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第一章 私が好きだったのは、誰なんでしょう? -3-


 高嶺雪花とは、小学校の頃からずっと同じ学校だった。小学校から高校までずっと同じの友人など、あとは蒼生くらいのものだし、彼の他にいるとも思っていなかった。だから、高校の入学式で彼女の姿を見かけて驚いたものだ。

 しかし、男女を意識し始めた中学の頃から今まで、彼女と接点らしい接点はなかった。きっと彼女の方は自分を忘れているとさえ思っていた。

 その彼女が、高嶺雪花が、俺の目の前にいた。

 それはどこか、現実離れして思えた。


 ――……そうして、邂逅のときに時間は戻る。


「私が好きだったのは、誰なんでしょう?」


 そんな問いかけに、俺も遊奈も返答を忘れてしばらく呆然としてしまった。あまりにも突飛で、そしてそれだけの短い文の中ですら支離滅裂で、どう反応するのが正解か分からなかった。

 ややあって、どうにか絞り出すように俺が口を開く。


「――それが、相談か?」


「うん」


「……馬鹿にしてる?」


「違うよ。……その、興味を引こうと思ったんだけど、もしかして失敗かな?」


「失敗というか、『急になに言ってるんだろう』って思ったな」


 こんな風に何でもない会話を彼女――高嶺雪花と交わすのはいつぶりだろうか。もしかしたら、小学生の頃以来かも知れない。

 そんな何でもない郷愁にも似た感傷に浸っていると、ぞっと背筋が凍った。――物理を無視して零点振動すら封殺したような、そんなそこはかとなく冷え切った視線だった。持ち主など言わずもがなだ。


「センパイ、デレデレしてる」


「してません」


 いわれのない糾弾を真っ向から否定するが、遊奈は疑っているのか納得がいっていないのか、数分前と変わらず猫みたいに毛を逆立てている。

 そんな様子をしばらく眺めて、高嶺は小さく首をかしげる。


「えっと、その子は?」


 高嶺の疑問はもっともだろう。寒空の下、俺を呼び出して待っていたら、見ず知らずの女の子がくっついているのだ。

 さてどう説明するか、と逡巡する俺をよそに、遊奈の返答は雷霆のように迅速だった。


「センパイの彼女です!」


 ぐいっと、自分のものだと主張するみたいに遊奈は俺の腕に絡みつきながらそう答えていた。

 平均的なサイズより小さく見えるが、それでもそこには胸があるわけで、免疫のない俺はその柔らかく温かな感触だけでも体温が一度くらい上がりそうになる。

 こんな状況でにやけたり顔が赤くなったりしているのを見られるのは、どうにも体裁が悪い。俺は思わずマフラーになおさら深く顔を埋めていた。


「……なんて言うのかな。小学校から知っている友達に彼女が出来た、って聞くと、なんか不思議な気分だね」


「俺も理由は分からないけど気恥ずかしいから掘り下げないでくれないかな……。――で、そんなことより、相談の内容を詳しく聞こうか」


 二の腕に押しつけられている感触への動揺を必死に厚い面の皮の下に押し込めながら、咳払いと共にそう言って、高嶺へ話を促す。

 それを受けて、彼女はまるで用意していたように答えた。


「そうだね。――場所を変えてもいいかな? ここじゃ寒いし、少し、長い話になるかも知れないから」


     *


 コチコチと秒針の音がする。それと、こぽこぽとコーヒーを淹れる音。まるで世界から切り離され、置き去りにされてしまったみたいに、静かで、穏やかな空間だった。

 駅前近くの喫茶店。オシャレな主婦たちが利用するのだろうが、そもそもこの街の人口密度が知れているし、夕食の支度時のいまはその影もない。まるで貸し切りのような静謐さの中、俺と高嶺、遊奈は角のボックス席に着いていた。


「あの、一つ聞いてもいいです?」


 一通りの名前や関係性の紹介が済んだ頃、遊奈が真っ先に手を上げた。


「何かな」


「なんでセンパイに相談なんです?」


 それが、どうにも遊奈には腑に落ちないらしい。何かをきっかけに俺を取られるんじゃないか、なんて怯えているのかも知れない。

 だが、主観的にはなるがそれはあり得ないと思っていい。

 高嶺は紛れもない美人だ。いまこうしてコーヒーをすするその姿さえ、雑誌の一面を飾ってしまいそうなほどの洗練した美貌。それでいて穏やかで誰にでも分け隔てなく優しく振る舞い、そして努力家だ。――間違っても俺と釣り合うはずがないだろう。


