんなに彼女からの沢山の愛を、“思い出”を思い出すのだろう。
普段忘れているわけでは無いが、まるで走馬灯のように沢山の思い出が走るだなんて事は今まで無かった。
心の片隅に置いてあるその思い出を、ふとした時に少し、また少しと思い出し、微笑み合うのが俺たちの生き方だったからだ。
…
そんな時警察署の方から電話が来た。
警察から電話なんて、俺…なんかした?
慌てて出ると一言告げられた。
いや、一言では無い。
ただ冷たく業務的に言い放たれたのだ。
「奥様が亡くなりました。」と
急いで警察に告げられた病院に向かう。
そこは少しボロくて、暗くて、幽霊の類が苦手な彼女が1人その場にいるんだと思うと、早く向かってやらなくてはという気持ちに急かされた。
警察と病院で合流して、遺体留置所にて確認を…と言われるかと思ったがそんな事はなかった。
確認前に聞かれたのだ。
「奥様は損傷が激しい為、必ずしも確認しなくてはいけないものではない」と。
それでも見るべきだ。確認すべきだ。
真実は自分の目で見たものしか信じない。
もしかしたらみゆきではないのではないか。
頭の片隅でそう…願っていたからだ。
「では、お願い致します。」
警官はそう言い、棺掛けと呼ばれる顔を覆っている白い布をめくった。
あぁ、赤黒く腫れ上がった顔、朝見た彼女とはかなり違う顔。
だけれど間違いなくこの女性の遺体は彼女。
変わり果てたその姿に涙が溢れた。
なぜ、どうして。
神がいるとしたら残酷だ。
なぁ、なぜみゆきがこんな最期を迎えなくてはいけない。
そもそもなぜみゆきだったんだ。
確かに“昔”は死にたいとよく口にしたものだ。
それは“今”ではない。
警官に支えられ留置所を出る。
あれ…そういえば娘たちは?
同じくこの病院にある小児病棟にて人工呼吸器に繋げられ一命を取り留めたそうだ。
妊娠32週だった。間違いなく早産である。
自力で呼吸をすることができるかできないか、と言ったくらいだ。
「赤ん坊が生きているのは奥様が母親として守った奇跡だ」と警官は言っていた。
ただ、生きているのは1人。
もう1人の娘は死んでいた。
そう聞き再び涙が出る。更に事故の衝撃と早産の為生き残った娘でさえ会えないと告げられた。死ぬ可能性がまだ、充分あるからだそうだ。
“パパ”は今は会いにいけないけど、絶対会いにいくから、絶対君を幸せにするから生きていて。そう願った。
今度は警察署に連れて行かれ、彼女たちの死因についてを聞いた。
まずは全貌。
トラック追突の事故だったそうだ。
目撃者によると、信号を渡る途中でつわりのせいか、倒れてしまったみゆき。
信号は倒れてからも青だったが、いつ赤になるかもわからない為、近くの人たちで歩道に移動させようとした矢先に居眠り運転のトラックにより轢かれたとの事。
その時助けようとしてくれた人たちに、軽傷者はいたものの、大事には至らなかったそうだ。その事に関してはほっと胸を撫で下ろす案件だろう。
お腹の中にいた赤ん坊はつわりで倒れた時に衝撃が与えられ、不安定になった。
その後母体が轢かれた衝撃とショックにより1人の娘がショック死、もう1人の娘は最初は瀕死状態だったが、そこから奇跡の復活を遂げた。
みゆきはつわりにて倒れた後、何とか歩道に向かおうとしていたそうだ。
だが轢かれた事により、首の骨を折り、即死だったそうだ。苦しまず逝けたのは不幸中の幸いだろうか?
彼女は亡くなる直前何を想っただろう。
俺の事だろうか。娘たちの事だろうか。
…それとも未来の事だろうか。
いや、天然ボケな性格だ。案外何も考えていないのかもしれない。
…いや、娘たちを守ったと警官は言っていたな。娘たちの事を考えたのか。
こんな危機に妻と娘たちが遭っている最中俺は何をしていた?
