第一章 私が好きだったのは、誰なんでしょう? -6-
相変わらず、外は刺すような冷気に飲まれていた。
高嶺と別れた俺たちは寄り道をすることもなく帰路についていた。今回は上手くバスに乗れたおかげで徒歩の時間はぐっと短くなったが、それでも寒いものは寒い。
しかし、体温が高めの遊奈は寒さには寛容であるらしい。
「……なんというか、五分とか十分でセンパイと別れてしまう、と考えると、そんなバスよりは昨日みたいに徒歩で帰った方が良かったような」
「俺が嫌だよ、鞄重いし、あと超寒いし」
そう言いながら、俺はさらに肩をすくめて体を縮こまらせる。
既にクリスマスまでは二週間を切っている。地図上では近畿地方に当たるが、この七峰市は山に囲まれているせいか異常に寒い。それが十二月のこの時期となればなおさらだ。瀬戸内海にほど近いはずなのに、一月になれば掻くほどではないが雪だって当たり前のように積もる。
「……センパイ、今の発言は割と彼氏として駄目だと思う」
「だって寒いの苦手だし……」
遊奈に言われるまでもなく自覚はあるが、それでも人間は気候には勝てない。せめて校則が変わって上着が自由になればいいが、ブレザーの上に着るのは禁止、などという条件がある限りは俺の心は変わらない。むしろ俺と同じ格好、なんならスカート丈の関係で俺よりも遙かに寒そうな遊奈がおかしいような気さえする。
「……くっついて歩きたいっていう意思表示?」
「それはそれで恥ずかしいんでやめて……」
「センパイ……」
もはや呆れ果てたような遊奈を引き連れて、俺はその嫌気が差すほどの寒空の下を歩く。そんな何でもない、この半年の間に何度も何度も繰り返した下校の風景。
ただ、今日に限って違うことが起きた。
「お兄ちゃん……?」
そんな声が、あまりにも聞き慣れた声が、背中から聞こえてきた。
嫌な予感しかしなかった。それでも俺は、振り返るしかない。
ぎぎぎ、と錆び付いたブリキのおもちゃのような動きでゆっくりと首を回す。
俺とよく似た黒色の、ふたつくくりにした髪を風になびかせた、セーラー服の少女。背は小さいがそれでも遊奈と同じ程度で、しかしその制服は中学生のものだった。
見慣れて見飽きて、もはや何も感じなくなったその容姿を前に、俺は絶望を込めて嘆息するしかない。
「……なんでお前ここにいるの?」
「そりゃ下校中なんだし同じ家に向かってればそうなるでしょ……」
呆れたように彼女――伊吹姫那は言う。それはいつも家で俺に向けるやや冷めた視線そのもので、紛れもなく俺の妹本人であった。
そんな姫那が生まれたときからずっと一緒にいる俺に興味などあるはずもなく、しかしいま声をかけてきた理由など、推察するまでもないことだった。
「そ、それよりも!」
くわっと目を見開いて、震える指先で姫那は俺の隣の遊奈を指さした。わなわなとその指先が震えている。怒りではなく、信じたがいものに直面したかのようだった。
「お兄ちゃん、その隣の女の人は誰!? 誘拐は犯罪だよ!」
「……なぁ、遊奈との関係性は置いておくにしても、俺が女友達の一人もいない、っていうその前提条件の決めつけはどこから来るんだ?」
もはや失礼だとかそんなこと以前の問題にすら思えて、俺はまた深くため息をつく。こんな寒い外では、頭の弱い妹の相手をするのにすらうんざりしてしまう。
そんな無礼な妹を前に、遊奈は首をかしげている。
「センパイ、妹さん?」
呼び名や会話、それと雰囲気から察したらしい遊奈に俺は「そうだ」とだけ肯定しておく。正直なことを言えば、俺が女子と歩いているだけで誘拐と決めつけるような相手を妹とは認めたくないのだが、血が繋がってしまっているのだから仕方がない。
こほんと可愛らしく咳払いをして、遊奈は一歩前に出た。
「はじめまして。一維センパイとお付き合いさせていただいている美丘遊奈です」
きちんと年下相手に――俺にすら使ったことのないような――敬語で挨拶をする遊奈だったが、しかし受けた姫那の方は目を丸くしていた。
「……オツキアイ……? お兄ちゃん、何語?」
「日本語だよ」
「……お兄ちゃん、私にはこの遊奈さんがお兄ちゃんの彼女って名乗ってるように聞こえるんだけど? こんな目つきも性格もゴミみたいなお兄ちゃんの」
「そう名乗ってるんだよ。――あと誰がゴミだ、馬鹿な妹に罵られるいわれはないぞ」
