第三章 俺が好きなのは――…… -5-
きぃ、と扉が軋む。
廊下にエアコンなどないとは言え、それでも室内だ。外に比べれば遙かにマシだったと改めて突きつけてくるような、そんな冷気に街全体が飲まれていた。
――屋上の風は、それにも増して酷く冷たかった。
舞い落ちる雪片が、ことごとく温度を奪い去っていく。
そんな純白の世界の中心に、彼女は一人立っていた。
「……伊吹くん」
フェンスにもたれかかるように、黒髪の少女の姿があった。
その瞳は、どこか潤んでいるように見えた。
「来てくれたんだね」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
ただここから先へ、一歩踏み込むことが出来ない。しないのではない。出来ない。
「……もっと、近くに来てよ」
きっと、高嶺はもう察している。その声が涙に濡れている理由は、俺の思いが正確に、過たずに伝わっているからだ。
「私ね、ずっと、伊吹くんのことが好きだったんだよ」
訥々と。
零すように彼女はそう言った。
「小学生の頃、ただ話すだけでも嬉しかった。伊吹くんと話せるだけで嬉しくて、毎年こっそりバレンタインのチョコを用意してたけど、渡す勇気が出せなかった」
「……、」
「六年生になって、一緒に鍵を探してくれたとき。私が迷惑をかけたのに、それでも私は嬉しかった。広い教室に二人きりだって思って、すごくどきどきした」
俺もだよ、と。肯定するのは簡単だ。――あの頃、確かに俺は彼女に恋い焦がれていた。それは揺るぎない事実だ。
けれど、俺は声に出せない。
「私は臆病で、告白をしない言い訳ばかりを探してた。そうして中学を卒業した。――けれど、高校で再会できた。伊吹くんが私のことを認識しているかは知らないけれど、それは、本当に運命みたいだって思ったの」
認識していないわけがない。紛れもない初恋の相手が同じ高校にいる。入学式で彼女の姿を見つけたとき、俺は確かに胸が高鳴った。
「だから、ありもしない勇気を無理矢理に振り絞って振り絞って、あの日、私は伊吹くんに手紙を送ったんだよ」
今にも泣き出しそうな顔が、その悲痛さが、俺の胸を抉る。
慰めるのは簡単だ。手を伸ばすだけでいい。俺の思いの有無なんて関係ない。泣きそうになっている女の子がいるのだから、そうするべきだ。――そんな高慢な正義感を押さえつけるように、俺は左手で右腕を握り締めた。血が出るかと思うほど強く、強く。
「どうして、私じゃ駄目なのかな……っ」
そうして赤く腫れた目で、彼女は俺を真っ直ぐに見つめる。
――俺がここに来た理由は、高嶺雪花への想いに応えるためではない。
ただ、けじめだ。
無言のままに、何も告げることなく片方を選ぶことは容易い。それが一番傷の少ない方法だと。――だがその傷が、誰のものかなんて言うまでもないだろう。
だから、言え。
あの日言えなかったその言葉を。
「……小学生の頃さ」
息を吸う度、喉はヒリヒリと焼けたように痛む。それくらいに渇き切っていて、途切れるようにしか言葉が続かない。
それでももう、引き返せないから。
「お前と話すのが楽しかった。笑顔が見れるだけで胸が高鳴って、もっと笑わせたくて馴れもしないのにおどけたりもした」
「…………私も、楽しかったよ」
涙の混じる彼女の声に、胸が引き裂かれるように痛む。
何様だと、そんな声が聞こえる。
どの立場で決断を下しているのかと、そんな嘲りさえあった。
それでも、俺はその声を無視して、答えを紡ぐ。
「この二週間、本当に楽しかったんだ。どんな風に話しかけていたかなんて忘れてぎこちなくなったけど、それでもお前といたら、まるで昔に戻ったみたいだった」
「だったら……っ」
そして、高嶺は叫ぶように言う。
「だったら、私を選んでよ……っ。ずっと、ずっと私は伊吹くんのことが好きだった!」
痛い。
胸の奥が引き裂かれ、ねじ切れそうに痛む。穴が開いて、そこから何かがこぼれ落ちていく。
「子供のときからずっと、伊吹くんだけを見てた。私じゃ釣り合わないかもって思って、少しでも長く一緒にたいからって、必死に勉強して……っ」
気付いていなかった。
その思いに少しでも気付いていれば、違う未来があったのだろうか。
そんな意味のないことに思いを馳せて、それでも、俺は小さく首を横に振った。