そうだ、仕事をしていた。
あんなにも苦しんだ場面で俺はそばにいてあげられなかった。
“なにがこれからもずっと一緒がいいよ。”だ。
大事な時に居ないじゃないか。
やるせない。何をすれば。
そうこうしていて俺がぼーっとしている間に、みゆき側の親族があっという間に豪華な葬式を用意してしまった。
そんな葬式当日にスーツ姿で来たのだが、どこかだらっとした乱れた姿になってしまった。
みゆきの親族から「ほれみろ、だから素性も知れぬ男に渡すんじゃなかった。お見合いで結婚させるべきだった。」と聞こえる。
「どのみち跡取りになる息子を産めなかったそうじゃないか。そんな奴はどうにでも…」
…流石にその言葉は撤回して貰いたい。
だが今の俺には何も言う資格さえない。
みゆきの生家は大企業を運営している。
つまりみゆきは大企業の令嬢なのだ。
現在はみゆきは一人っ子の為跡取り不在の状況だ。ちなみに俺は婿養子にして貰えなかった。お見合い以外は嫌なのだそうだ。
息子が生まれたらきっと搾取され、自分の母親が自身の息子として教育をすると言っていた。
その為女の子を産みたいのだと懇願していた。彼女はネットで調べて確率上げをしていた。
それに効果があるのかはわからない。ぶっちゃけ信憑性無いし、気の持ち用的なものだろう。俺は産み分けだなんてよくわからないからなんとも言えないが。
でも実際に女の子を2人もその身に宿した。
努力が実ったのだ。それをこうも悪口として言うだなんてどうかしている。
人の努力を踏みにじった発言ほど罪深いものはないのだから。
「ご機嫌よう。椛さん。」
椛とは俺の事だ。そして声を掛けてきたのはみゆきの母親…つまり俺の義母。
「ご無沙汰してます、お義母さん。」
「あなたにお義母さんと呼ばれる筋合いは無いわね。なんせ娘のみゆきは死んだのだから、婚姻関係は消えた…私たちはもう赤の他人よ。」
…冷たい。みゆきの家族・親戚は皆冷たい。
金があり、権力がある。
贅沢な暮らしをしているだけに女を手に入れるのも容易く、またこの義母は一時期ホステスに溺れていたとみゆきは言っていた。
つまり男を手に入れるのも容易い。
だからこうして跡取りの事だけを考えているのだろうか。
跡取りだけは金では生み出す事はできないから。
「それにしても…。」
義母が口を開いた。
「よくもあなたはみゆきを殺してくださいましたね。」
みゆきを…殺した?俺が?
なぜそうなってしまうんだ。
「不思議そうな顔をしていますけど、あなたがみゆきに買い物に行かせたのが悪いんですよ?みゆきはつわりが酷かったんでしょう?2人も子供をその身に宿して居るのです。足元はお腹で見えませんから歩きづらさなどもあるのですよ?」
あ…確かにそうだ。
なぜ俺は気が付かなかったのだろう。
事故が起きる数週間前のことだ。
「お腹、だいぶおっきくなってきたね。」
「椛くんの可愛い女の子が2人もここに居るんだもの。ちょっと足元見えなくて怖いけど、あと3ヶ月くらいかしら?頑張るわ。」
…そうだ、足元が見えなくて怖いと言っていた。なのに俺は“仕事が忙しい”という理由で買い物にも行けなかった。いや、行かなかった。行こうと思えばいつだって行けた。
疲れていても、彼女の妊娠による疲れに比べればまだまだ頑張れたはずだ。
身体に鞭を打ってそれくらいは行けたはずだ。
彼女が買い物に行くと言った時に止めれたはずなんだ。あの事故の朝だって…。
「卵があと少しで無くなっちゃいそうなのよ。ちょうど朝食用のパンも無くなりそうだし買わないといけないわ…。」
「ん?それなら仕事帰りで良ければ行くよ。卵とパンね、他になんかある?」
「んーん、大丈夫よ。今日は何だか清々しい気分なの。いつもより体調が良い気がするわ。」
産婦人科の主治医にはつわりが酷くない時には家の周りを歩くだけでも運動をした方が良いと言われた。
