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第三章 俺が好きなのは――…… -6-


 暗い。寒い。


 緞帳の下りた舞台の上を照らす照明はない。闇夜のような黒色のその中央に、スタンドマイクと共に美丘遊奈は立っていた。

 右後ろには電子ピアノと、それの前で腰掛けた同級生の姿がある。それを横目で確認しながら、美丘は深く息を吸う。

 幕の向こうではざわざわと声がする。聖鷹祭のステージだ。想定以上に盛り上がって、その熱は幕のすぐ傍まで来ている。


 だがそれでも、美丘は昂揚していなかった。

 前の演者が終えて緞帳が下りる間、手前の観客を見ていたがそこに()の姿はなかった。

 まだ来ていないだけかも知れない。後ろの方は観ることが出来なかったから、もしかしたら。

 そんな期待と不安が入り交じる中で、美丘の心に今から披露する歌へ向けるだけの余裕などなかった。


「……遊奈?」


 後ろから呼びかけられてハッとして振り返る。心の奥底で渦巻く様々な感情をごまかすように、いつも通りの笑顔を作ってみせる。


「どうかした?」


「緊張してるの? なんかいつもと違うけど」


「……んー、まぁ少しは。服装もドレスだし」


 そう言ってくるりと美丘はその場で回る。大人と子供の境界を表現したようなデコルテの出たオレンジ色のドレスだが、暗い幕の奥であるこの場ではあまり見づらいだろう。

 そんな風に何でもないように振る舞ってみせる。

 だが美丘一人の演奏に付き合ってくれるほどに親しい友人だ。少し訝しんでいるその視線は、そう簡単に消えてくれない。


「……最近、様子変だよ?」


「大丈夫だよ」


 その言葉はいったい誰に向けたものだろう。

 そんなことを思いながら、遊奈は前を向く。


 開演のブザーが鳴り響く。

 幕の向こうで生徒会か放送部の誰かが美丘たちの紹介をし、それが終わるや重い幕が開いていく。

 眼底を刺すような白い照明に目が眩んだが、すぐに慣れた。

 視界は開け、会場の隅まで目が届く。

 別段、美丘は目がいい方ではない。だがそれでも、大好きな人の姿を見落とすなんてことはない。


 ――いなかった。


 その会場のどこにも、彼女が恋い焦がれ、待ち望んだ伊吹一維の姿はなかった。

 ゆっくりと上がる幕とは裏腹に、美丘遊奈の心にはすっと帳が降りていく。

 歓声が上がる。口笛が聞こえる。けれど、その音の洪水はどんどん遠のいていく。伴奏者とのアイコンタクトすら取ることが出来ない。

 不思議と涙は出なかった。ただ諦観と共に、心が沈んでいく。思考すら消えていく。


 どれだけ立ち尽くしていただろう。

 友人が気付けと言わんばかりに先にピアノを弾き始める。

 マイクの前に立った美丘はそっと目の前に立てられたスタンドマイクを握る。

 せめていまのありったけを込めて歌おうと息を吸う。


 ――出なかった。

 ――声が。

 ――声が出ない。


「――……っ」


 伴奏が虚しく響く。

 どれだけ喉や腹に力を込めても、言葉はおろか音一つ出ない。ただ唇が、まるで池の鯉みたいにパクパクと虚しく開閉されるだけだ。

 すぅっと消えるように伴奏が止んだ。きっと友人が躊躇ったのだろう。

 観客がその様子にざわつき始める。美丘にはどうすることも出来なかった。ただ一人で、その冷めていく熱を眺めるしかない。

 ここまで尽くしてくれた友人の顔を見れなくて、美丘はそっとマイクから手を放して目を伏せる。

 慌てて「トラブルがありました」なんてアナウンスがあって一度幕が下り始めた。観客のざわつきすら遠くへ、全ての音が遠のいていく。


