第一章 私が好きだったのは、誰なんでしょう? -7-
鉛の空が頭上に広がっていた。
冬特有のことさらに重たい鈍色の曇天の下、月曜日の放課後、俺は遊奈と共に高嶺と駅前で待ち合わせをしていた。
彼女を待つ間は手持ち無沙汰で、やることはない。ただ無為に時間が過ぎるようで、しかしずっと、母親のあの嫌らしい声が鼓膜に焼き付いて離れてくれない。
抑えようと、取り繕おうと、必死に自分をなだめなければ、溢れ出た苛立ちで無関係な人まで傷付けかねない。――結局、土日には母親に文句を言われない程度に遊奈とデートに興じたというのに、その間も据えかねる思いがわだかまっていて、何をしていたのか俺の記憶には残っていない。
「――センパイ、話聞いてる?」
そんな声を聞いて、はっと俺は我に返る。見れば、横で遊奈はわざとらしく頬を膨らませていた。
「センパイ、ぼーっとしてたでしょ。彼女と一緒にいるって言うのにマジあり得ない」
「……ちゃんと聞いてたよ」
「じゃあ何の話をしてたか言ってみて?」
「他愛もない話だ」
「なにその大人みたいな玉虫色の返事……」
ジト目で睨んでくる遊奈だが、俺は気付かないふりをする。
「で、何の話だっけ」
「……センパイ。聞いてないなら素直に聞いてないって言ってよ」
「聞いてなかったですゴメンなさい」
「次からは一回目で謝ること。じゃないと許してあげないから」
「肝に銘じておきます……」
そんなやりとりに、遊奈の方が年下だが将来は尻に敷かれるのだろうと、そんなずれた思考が過ぎる。
「それで、本当に何の話? 大事な話だったか?」
「んー。高嶺センパイの話だよ。きちんと鍵の場所は考えてきた?」
「…………何の話?」
「センパイ、まさかそこから忘れてる……?」
呆れすら通り越して、もはや悟りにも近い形容しがたい表情を向ける遊奈に、俺はそれでもなお心当たりがなかった。
首をかしげている俺に、遊奈は小さい子供に算数を教えるみたいな声音で一つ一つ確認を始める。
「今日、何曜日?」
「月曜日だろ。その放課後だ」
「センパイ、金曜日に自分が何を言ったか覚えてる?」
「……何か言ったっけ?」
「自分で今日までに鍵のありかを考えてくるって言ったんだよ」
「あ」
思わずそんな声が漏れてしまい、今さらとは言え取り繕う術をなくしてしまった。はぁ、とあからさまに遊奈はため息をつく。
「何のためにいま高嶺センパイを待ってると思ってるの? もう高嶺センパイに怒られろ、センパイ」
「……考えてる、考えてるって」
俺は適当にうそぶいて思案する。
元々は土日で考えるという予定だったが、母親のせいで苛立ち、それがすっかり記憶から抜け落ちてしまっていた。いくら何でもこのまま「何も考えてませんでした」では、流石に申し訳が立たない。
とは言え、何の用意もしていなかったのは紛れもない事実だ。やっていないものはやっていない。夏休み終わりの小学生だって知っている世界普遍の摂理だ。
何の用意もない。しかし、用意しなければいけない。
となれば、選択肢など一つしかない。
「――お待たせしちゃったかな?」
そんな一つの覚悟を決めた俺に、かつて恋い焦がれた声が聞こえた。振り返れば、バス停から小走りできたのか少し息を切らして黒髪を揺らす、高嶺雪花がいた。曇天の空の下に、花のようにその白い息が広がっていく。
「待ってませんよ、高嶺センパイ」
「……正直もっと遅れてくれても良かったんだが」
「? どういう意味かな?」
「いや、こっちの話だ」
首をかしげる高嶺をさておき、俺はふぅと息を吐いてマフラーに顔を埋める。
高嶺がこんなに早く来ることは想定外だが、元々が後の祭りのまっただ中。高嶺のせいにする暇などなく、やらなければいけないことは何も変わりはしない。
……つまり、やっていないならやるしかない。
夏休みの宿題は八月三一日の二三時五九分までに終えなければいけないなんて道理はないのだ。――たとえ九月一日の朝に終わったとしても、それは八月中に終わらせた者と何ら変わりない評価を得られる。
だからこそ、鍵のありかをどう探せばいいかなんてまだ些少も分からないが、手順の一歩目だけは確定している。
「さて、とりあえず鍵を探すんだ。――嫌でなければ、高嶺の家に案内してもらえるか?」
朝に終わったっていい。だから、まずは九月の日が昇るのを遅らせる。
はじめは移動。それもバスだ。幸いにもこの七峰市なら、それを待つ間にも十分な時間がある。それに揺られやっと家に着いても、なにせ唐突な訪問だ。片付けや掃除で少しは待たされることだろう。
時間は、十二分に残されている。
だから、あとは考えるだけだ――……