最近みゆきはつわりが酷くて家の外に出ていない。お風呂も2日に一度だが、俺の介助有りでやっと入れる。とはいえ湯船とかには浸かれない為、洗うだけにはなるが。
そんな調子のみゆきが清々しい気分だと言った。幸いにもスーパーはそれほど遠くない。行って帰って来るだけなら丁度良い散歩になるだろう。
買いたいものは卵とパン、それから俺の昼ご飯の弁当用にミニトマトが欲しい為にこの3つだけ買うとの事。
「ミニトマト…かぁ、俺昔からトマト嫌いなんだよ。」
「ダーメ!野菜ちゃんと食べないと身体悪くしちゃうよ〜?」
野菜は嫌いではない。
トマトが嫌いなんだ。
「お弁当って茶色になりがちだからトマトを添えると綺麗になるの!我慢して食べてね」
…これも試練、愛だ。
よく同僚には愛妻弁当について弄られる。
…それも含め試練だ。
「んじゃ、仕事行ってくるわ。スーパー以外家を出ないでね、身体あったかくしてテレビでも見ててね。」
玄関口で弁当を差し出される。
「いつもありがとな。」
「いーえ!こっちもありがとうだよ。いつも残さず食べてくれるから嬉しい。」
そして行ってきますと言って口付けた。
出掛ける前にキスをするのはいつもの流れである。
どうやらすると事故に遭いにくくなるらしい。それから行ってきますとおやすみは必ずするようになった。
キスというものには鎮痛作用もあるらしい。長生きもできるらしい。何より幸せになるらしい。どこまでが本当かなんて知らないが、まぁみゆきがしたいならする。
…といいつつ俺もしたい。
電車に揺られた。
この時間の電車は人が多くて圧死しそうだ。
そうしてなんとか会社に辿り着いた俺は仕事に一息ついた頃、愛妻弁当でやる気を満たし、仕事を終え、帰宅中に警察署の方から電話…という1日だった。
……。
「心当たりがあるんでしょう?」
その一言で一気に現実に戻された。
みゆきの葬儀中に義母と対話していたのだった。
「あなたが、殺したんですよ?私の愛する娘を。あなたが買い物に行っていれば…!」
そこで葬儀屋にお義母さんは回収されていった。ヒステリック気味になり、俺と喧嘩になると感じたのだろう。
泣き叫ぶ義母にため息を吐いた。
あとで葬儀屋に聞いたが、早くに娘を亡くした母親は、よくその娘の旦那に八つ当たりし、葬儀を台無しにするそうだ。
葬儀屋も大変だな。
お坊さんがお経を唱えた。
皆で彼女の永遠の眠りを願う。
棺桶に皆で花を添える。
棺桶で眠るみゆきを見た瞬間涙が溢れそうになったが我慢した。
棺桶に涙を入れると天国へ行けなくなる。そういう話を昔祖母にして貰ったのを覚えていたからだ。
棺桶の中で静かに眠る彼女。
遺体確認で見た時の赤黒く腫れ上がった顔とは違って、いつもの彼女だった。
ベッドで俺の横で眠っている時と全く同じ表情だ。本当に彼女は死んでいるのか?単純に長く眠っているように見えて仕方がない。
今にも「椛くん、おはよ!いっぱい寝ちゃったみたいね…えへへ」と笑って起きてきそうだ。
これは“エンバーミング”という技術なのだとそう葬儀屋は言う。
みゆきのように損傷をして亡くなった人に修繕をし、生きていた頃のような姿を再現する技術の事。
遺体が腐敗しないよう薬剤を注入したり、遺体を洗って綺麗にして…そう、遺体をきれいにするというのが“エンバーミング”だ。
その為、“エンバーミング”専用の化粧品も存在するとの事。
みゆきも化粧をされていた。
着ている服はウエディングドレス。
どうしてもこの服を着せたいと義実家に頭を下げた。
なぜこの服を死装束として選んだかはかつて婚姻届を届けに役所に行った時の会話を思い出したからだ。
「はぁ〜これで受理されたら晴れて私たちは夫婦だね。」
「そうだね、ここまで長かったな。」
「お母さん、最後まで納得してくれなかったもんね。証人になってくれなかったし今も納得してなさそうだよ…。」