「遊奈、どうしたの……?」


「ごめん、ごめんね」


 謝るしか出来ない。

 こんな舞台に引きずり上げて、自分勝手にも歌えないなんて申し訳が立たない。そう分かっているが、それでも美丘にはマイクを握ることが出来なかった。

 ただ、理解だけがあった。


 ――このステージは、全て伊吹一維のためだった。


『歌うまいから、てっきりステージに出るんだと思ってた』


『いいじゃんか。俺はお前の声好きだぞ』


『プロになったら一番にサインくれよ』


 そんな何でもない少年の声が、今も耳に残っている。

 だから美丘はこの舞台に立つと決めた。彼の前で歌いたかった。本気の歌を披露して、そして自慢げに目の前でピースサインでも決めて、それで褒めてもらえたら大成功。

 だから、意味がない。

 伊吹一維がいないのなら、美丘にはここで歌う意味がない――……



「何やってんだ。歌えよ、遊奈……っ」



 鼓膜が、全身が、震えるような声がした。

 鎖されていく心が、そのたった一言でこじ開けられる。

 それは紛れもなく、世界で一番希った声だったから。

 涙で滲みそうになる視界で、それでも彼女はその声がした舞台袖を見る。

 そこにいたのは――……


     *


 息が整わない。

 屋上から体育館までの全力ダッシュなど帰宅部のすることではない。雪にまみれるほど寒い冬の中ですら、上がった体温が一向に下がってはくれない。

 幸いにも生徒会長の知り合いということが功を奏してか、舞台袖にはなんの邪魔もなくすんなりと通された。――一度上がったはずの幕は下がっていて、顔面蒼白の遊奈がそこに立ち尽くしている。

 膝に手を置くようにどうにか体を休めるが、それでも乱れた呼吸は整わない。そんなことはどうでもいいと切り捨てて、俺は冬の冷たい空気に引き裂かれた喉で、それでも目の前の少女に言葉を投げかけずにはいられなかった。


「歌えよ、遊奈……っ」


 季節外れにも流れる汗を拭い、俺は言う。

 その言葉で遊奈の視線が俺へと向いた。


「せっかく来たんだから、お前の歌を聞かせてくれよ……」


 どんな顔をしていいか分からないから、とにかく俺は笑うことにした。


「……遅いし、センパイ」


 彼女の顔が、泣いたような笑みでいっぱいになる。

 それを見るだけで、俺の心は満たされる。

 だからまずは、きちんと謝らなければいけない。


「悪かったと思ってるよ。――ただ、きちんと決着は付けなきゃいけないと思ったから」


 ようやっと肺と心臓が落ち着きを取り戻しつつある。汗も引いてきて、俺は真っ直ぐに立ち上がる。

 伴奏担当の友人は空気を読んだみたいに、ニヤニヤと笑みを浮かべながらピアノの前で待機している。途中ですれ違った蒼生を引き連れてきたから、幕の向こうでおそらく時間くらいは稼いでくれているだろう。


 だから、きちんと言おう。

 悩んで悩んで、随分と回り道をしたけれど。

 見つけた答えなんて、はじめからあったそれだけだから。


「……俺は、遊奈のことが好きだよ」


 遊奈の頬が赤く火照って、瞳からは涙がこぼれ落ちる。その滴は、キラキラと輝いて見えた。


「俺は、遊奈が好きだ」


 重ねるように俺はもう一度そう言った。

 聞き間違いではないと、彼女が待ち焦がれたであろうその言葉を、忘れられないくらいに届けるために。


「……お前は俺が未来をくれたって言ってたよな。――逆だよ。俺がお前から未来を貰った。ずっと昔にこだわって、そこから抜け出せなかった俺に、お前が今を、未来を見せてくれた」