 しかし、理由は違えど遊奈の疑問は俺の疑問でもあった。小学校以来、俺と彼女の間に接点らしい接点などなかったはずだ。その俺に相談する理由が見当たらない。

 俺と遊奈が見つめる中、彼女はコーヒーカップを両手で持ち少し斜め上を見て、まるで思い出すみたいに言った。


「えっとね、伊吹くんは『よろず屋』だから、かな」


 その発言に、俺は思わずむせてしまう。「センパイ汚い」なんて横の遊奈に言われながら、俺は恨みがましく高嶺を睨む。


「お前、いつの話をしてるんだよ……」


「小学生の頃の話だけど、いまでも冗談で呼ぶ子はいるでしょう? 立花くんと二人で、頼まれたら何だってするって。正義のため――とか言って学校中を走り回ってたから、多分みんな覚えていると思うよ」


 しかし俺が何に動揺しているのか伝わっていないらしく、当の高嶺はきょとんと首をかしげるばかりだった。


「……あー。なるほど。センパイが生徒会長のこと『放っておいたら損をする』って言ってたの、小学生の頃の自分の話でもあったんだ」


「忘れたよ、そんな昔のこと」


 一人納得したように言う遊奈に、そっぽを向いて答える。

 正直覚えているのだが、あまりにも痛々しいので厳重に封をして意識の底に沈めていた。まさか初恋の相手にそんな黒歴史を掘り返されるとは思いもしなかったが。

 何やら遊奈は自分の知らない俺の話とやらに興味を示しているらしく、ぴょこぴょこと茶髪のサイドテールが揺れている。あまり話が脱線する前に、と俺は半ば強引に切り出した。


「それで、相談の詳細だろ」


「やっぱり引き受けてくれるの?」


「よろず屋は廃業してるから、気分と内容次第だよ」


 それもそうだね、なんて言って、高嶺はコーヒーで唇を湿らせて、そっと鞄の中から何かを取り出した。

 それは、青い表紙をしていた。一冊の分厚い本のようだった。やや擦れてはいるものの装丁はしっかりとしていて、表題は特にない。出版物ではなさそうだった。


 そして何よりの特徴が、その金具。


 表紙と裏表紙の一部に金具が嵌められており、それを繋いで塞ぐように南京錠があった。しっかりと鍵をかけられとり、その本を開くことは叶わない状態だ。表紙側と裏表紙側の金具がぴったりと合わさっているから、隙間から覗く、なんて真似も出来ないだろう。


「これは?」


「日記帳、だと思うの」


 曖昧な答えが返ってくる。それは彼女のものだと思っていたから、俺も遊奈も顔を見合わせるしかない。

 自分の持ち物でないものを持っている理由はない。家族の遺したもの、なども考えられなくはないが、その類いにしては傷み具合が不釣り合いだ。


「……どういうことだ? これはお前の日記帳じゃないのか?」


「私のもののはずだよ。――私は、それを覚えていないんだけど」


 そう言って、彼女は一度小さく深呼吸していた。


「その、少し信じがたいかも知れない話だけど、よく聞いてね。――私はいま記憶喪失、っていうものらしいの」


 その言葉に怪訝な表情をするな、というのは無理だろう。いまの一連の会話にすら矛盾があったような気さえする。

 高嶺はきっとこんな説明を以前にも誰かにして、笑われるか、首を捻られたのだろう。俺たちが何かをリアクションするより先に、情報を重ねるみたいにまくし立てる。


「半年くらい前に、交通事故に遭っちゃって。怪我はなんともないんだけど、私は一部の記憶をなくしちゃったの。それが『好きな人に関する記憶』だった」


 それが、嘘か真実かを判別する術を俺は持たない。

 だが、「だからか」と抱いていた違和感については納得は出来る。

 記憶喪失と言いながらも普通に俺や蒼生との小学生の頃の思い出を語れるのは、失った記憶が非常に限定的だから。時間ではなく、トピックスで区切られている記憶をなくしたのだろう。


「お医者様が言うには、精神的なショックが事故の直前にあったのかも知れない、とか。詳しくは分からないって」


「……この日記帳を忘れているのは、それが『好きな人』に関連しているからか?」


「そうだと思う。その人から貰ったものなのか、その人への思いを綴っているのかは分からないんだけど」


 そう言って、彼女はもう数センチ前へとその日記帳を俺たちへ近づける。

 非日常的な会話を前にすれば、人はまずそれを疑う。その現象が間違っていると、その相手が虚言癖なのだということにしてしまえば、自分の知る常識の中に世界が収まってくれるから。

 そういう心理を、その動作一つで真っ向からねじ伏せるように思えた。


「私の友達は、私に好きな人がいたって言うの。片思いをしていたって。でも私はそのことを覚えていない。だから、私はせめて、その相手が誰かを思い出したい」


 だから、彼女は再会したときにこう言った。


『私が好きだったのは、誰なんでしょう?』


 それは、自分の記憶からすら欠落してしまったから。

 誰かに聞く以外に、彼女はその顔も名前も知る術がないから。


「その手がかりが、きっとこの日記帳なの。けど、私はこの日記の記憶すらない。鍵をどこに閉まっていたのかも、完全に忘れちゃってる。――だから、どうか伊吹くんにはこの鍵を探す手伝いをして欲しいの」