「んー。まぁそれは少しずつ俺が頑張って納得させるよ。ところで、結婚式挙げられなくてごめんな。昔俺の姉が言ってたけど女の子の憧れってやつなんだろ?」
「確かにウエディングドレスは憧れるけど、いいの!写真撮るだけ…とかさ。」
その後ドレスやタキシードを着た俺たちを被写体に、記念撮影はしたものの式は行ってない。
それから数年後。みゆきが出産して落ち着いた頃に式を挙げる計画を二人でしていたのだ。
そんな矢先の事故。
まるでジェットコースターだ。
出産や結婚式といった幸せの絶頂からの急降下。とても疲れた。
でも、みゆきの事を想うともう少し頑張らないといけない。だから頑張った。
“女の子の憧れ”を叶える為に俺が出来ること。
みゆきの実家の人たちを説得してウエディングドレスを死装束として着せる事だ。
義母はやはり説得に時間を有する…と思っていたのだが、綺麗な姿で旅立って欲しいこととかつて自身もウエディングドレスに対して憧れを抱いていたが、結局着ることは叶わなかった事から、意外にも気が合った。問題は義父だった。
お堅い父親。しかもウエディングドレスの憧れなんてものはない。
若くして亡くなった娘を綺麗な姿で送ってやりたい…その気持ちはあるようだが、どうもみゆきに関心がないと見受けられた。
葬儀まで時間はない。
義母は直ぐに納得してくれたが、義父を説得している様子もない為、俺がどうにかするしかない。
妻を亡くし、生まれてくるはずだった娘を1人亡くし、良好ではない義両親…主に義父をどうにかしなくてはいけない。
落ち込んでやるせない気持ちでいっぱいで、塞ぎ込んでもおかしくない状況で、みゆきにウエディングドレスを着せるという目標だけを頼りに突き進んだ。
ドレスは女の子の憧れであること。
もうすぐ式を挙げるはずだったこと。
そして葬式に対する思いを熱弁した。
葬式に対する想いというと大層なことに感じられるが、単純に“葬式とは故人と作る最後の思い出”であること。“葬式とは故人の最後の願いを叶えてやる場”であること。
それを熱弁したのだ。
そうしたら渋々ではあるが許可してくれた。
“エンバーミング”は義父へ熱弁する際にしれっと教えたら出資してくれた。高いのだ。20万はした。
“エンバーミング”により綺麗になるとは聞いていたが、あまりにも美しく、俺が愛した女の子がそのまま眠っていた為、思わず棺桶の前で泣いた。
ちなみに俺は“エンバーミング”は詳しくない。この技術を教えてくれた姉の方が詳しいだろう。
そして俺は“綺麗になる”としか聞いていなかった為、先程葬儀屋に説明されて知ることが多かった。
そして“エンバーミング”の1.5倍はウエディングドレスにかかっている。
こっちは頑張って自分で買った。
結婚式をする為に貯金をしてて良かったと一番思った瞬間だ。
「それでは今から火葬を行いますので…。」
葬儀屋の声と共に皆が移動を始める。
斎場と別の場所に火葬場がある為、車で少し移動をしなくてはいけない。
基本的にどの葬儀屋もそんなものだろう。
当たり前だが、火葬をするのには時間がかかる。
故人の体格によって細かな時間はあるが、短い時間ではない。
…気まずい。
みゆきの親族と同じ空間。それも、さっきは葬儀中の為忙しく、話している余裕はそこまで無かったが、この1時間何をすべきか。
そこで電話が入った。
病院からだ。妻の遺体が安置されて居た場所。そしてたった一人の愛娘が入院している場所だ。
娘には相変わらず会うことが叶わなかった。
まだ彼女が生まれてから一度も会っていない。
待合室を出て、人気のない場所へ急いで向かい、電話に出た。
内容は主に二つ。
悪い知らせはなかった。
いや、娘の名前を付けて戸籍を作るのをそろそろやらないとまずいと言われた事が強いて言えばの悪い知らせか。
なんと言っても時間がないのだ。
みゆきの葬儀で低いっぱいなのだ。
ともかく名前を決めなくてはいけない。
女の子の名前というのはどういうものなのだろう。