「足りないって言うなら、もっと頑張るから……っ! だから、だから――っ」
喚くように叫ぶ高嶺から、思わず俺は目を逸らしそうになる。
けれど、踏み止まる。
それは駄目だ。
そんな逃避は許されない。
向き合うと、たとえエゴだとしても、そう俺が決めたのだから。
「……俺がここに来たのは、お前の想いに応えるためじゃない。ただ俺の自己満足だよ。それでも、きちんと、面と向かって言わないといけないと思ったから。お前の思いを知っているのに何も言わないっていうのは、ただ俺が傷つかないように逃げているだけだから」
「――ッ」
どうしようもないくらい、それが答えだった。
けれど、高嶺は決して泣かなかった。今にも溢れそうなくらい目に一杯涙をためて、目も鼻も真っ赤にして、それでも。
「……これ、小学生の頃のクリスマス会で、お前が用意したやつだろ?」
そして、俺は胸ポケットに戻していた一本のシャーペンを取り出した。
「俺もこれをずっと大事に抱えてた。――だから、錯覚してた」
そして、一歩ずつ俺は近づく。
雪が俺の肌に触れる。それは刺すような冷たさで、それでも、俺は歩みを止めはしなかった。
モノトーンの世界の中に、その青いペン一つがキラキラと虚しく輝いていた。
「あんなにも楽しかったから。あんなにも輝いて見えたから。その綺麗な思い出を大事に抱えて、それにすがりつきたかった。――過去に戻りたかっただけなんだ、きっとさ」
言って、それは今さらながらにすとんと俺の胸に落ちた。
中学生になって両親が離婚した。それ以来、俺にとって楽しいと思える日々は極端に減少した。――だから、なおさら羨んだのだ。
過去の自分を。
高嶺を好きだった頃の自分を。
その憧れや嫉妬を大事に抱えて、それが恋の延長だと錯覚していた。
「俺が好きだったのは『お前との思い出』だったんだ。――だから、俺はお前を選べない」
シャーペンを差し出して、俺は言った。
俺がいま高嶺に抱いている感情は、恋ではない。
初恋を美化して、ただただ綺麗なだけのものにして、その美しさに自ら見惚れた。ただそれだけの話だ。――それだけの話が、彼女に虚ろの希望を見せてしまった。傷付けることになってしまった。
だから、ここで切り離さなければいけない。
前へ進むために。
過去をきちんと過去にするために。
「……そう、かぁ……」
力なく彼女は呟いた。その表情は無理矢理に笑顔を作っていたけれど、どうしようもなくらい痛々しかった。
震える手で、高嶺がその細いペンを掴む。爪が食い込むくらいきつく握り締めた。
「……酷い真似をしてるって分かってる。だけど、俺がいま好きなのは――」
「駄目だよ、伊吹くん」
彼女はその無理矢理作った笑顔のまま、そうして俺の言葉を遮った。
「それは、私に言うことじゃないよ。――ほら、行ってあげて。きっと待たせちゃってる」
そんな笑みを浮かべたまま、彼女は俺の肩を掴んで無理矢理に背を翻させる。
その意味が分からない訳がない。
「…………悪い」
「謝らないでよ。――伊吹くんの選択は間違ってない。こんなに胸は痛いけど、おかげで、全部吐き出せそうだから……っ」
そして、彼女が俺の背を叩く。
行け、と。
そう言われているような気がして、俺は振り返らずに走り始めた。
*
「あぁ」
小さく、自分にすら呆れたように高嶺は呟いた。
手にしたシャーペンは、霜焼けになりそうなくらい冷たい。
「分かってた、はずなんだけどなぁ……っ」
どれほど長く高嶺が伊吹を見てきたか。彼が本当に美丘のことを好きだったことなど、初めから分かっていたことだ。
分かっていて、それでも、それを認められはしなかった。
彼の傍にいたいと。
そう願ってしまったから、現実を否定してでも彼女は手を伸ばしてしまった。
だから、この痛みは自業自得だ。
そう納得しようとするのに、どうしたって出来なくて、ただ胸を押さえつける。
「――ぁぁ……っ」
伊吹の足音すら聞こえなくなってから、高嶺はとうとう崩れ落ちた。
後から後から涙が零れて止まらない。
それほどに、本気だった。
ずっと、ずっと、抱え続けたこの恋だ。まるで心が欠け落ちたみたいに痛んで、どうしようもなくてその場から動けもしない。
いつかきっと、これが彼の言う『思い出』になるのだろうか。
それを好きになれる自信は、いまの高嶺にはまだ足りなかった。




