第三章 俺が好きなのは――…… -3-
三日三晩考えた。
悩み抜いて悩み抜いて、出した結論が正しいなんてこれっぽっちも思えないけれど。
それでも、覚悟を決めた。
「……よし」
十二月二十四日、火曜日の朝だった。
そんな風に呟いてからでなければ、俺は学校にすら足を踏み入れることが出来なかった。
聖鷹祭の開始まではあと一時間もない。
校門の前ではモニュメントを作る生徒が忙しなく行き交っていて、昇降口も様々な教室から駆け足で出入りする生徒で溢れている。
聖鷹祭は文化祭とは微妙に異なり、各クラスではなく部活や個人単位での活動になる。部活は当然中止にならないため、例年こうして直前まで慌ただしく準備が執り行われている。
その風景は、どこか現実離れして見えた。
ただ勉強するためだけの、億劫で憂鬱な空間が華やいで楽しげな空気に包まれている。この特有の雰囲気がなんとなくくすぐったかった。
――あれから、高嶺はおろか遊奈とさえ連絡してはいない。
彼女たちがいまどんな心境なのかすらもう俺には分からない。もしかしたら、とっくに俺には愛想を尽かしてしまっていることだって。
けれど、選ぶと決めた。
決めたからには、きちんと向き合わなければいけない。その後でなければ、生半可な気持ちのままでは、きっと彼女たちを傷付けてしまうだけだ。
そう、思っていたのに。
「……なんだよ。怯えてたのも迷ってたのも、俺一人かよ」
思わず昇降口でそんな言葉が漏れた。背後を去って行く誰とも知らない生徒が怪訝な顔を向けているかもしれないが、どうだっていい。
俺は下駄箱を開けたまま、ただ零れる笑みを堪えられなかった。
いつだって、何度となく、俺と誰かを結びつけたその箱の中に、二通の手紙があった。
差出人なんて、確認するまでもない。
ゆっくりと俺はそれを開封する。二通とも、内容は示し合わせたように同じだった。
「同じ時間に、別の場所に呼び出しか」
高嶺からは、午後三時に屋上へ。
遊奈からは、同じ時刻に体育館へ。
遊奈のそれはおそらくステージでの演奏だ。高嶺がそれに合わせたのだろう。
――どちらかを選んで。
彼女たちは、そう言っている。
なんと強いのだろうと、俺は感服するしかない。自らが傷つくかもしれないことなど分かっているはずなのに。たとえ選ばれたとしても、諸手を挙げて喜べもしないだろうに。
「……分かってるさ」
くしゃり、と握った二通の手紙が音を立てる。
逃げることはもうしない。たとえどれほど泥にまみれようと、俺は手を伸ばすと決めたから。
*
澄んだ音が冬の空に響き渡る。
冷たい金色の楽器を下ろし、高嶺はふぅと息を吐く。
聖鷹祭の開会式で吹奏楽部は一曲披露し、そのまま午前中のトップバッターで演奏がある。最後の個人練習は、今までになく晴れやかな気持ちで臨むことが出来た。
「……これでよかったなんて、思えないけど」
それでも、あれから迷いは消えた。このトランペットを吹いても、音は乱れることなくいつも通り、あるいはそれ以上に、高嶺の思い描くとおりに鳴り響く。
間違っていることなんて分かっている。誰かを傷付けていることだって自覚している。
それでも、こうすることでしか憂いを払う術がなかったから。
「それでも私は、伊吹くんが好きだから」
出会いは、本当にありきたりだった。
たぶん彼自身は覚えていない。小学三年生の頃に一度、同じクラスになったときから、高嶺は伊吹一維を見ていた。
きっかけなんてあってないようなものだ。ただ同じ生活班になって、少し話す機会があっただけ。友達の延長線上だったと思う。
それでも確かに、高嶺雪花は伊吹一維に恋をした。
「あの日記帳も、それが理由。――たぶん。伊吹くんが覚えてないみたいだから違うんだろうけど」
小学生の頃のクリスマス会。ランダムで配られたプレゼントの中から高嶺はこれを手に入れた。可能性なんて低いと分かっていても、それでも、これがもしかしたら伊吹一維の選んだものなのでは、なんて思って胸を躍らせて、今なおそれを使い続けている。
小学六年生に上がって、彼と一緒に家の鍵を探していたとき、ずっと胸は高鳴っていた。彼が善意で助けてくれていることは分かっていたが、それでも、二人きりという状況が嬉しくて仕方がなかった。
それで高校の進学先が左右されると否が応でも気付かされた中学生の間、高嶺は本気で勉強に励んだ。元の成績など無残なものだったが、学年首位だった伊吹の志望校が県下一の高校であることは理解していた。だから、そこを目標に死に物狂いで頑張った。
しかしついに成績は足りず、志望校はその一つ下。伊吹が落ちるとは思えなかったから、もう会えないのだと、無理矢理諦めるように中学を卒業した。
なのに、入学式で高嶺は伊吹と再会した。
彼が第一志望に落ちたことは分かる。それは彼のことを本当に好きなら、悲しまなければいけなかったのかも知れない。――だが、それでも高嶺雪花にはそれが運命のように思えたのだ。
「だから、絶対に譲ってあげられない」
意を決するのに一年かかった。それくらい、高嶺はその思いを抱えて堰き止めてしまっていた。ようやく、ようやく踏み込んだのだ。――だから、もうどんな結末になってしまっていたって、それを終わりと認めることすら出来ず、ただ突き進むしかない。
息を整え、高嶺はまたそのトランペットに唇を当てる。
寒空の下に、どこまでも伸びやかに音が広がっていく――……
*
重い余韻が肌を撫で、音が途切れた後も美丘遊奈はただ立ち尽くしていた。
音楽室を借りて、美丘はクラスメートと最後の練習に励んでいた。
「――遊奈、もうそんなに頑張らなくてもいいんじゃない? もう数時間で本番だよ?」
「あ、疲れちゃった? なら最後の合同練習もう終わりにしようか。――あたしはもう少し、自主練するよ」
「本番前に喉潰さないでよ」
「分かってる。――じゃね」
ピアノ伴奏をしてくれる友人を見送って、高嶺はまた一人で練習を始める。
ただ、気付けば拳を固く握り締めていた。
一曲歌おうとして、途中で声は途切れた。
代わりに漏れ出たのは、紛れもない遊奈の本心だった。
「――順番なんて知らない……っ」
そんな言葉が漏れて、勝手に溢れた滴が頬を伝う。
高嶺のことを美丘は好きだった。こんなにも可愛くて優しい人がいるのかと、ほんの数回会っただけだというのに、感動にすら近いものを覚えたほどだ。
もしも彼女の恋の相手が伊吹一維でないのなら、心の底から応援していただろう。幸せになって欲しいと、出来る限りの協力を惜しむことなどなかった。
それでも、そんな仮定に意味はない。
高嶺も美丘も、恋した相手は同じ人だ。――どちらかしか、選ばれることはない。
高嶺の事故は悲劇だったと思う。
自身の告白は偶然だったと思う。
ほんの些細な、何かのずれがこんな結果になってしまっただけ。美丘も、自分が伊吹の傍にいいない未来だって十二分に考えていた。その可能性はきっと少なくなかった。
それでも。
それでもいま傍にいるのは自分なのだ。
誰にだって、高嶺にだって、この場所を譲るわけにはいかない。
「――だから、歌う」
そして、美丘は苦しさと切なさを吐き出すように音を響かせる。
――届け。
――届け。
――届け。
この声が嗄れるまで。
彼への思いが、その胸に届くまで。
それしか自分に出来ることが何も分からないから。