 そう言って、彼女は深々と頭を下げる。綺麗な黒の御髪が机の上に広がって、ただ動かない。俺の返答をじっと待っているのだ。


「――ひとつ確認なんだが。この鍵を壊すっていう選択肢はナシか?」


「センパイ、それはナシに決まってるでしょ……」


「そうだね。この日記についての記憶がないということは、それが『好きな人』に繋がっていると思うの。もしかしたら、その人から貰ったものかも知れないし。だから、壊すという方向はあまり……」


 そう言われて、俺はまじまじと日記帳を見つめる。表紙は金箔押しで英語の筆記体で何やら書かれているが、関係はないだろう。Diaryとか、そんなことが書かれているはずだ。

 錠をかけている金属の部分はダブルクリップのようになっていて、表紙の厚紙にしっかり噛み付いている状態だ。外そうと思えば表紙を破るか、金属を無理矢理に歪めて開くしかない。

 クリップで言う金属の輪の部分は表紙側、裏表紙側でそれぞれ一つしかなく、それが上下でしっかりと噛み合い、その状態で南京錠で封じられている。その南京錠も本格的なものだが、小学校の兎小屋に掛かっているようなものではなく、もっと小さなものだ。そのサイズ感も含めて、日記帳全体がオシャレなアイテムに見える。


「じゃあピッキングも駄目か。小さいからクリップだと入っても錠を痛めそうだし」


 手っ取り早いのはいわゆる鍵屋さんに頼むことだが、物が物だけに見ず知らずの人間に預ける気にはなれないだろう。

 つまり搦め手はなく、彼女の失った記憶を探りこの鍵を見つけるほかないと言うことだ。


 ――不可能だと、頭の奥で誰かが言う。


 手がかりがあまりにも欠如している。そもそも本人が記憶をなくしている時点で、なくし物を見つけることなど出来るとは思えない。

 ――けれど。


「……センパイ」


「言わなくても分かってるよ」


 横で遊奈が潤んだ瞳を俺に向けている。

 ひねくれた俺とは違い、彼女は高校生として心配になってしまうくらい純粋で真っ直ぐだ。高嶺の話を聞いても疑うことなどないだろう。こうして少し泣きそうになっているのは、彼女が高嶺に感情移入してしまっているからかも知れない。――俺の記憶をなくしたことを想像して悲しんでくれているのだとしたら、それは彼氏として嬉しい限りだ。

 だから、そんな彼女の横で俺が言うべき言葉など決まっていた。


「……できる限りでは手伝うよ。けど、俺に出来ることなんて何があるかは分からないから、期待はするなよ」


「センパイ、そこはもっとこう、男らしく言い切って欲しいところなんだけど」


 隣で遊奈が呆れているが、これでも俺なりには歩み寄った方だ。

 もう小学生の頃とは違う。そんな漫画みたいな熱血を振りかざせるような年でもなければ、安請け合いをすれば責任を被ることになることも知ってしまっている。

 解決策すらないいまのこの状況で、俺に言えるのはこの程度が限界だ。


「でも高嶺センパイ、大丈夫ですよ。センパイはすごくずる賢いですから」


「お前、それ褒め言葉じゃないからな?」


「うん、褒めてないし」


「さいで……」


 おそらくはあのシャーペンの話をしているのだろう。どう転んだってやぶ蛇にしかならないので、突くことはせずに放置するしかない。

 ただ居心地の悪い俺は視線を窓の外へ向ける。冬の忙しない空気感が、ガラス越しにすら見て取れる。それに共鳴するみたいに、心の中にさざ波が立つ。

 そんな俺を引き戻すように、高嶺がくすくすと笑う声がする。


「仲いいんだね、伊吹くんと美丘さん」


「センパイ、センパイ。ラブラブでお似合いだってさ!」


「秒速で情報を改竄するんじゃねぇよ……」


 誰もそんなことまでは言っていないのだが、遊奈の中ではそれで十分だったらしい。下駄箱で手紙を確認した時点では差出人に敵意を剥き出しにしていたはずなのだが、あまりの変わり身の早さに俺は閉口するしかない。


 不思議な空間だと、ふと思った。

 夕暮れの喫茶店。店の中にはマスターを除けば、俺と彼女と初恋の相手の三人だけ。

 はじめ、こう提案されたときはきっと居心地なんて悪いと思っていた。けれど、不思議とそうはならなかった。――だから、俺は高嶺の突拍子もない相談を引き受けてしまったのかも知れない。

 日が傾いた窓辺で、俺はただ談笑する二人の姿を眺めてコーヒーをすすった。


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