そう答えると、姫那の顔は次第に驚愕に染め上げられていった。
「お兄ちゃん、いったい遊奈さんのどんな弱みを握ったの!?」
「……お前、そろそろ真面目にぶん殴ろうかと思うんだけど」
「センパイ、妹さんとは言え女の子に手を上げるのはどうかと思うよ? あたしは優しいセンパイが好きだなぁ」
「……はいはい……」
遊奈にたしなめられて、俺は握った拳をほどいてため息に変える。その光景を見てなのか、どういう訳か姫那は「ほ、本当に付き合ってる!?」とようやくのように納得しつつあるようだった。
「お、お兄ちゃんにいったいどんなナンパのテクニックが!?」
「……言っとくけど、俺が告られた側だぞ」
俺がそう補足すると、姫那はさらに目を見開いて口に手を当てていた。もう驚きの声すら出ないらしい。よほど俺に彼女が出来ているという現実が受け入れられないのだろう。
それから姫那はくるりと俺から遊奈へと視線を変え、がしっと彼女の掌を握った。
「遊奈さん、遊奈さん。考え直して。お兄ちゃんは捻くれていて、悪知恵だけは働くからなおさら憎たらしい、どうしようもない駄目人間なんだよ。普通に生きていったら一生独身で誰に看取られることもなく孤独に死んでいく寂しい人間なんだよ? きっと喪主は姫那になっちゃうんだよ?」
「うーん、でもあたしはそういうところも含めてお兄さんのこと好きだし。――それに、あたしがいるから一生独身にはならないんじゃないかな」
傍で聞いている俺が恥ずかしくなるようなことをあっけらかんと言ってのける遊奈に、姫那はうっすら目に涙を浮かべてすらいた。
「……お兄ちゃん」
ぐすっとわざとらしく鼻を鳴らして、姫那が俺の方へ笑顔を向ける。
「絶対に遊奈さんを逃しちゃ駄目だよ。この機会を逃したらお兄ちゃんはもう一生彼女なんて出来ないんだから」
「お前ぶっ飛ばすぞ……」
相変わらず兄を見下す姫那に、辟易してそう呟くしかなかった。俺をいったい何だと思っているのか、小一時間問い詰める必要がありそうだった。
そんな俺と妹のやりとりに、遊奈はくすくすと笑っている。家族との会話を学校の知人に見られるというのはどうにもくすぐったく居心地が悪いのだが、遊奈は逆に気に入ってしまったようだ。
「逃がしちゃ駄目だよ、センパイ?」
「…………努力するよ」
姫那の発言に乗っかって、小悪魔じみた笑みを浮かべながら俺を上目遣いに見る遊奈に、俺はそっと視線を外すしかなかった。
*
それから姫那は遊奈とまだ話したそうにしていたが、家まで距離もなく半ば強制的に別れる形で、俺は姫那と共に帰宅した。
諸事情あっての母子家庭とは言え、親の年齢を考えれば平均よりやや上の分譲マンションの一角が俺たちの住居だ。
「……お前、これを母さんに言うなよ」
玄関前で俺は姫那に釘を刺す。
道中で散々「お兄ちゃんについに彼女が……」などという何目線の発言かも分からない感慨を垂れ流されていたが、たとえ聞き流していても精神的には疲弊する。出来れば見つかりたくなどなかった、というのが本音だ。
「言わないよ。お母さんに言って下手に別れさせられちゃったら姫那が困るもん」
姫那の口ぶりからするに本音だろう。ほっと胸を撫で下ろしながら、俺は玄関の扉を引いた。そして、それと同時にすっと俺の心に帳が降りた。
玄関には、見慣れたヒールがあった。
「……ただいま」
「ただいまー」
俺の憂いなどを気にした様子もなく、姫那は明るい声で挨拶して家に上がる。そのままリビングへ向かうと、珍しく既に帰宅していた母親がそこでノートパソコンを広げて仕事の残りか何かをしているところだった。
「……遅かったわね、一維」
視線はディスプレイに向けたまま、俺を見ることもなくそんな低い声が飛んでくる。何でもない言葉なのに、俺を責めようという意思が透けて見えるような、そんな苛立った声だった。
部屋の中だというのに、室温はきっと外気と同じか、それよりも冷え切っていた。
「……ちょっと用事があったんだよ」
「もう二年生の冬よ。勉強以外にやることがあるの?」
思わず舌打ちが出そうになるのを堪えて、俺は「分かってる」とだけ答える。そんな俺と母親とのやりとりの飛び火が来ないようにか、姫那はそそくさと自分の部屋に入っていた。
「……部活や生徒会には入るなって言ったけど、遊んでいるようじゃ意味がないわよ」
その発言に、ぐっと俺は言葉を呑み込んだ。
