第一章 私が好きだったのは、誰なんでしょう? -4-
ついたため息すら白く拡散していく、寒空の下だった。
長く伸びた影を踏むように、夕焼けに染まる道を俺は遊奈と二人で歩いていた。
「まさかバスを逃すとは……」
「センパイ、さっきからそればっかだし」
遊奈は呆れ混じりに言うが、バスで移動する距離が徒歩になるというのは単純に面倒で煩わしい。ましてやこの低い気温であればなおさらだ。
一度バスを逃すと、三十分は待たされる。それなら徒歩で帰った方が早く着く、ということで選んだ選択だったが、既に後悔し始めていた。
「センパイ、あたしと長く居られて嬉しくない?」
「……そのイエスしか出来ない質問は狡いと思うんだけど」
「そこはぼかさないで、嘘でも『イエス』って言って欲しいところなんだけどな。――まぁ、センパイがそういうの口に出したがらないって言うのは分かってるけどさ」
そう言いながら、遊奈は後ろで手を組んでいた。肌に何かが刺さるように感じるのはこの寒さのせいではなく、きっと彼女の刺々しい言葉のせいだろう。
「そう露骨に拗ねるなよ」
「拗ねてないし。別にあたしは次のバスを待ってもよかったんだから」
「さすがにそれ待ってから帰ったら親に何を言われるか分からないから却下だ。うちの親、無駄に厳しいからな」
この時間でも、働いている母親の帰宅までにはギリギリになりそうだが、とりあえずそれまでに家にいさえすれば小言はない。
「そういう事務的な理由の下校デートはお断りなんだけど」
「…………そうだな、それは悪かった」
「……センパイ、いま『あ、これ下校デートっていう扱いなのか』って思ったでしょ」
じとっとした目で見られるが、俺は否定も肯定もせずにスルーする。
追及しても無駄だと察してか、はぁ、と遊奈はため息をついて諦めていた。
「でも、そんな風にあんまり時間ないのに、なんで高嶺センパイのお願いを聞いたの?」
「……お前、断らせる気なかっただろ?」
「それはそうだけど、そうじゃないじゃん? センパイがやる気になったのはどうして、っていう話」
「……言っとくけど、別に下心とかないぞ? 浮気とかじゃないぞ?」
「そんな心配してないし。――むしろわざわざ言い出したせいで怪しく思えてくるんだけど」
またジト目で睨んでくる遊奈だが、話が逸れてしまいかねないので俺から先に本筋へと軌道修正する。
「優しさとかでもないな。お前が乗り気で、高嶺も真剣で、断る理由がなかっただけだよ。――あんな状態で断るなんて、ろくでなしみたいだろ」
「センパイ、いま二年生の冬でしょ? オマケに親御さんが厳しいって言うし、受験勉強は断る理由には十分だと思うけど。それに生徒会長の丁稚奉公までやってるし」
「誰が丁稚奉公だ。――ただ、そうだな。たぶんこれは息抜きだよ」
そう言って、俺は天を仰ぐ。
どこまでも遠いその橙の空は、まるで俺の憧憬を映し出しているかのようだった。
「この街、暮らすだけでも面倒くさいし」
「……そう? 都会って訳じゃないけど、必要なものはあるし普通に暮しやすいと思うけど」
「お前、ずっとここで暮してたっけ?」
「ううん、中学のときに神崎から引っ越してきた」
神埼市、と言えば、俺たちの暮すこの七峰市の南に隣接した都市だ。政令指定都市にもなっていて、人口密度など誇張でも比喩でもなく桁違いの大都市だ。
「なら、知らないだけだ。――ここは、息が詰まるよ」
そんな神崎に対して、俺たちの暮すこの七峰市は、端的に言えば下手に開発されただけの田舎だ。こうして二人で歩いている間も、誰ともすれ違うことがない。まるで世界に二人きりにされたかのような、そんな閑散としたありさまだ。