 両親が離婚してから、俺にいいことなんてなかった。だから俺はそれより以前に救いを求めた。高嶺から貰ったシャーペンを手放せなかったのだって、きっとそれが理由だ。

 過去に追いすがることでしか、俺は自分を保てなかった。過去ばかりを羨んで、そこにしか幸せを定義できなかった。


「けど、お前がいてくれた。お前と一緒に過ごして、俺はお前に憧れた。何にでも真っ直ぐなお前に。切れる痛みに怯える俺にもう一度繋がりの暖かさを教えてくれたお前に。――だから、俺はお前の傍にいたいって思ったんだ。これから先も、ずっと」


 そう言って、俺はかぶりを振った。


 ――いや、違う。

 これは卑怯で格好を付けた言い訳だ。


「……それ、建前?」


「そうだよ」


 そして、遊奈には見透かされていた。心の底から幸せそうに泣き笑いを浮かべる遊奈に、俺は素直にそう認めた。


 敵わないと思った。

 こうまで俺の心を理解してくれる人は、きっと他にいないだろう。それをこんな風に泣かせているのに、どうしようもなく嬉しくて幸せだった。


「――お前と一緒にいると楽しい」


 きっとそれだけだ。


「――お前にもそう思っていて欲しい」


 ただそれを願っていた。


「――これから先もずっとお前の傍にいたい」


 それが今の俺の世界の全て。

 だから包み隠さず、俺の本音を外連も大仰も全て剥ぎ取って言葉にしよう。



「理由なんか全部後付けだ。答えありきで適当に理屈をくっつけただけだ。――ただ俺は、お前のことが世界で一番大好きなんだよ」



 それ以外に言葉なんて俺は知らない。これ以上の語彙なんて持ち合わせていない。

 ただこれが俺の心のありったけだ。


「――こんな理屈もない告白じゃ、駄目か?」


「……センパイ、どうせ答え分かってるくせに」


 そう言って、遊奈は俺の元へ駆け寄った。

 そのままするりと俺の首元に手を伸ばして、彼女の顔との距離はゼロになる。

 一瞬、俺は何が起きたのか分からなかった。

 ただ唇に何かが触れて、それに気付いて、顔が燃えるように熱くなる。

 そんな俺の、本当に文字通りの眼前で遊奈は頬を赤く染めたままにやりと笑う。


「センパイ、照れてる?」


「お前な……っ」


「まぁあたしの初めてなんだから、それくらい恥ずかしがってもらわなきゃね」


 そんな風に遊奈が言った直後だった。

 緞帳の向こうで歓声が上がった。


「……ん?」


 このタイミングで声が上がることに、俺は首をかしげるほかなかった。


 ――いや。

 本当は、そこまで来れば答えなんて一つだ。分かっていて、また目を逸らしているだけで。

 そんな俺にすっきりとした顔を向け、少し頬を紅潮させたままの美丘遊奈は小悪魔じみた笑みを浮かべていた。


「マイク入れっぱなしにしてたからね。センパイの恥ずかしい告白はみんなに筒抜けだよ」


 そんな言葉と同時に、緞帳は見計らったかのようにゆっくり上がっていく。


「お前、マジか……」


 全校生徒の前で告白をするなど俺の柄ではない。いくら幕に鎖されていて顔が見えなくたって、同級生なら俺の声だと気付くだろう。

 明日からどんな顔をして登校すればいいのだろう。――幸いにも冬休みだから、年明けには忘れていて欲しい。

 浮かれた気分から一転して現実に引き戻された俺に、遊奈はくすくすと笑っていた。


「センパイが遅れた罰だし」


 そう言って、遊奈はべっと舌を出して瞼を下げる。

 その子供っぽいところすら、今はどうしようもなく愛おしかったけれど。


「ほら、歌うから降りた降りた」


 遊奈はしっしっと俺を追い返す。晒し者にされるのも勘弁なので、俺は慌てて舞台袖へと引っ込んだ。

 そんな俺の背中に、遊奈は言う。



「あたしもセンパイのこと、世界で一番大好きだし」



 そうして彼女はスポットライトを浴びる。

 始まるのは、いつだって何度だって聞いたような恋の歌。

 けれどそれは、きっと、世界で一番美しい歌声だった。


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