みゆきから文字を借りたい。
俺とみゆきにはどちらも“み”という字を使っているから“み”を使った名前を作りたい。
「み…み…。」
ふと窓ガラスが気になった。
百面相になっている自分が写っている。
悩む。
みあ、みい、みう、みえ、みお。
取り敢えずあ行を当てはめてみたけどしっくりこない。
小さな音でスマホのアラームがなった。
もう1時間経ったのか。
予定ではあと15分後には火葬場に移動だ。
急いで待合室に向かった。
着いたところで係の人も来た。危なかった。
説明によると収骨は歯や喉仏など主要なものを拾い、小さくなった骨をいくつか拾って骨壷に入れるそうだ。
喉仏は1番大切な部分。
綺麗に残ってると天国で幸せに過ごせる…って聞いたことがあるな。
そして1番故人に近い配偶者が収骨する。
みゆきの場合俺か、みゆきの両親か。
「喉仏、綺麗に残ってますね。」
担当の葬儀屋はじっくりと観察する様にみゆきの遺骨を見てからこちら側に向き直った。
みゆきは周りより少し小柄な女の子。
そのせいか燃えずに残ったそれは小さな身体を思い起こす様にそんな多くの量ではない。
俺は仕事の付き合いなどで仲良くなった人が亡くなって葬儀に参列した事はあっても、火葬まで立ち会う事は一度もなかった。
両親だって健在だ。きょうだいだって少しうるさいが知識が豊富で自慢な姉のみ。
ペットを飼った事もない。
だから必然と経験する事がないのだ。
まだ暖かなみゆき。
箸を伸ばした手にほのかな暖かみが伝わる。
みゆきの心が伝わる。
彼女の優しさが、強さが…。
そして願いが伝わる。
骨壷に喉仏を収めた。
その瞬間、あれほど悩んでいた娘の名前が、すっと決まった。
まるでみゆきがこの名前が良いと言ったかの様に、自然と頭の中に浮かんできたのだ。
娘の名前は…美しく生きて欲しい。
そんな願いを込めて【美生】と名付けた。
なんだ、最初からこの名前は浮かんでいたじゃないか。
例え偶然だとしても、“み”を入れる事を決めた時、あ行を当てはめ、5つの名前を作った。
その時はしっくりと来なかったが、今はこの名前しかないと思っている。
俺は誓った。
みゆきの分まで美生を幸せにすると。
俺は誓った。
何があっても美生だけは守り抜くと。
そう、みゆきの収まる小さな箱の前で。
葬儀参列の後。
精進落とし…つまり家族会食が行われた。
四十九日まで肉や魚といった“動物性タンパク質”のものを摂取してはいけない。
その為、それらを除いた料理が振る舞われる。その為その様な名が付いたそうだ。
「…椛さん。」
名前を呼んだのは義母である。
「何でしょうか。」
すると「身構えなくて良いのよ。」と言い、席から立ちあがろうとする俺を静止した。
「さっきはごめんなさいね。気が動転していたの。それであなたの事を人殺し呼ばわりしてしまって…。」
先程とは打って変わり、優しい態度だ。
また何かあるのではないか。そう思ってしまった。
「いえ…落ち着いたのなら良かったです。」
食事もひと段落した頃、義母と二人で話をした。
「娘…みゆきはね、とても良い子だったのよ。」
よく…知ってます。
「みゆきはね…昔から笑顔が素敵な子だったわ。私たちの家は金に飢えている。それは私がここに嫁いできた時から…いいえ、嫁ぐって決まった時からずっとわかっていた。」
という事は、彼女はお見合いで結婚をしたのだろう。
「大企業の息子さんとの結婚。私の両親も含めて周りは皆喜んでいた。私も旦那である…。」
そう言ってそっと見つめるのはみゆきの父親だった。
「彼の事は…嫌いじゃないのよ。」
見つめる目はなんだか悲しそうだった。
「彼は優しい人“だった”わ。だから自由な結婚じゃなくても気に入っていたの。恋愛は出来ないけど、それを求めてるわけじゃない。私を必要としてくれる彼の事をもっと知りたい。」
そしてひとつ…悲しげな、そして義母の人生を物語るため息をついた。