「……息が詰まるって、こんなに人がいないのに?」
「いないからだよ」
電車に乗りもしないのに駅前は綺麗に整備されていて、背の高いマンションがあちこちに建ち並んでいるものの、それを使う人がいない。道路は無駄に四車線もあるが、そこを通るバスだって三十分に一本しかない。――だから、こうして俺は歩いて帰る羽目になっているのだ。
最寄り駅まで徒歩で行けないなんてことは当たり前で、線路自体が栄えている神崎へしか伸びていないから、市内での生活の足はもっぱら自家用車。乗れない学生はバスや自転車、あるいは本当に自分の足だけになる。
そんなレベルの街では、どれだけ開発が進んだって根っこは変えようがないほどの田舎だ。隣人との関係はきっと都会より深いし、地域の会合は集まらない方がおかしい。一挙手一投足、全ての評判が街での暮らしに影響を及ぼすようにすら思える。
それはある意味で、監視社会のようだった。機械ではなく、人がその役割を果たしているだけで本質は何も変わっていない。
だから、俺はこの街が大嫌いなのだ。
ここにいるだけで、内側からどろどろとした澱が溜まって腐っていきそうな。そんな感情がずっとわだかまっている。
それを吐き出す代わりに、俺は白い息を吐いた。
「そんな訳で、俺が高嶺を手伝ってるのは私利私欲だよ。息苦しいから、息を抜く。ただそれだけだ」
「……ふーん」
俺の心情を嘘偽りなく吐露したというのに、遊奈は何かを見透かしたように笑っていた。それがどこか気恥ずかしくて、拗ねたような口調で訊ねてしまう。
「なんだよ」
「センパイは、優しいね」
脈絡もなく、彼女はそんな風に言って俺の顔を覗き込んだ。少し口角を上げて、心底嬉しそうな澄んだ瞳で俺を見つめてくる。
「そんで、すんごく面倒くさい」
「……話聞いてたか?」
「もちろん」
「じゃあどうしてそんな結論になるんだよ……」
「そうやっていちいち言い訳をしないとボランティア一つできないところが、かな」
まるで俺の心を代弁したかのように、遊奈はそう言い切った。
それはどこか腑に落ちる言葉で、そして、俺は遊奈の言葉が間違えていることには気付いていた。
あれは言い訳だ。それはきっと、彼女の見透かした通りだ。
違うところがあるとすれば、それは一つ。――俺は、優しさで引き受けた訳ではないということだろう。
きっとどこかで、願望があった。小学生の頃のように、高嶺と接したいと。あの頃の思い出にもう一度浸りたいと。
だから俺は、引き受けたのだ。優しさも息抜きも関係ない。この依頼がきっと他の誰かからだったなら、俺は断っていただろう。俺は蒼生とは違う。メリットもないのにそんな安請け合いをするほど、お人好しじゃない。
ただ、相手が高嶺雪花だから。
俺の初恋の相手だから。
だから俺はこの相談を引き受けた。
それがきっと、紛れもない真実なのだろう。
「……そんないいやつでも捻くれたやつでもないぞ、俺は」
だから、そうやって誤魔化すので精一杯だった。遊奈と視線を合わせることさえ、今だけは難しい。
「そうかな」
「あぁ」
「――でも、好きだよ?」
そう言って、また遊奈は俺の目を見つめてくる。疑いなどなく、俺に好意を向けてくれる。
その真っ直ぐな感情に、俺はほだされているのかも知れない。
「センパイ、顔赤いよ?」
「夕暮れのせいだろ」
「なにそれ」
くすくすと彼女は笑う。
高嶺とどうなりたい、なんて考えるほど俺は馬鹿じゃない。そんな願望は、子供の頃に捨ててきたはずだ。
俺が傍にいて欲しいのは――……
そんなことを途中まで考えて俺は耳まで赤くなるのを自覚し、誤魔化すようにもっと深くマフラーに顎を埋めた。