蒼生だけじゃない。俺だって、あいつと一緒に生徒会が出来たらと思っていた。きっとそれは楽しいだろうと。だから、適当な理由をでっち上げて文化祭実行委員なんて引き受けた。少しでもそれらしいことをして、自分を騙したかったから。
それでも、逆らえない。俺は子供で、相手は親だ。意見を押し通そうにも、向こうの方に正当性があることなんて俺自身が分かってる。何より、俺が中学の頃から女手一つで俺や姫那を育てて貰っている。――立場の弱さなんて、考えるまでもない。だから、拳を握り締めるしか出来ない。
「この前の期末の成績見せただろ。問題は――」
「学校の成績なんて大学入試には何の当てにもならないでしょ。推薦に狙いを絞るより、本番を目指した方が効率的。分かったらそんな役に立たない点数にいつまでも固執してないで」
俺の言葉すら遮って、母親はそう断言した。中学のときからずっとこうだった。俺の努力や結果になど興味がない。ただ敷いたレールの上だけを走れと、それ以外の一切合切を、俺に望んでなどいないのだ。
――こうなったのにも、原因はある。
この家には、父親がいない。俺が中学に上がった頃に、父の浮気が原因で離婚した。俺や姫那のことを含めて色々考えて周囲にはあまり悟られないよう名字は変えなかったらしいが、それでも、あらゆる方面で俺の人生は変質してしまった。
母親からすれば、始めはあんな父親のようにはするまいと学歴その他に執着してしまったのかもしれないが、もはやそんな目的は見失っているようだ。ただ自らが一人で育て上げると、その力の象徴としてしか俺を必要とはしていない。
まるでそれは、籠の中の鳥のようだった。飛び回れるのはその檻の中だけで、それを自由だと自分に言い聞かせるほかない。
「……今度の模試はちゃんとやるよ」
「当たり前でしょ。大学は国公立以外は認めないっていつも言っているでしょ」
分かってる、とだけ答えて俺は後ろ手にリビングの戸を閉めて部屋へと向かった。
足音に感情を乗せないよう気を配って、俺は深く息を吸って心を落ち着ける。――きっといまの顔は遊奈や高嶺には見せられないな、と、どこか二重人格じみた俺の精神が俯瞰でそう自嘲する。
腹立たしかった。
俺ではなく、俺の実績や成績だけを妄信的に求める母親も。
外に女を作って出て行った、この変質の原因たる父親も。
両親が離婚したとき、俺は何も感じなかった。
ただ、ああはなるまいと。俺も姫那も置いていき、外に作った女とどこかへ行った父親のようにはなるまいと、ただそれだけを思った。その父親が出て行けば、きっといままで通りの生活が待っているのだと、そう思っていた。
それだけで、俺の胸のうちは収まるはずだったのに。
現実はこの様だ。
それはまるで呪いのように、俺の周囲を引っかき回し続ける。部活も生徒会も、やりたいと思ったことは鼻先で奪われていく。
「駄目だな、これは……」
自分の抱いているどす黒い感情を自覚して、俺はあえて言葉に出して現実へ自分の意識を引き戻そうとする。
部屋に入っても、俺は暖房を付ける気すら起きずに立ち尽くしていた。ただ煮えたぎる腸が、その必要もないほどに熱を帯びているのだ。
苛立ちが募る。まるで敗北寸前の落ちもののパズルゲームのように、言葉や感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて積み上がって、何の整理も出来ずに滞る。その気持ち悪さにどうしようもなくなって、鞄をベッドに叩きつけていた。
それでも苛立ちは消えず、俺は無意識のうちにスマートフォンに手を伸ばしていた。今だけは誰かの声が聞きたかった。何でもなく他愛のない会話に溺れたかった。それが甘えと分かっていても。
――なのに。
――その相手が、二人、頭に浮かぶ。
「――――ッ」
そんな自分の思考回路に嫌気が差して、俺はベッドに倒れるように寝転がった。目を閉じても、まるでヘドロが溜まったかのように胸の奥が気持ち悪い。
投げつけた鞄のファスナーは開いていて、そこから筆箱が顔を覗かせていた。窓から差し込む夕日を受けてまるで自己主張するかのように輝いている。
その中には――……
いや、と。
続きそうになる思考を否定し、それそのものを見なかったことにして、腐臭すら漂うような空気の中で俺はただじっと動かずに、体が冷えるのを待った。