「知っていくだけで幸せだったのよ。」
“そして…”と義母は続けた。
義母の話は見たことないのにまるで小説を読んでいるかのように脳内に投影された。
「ね、わたし…妊娠した…。」
「本当か!?幸子のお腹の中にこの家の跡取りになる息子が居るんだな。」
“息子”
まだ妊娠したことが発覚したばかりだ。当たり前だけれどまだ性別なんてわからない。
薄々だけれどわかっていた。
中々子供に恵まれないこの身体。
…それでも私に優しくしてくれるのは跡取りになる息子が欲しいから。
“私”を見ているのではなく、未来に生まれるであろう私たちの“息子”を見ているんだ。
本当は子供に恵まれない身体なんかじゃない。だけれど、その未来の息子に会いたくなかった。
だから薬を飲んで妊娠出来ない身体を偽り続けた。
でも、失敗してしまった。赤ちゃんが出来たと知った時、最初は中絶しようと思った。
でも、このお腹に宿った命に罪はない。
私とあの人を親に選んだ、可愛い命だ。
…だからこの子に会おうと決めた。
願い続けた娘だとしても、忌み嫌う息子だとしても。
それから暫くして、女の子が宿っていた事がわかった。私にとって待望の娘。
…それが少し遅く、妊娠20週目に差し掛かろうとしていたところだった。
「待望の息子ではなく、使えない娘だと知った時は私の事殴ってきたり、おろせって沢山言われたわ。」
でも…無理ね、あの子に会いたくて仕方なかったの。
日本の法律では、人工妊娠中絶は22週未満。
つまり2週間乗り切ればいいの。
そう思えばあの人の暴力にも耐えられたわ。
「ねえ、椛さん。中絶しても12週目以降から死産届を提出しないといけないのよ。流産とかならこうしてお葬式をする人もいるかもしれないわね。」
でも娘が死んでしまったら私も死にたくなるような、そんな絶望に苛まれる事なんてわかりきっていたの。だから命を賭けてでも娘を守りたかった。
「でも無事に生まれて特に問題もなく大人になれたわ。」
高校時代。少し古い母校。
それが俺とみゆきが出逢った場所。
部活が同じだった。
美術部だ。俺は幽霊部員だったけど、彼女は熱心に活動に勤しんでいた。
ある日部活に来ないかと誘われたのだ。
いつまでも幽霊では勿体無いと。
明るい彼女。元気な彼女。努力家な彼女。
そして…笑顔が素敵な彼女。
何度も頼み込まれてつい、行くと言ってしまった。その笑顔で首を縦に振るみゆきに惚れてしまったから。
後にみゆきに聞いたが、好きな人だから誘ったそうだ。
付き合って、色々経験した。
思い出もいっぱい作った。
何年かして結婚をした。
「…みゆきは、いつだって笑ってましたよね。」
義母は…いや、幸子さんは涙を流す。
「あなたはみゆきをきちんと見ていたんですね。」
ああ、後悔だ。私の娘が選んだ人はとても良い人ではないか。
娘が素性も知らぬ男に取られてしまう。そう知った時に…いや、今日…葬儀中にだって沢山言ったいじわる。
その一つ一つを思い出し胸が痛くなる。
ああ、後悔だ。私の娘が選んだ椛さんは、娘の死後だってこんなに想えるとても良い人ではないか。
私は彼に嫉妬していたのだ。
そして己の娘にも。
みゆきを奪い去ってしまう事に。
私と違って良い人に出逢えた事に。
ああ、後悔だ。
今からでも、許されるでしょうか。
いいえ、この子たちの結婚を心から祝って喜べなかった私にそんな価値はないわよね。
それでも。
「ごめんなさい…。」
謝らなくてはいけない。
「あなたはとても良い人だわ。最愛の娘が選んだ私の自慢の息子よ。」
そして…。おれいを。
「ありがとう。みゆきを選んでくれて。みゆきの相手が椛さんで良かった。」
泣き崩れる私にそっとハンカチを差し出す椛さん。
ハンカチを受け取った時にそっと触れた指はとても暖かかった。
12月の寒い冬空。
優しく頬を撫でる風はとても冷たい。
けれど私に触れた指はずっと暖かかった。