第三章 俺が好きなのは――…… -2-
きぃ、とブランコの鎖が軋みを上げる。
夕暮れを背に当てもなく、俺はただ人気のない公園のブランコに座り込んでいた。
何をすればいいのか。それすら考えることが出来ず、俺はただただ時間を浪費する。ぐるぐると思考は螺旋を巡り続け、抜け出すことも出来ない。
真冬の冷気は針のようで、俺の身体に突き刺さる。それはどこかで、心地よくすらあった。――誰にも責め立てられない自分を、唯一罰してくれているような気がしたから。
そうしてどれほど時間が過ぎ去っただろう。
ヴー、ヴー、と、ポケットの中でスマートフォンが小刻みに振動する。かじかみ、摩擦を失った指先でどうにかそれを取り出すと、そこには『妹(姫那)』と表示されていた。
血流の滞ったような指先でどうにかそれに応え、俺は耳に当てる。
『もしもし、お兄ちゃん? いまどこ?』
「……なんか用があるのか?」
『時間見なよ。そろそろお母さん帰ってきちゃうよ?』
言われて、ようやく俺の思考に現実味が戻ってくる。母親が帰ってくる前に帰宅していなければ小言を言われる、なんて、そんな当たり前の日常すら忘れてしまっていた。
『……で、お兄ちゃんは何をやらかしたの?』
「やらかした前提かよ」
『昨日帰ってから様子おかしかったし。そんなんで遊奈さんと会ったらどうなるか、なんて姫那にだって分かるよ』
「何もないよ」
『うそ』
逡巡すらない断定が返ってきた。
――昔から、勘はよかった。両親が離婚したとき、まだ姫那は小学生だ。浮気だとか不倫だとかの詳しい説明など出来るわけもなく、俺も母さんも曖昧にぼかしていたというのに、いつの間にか彼女は真実を知っていた。
だが、それでも俺は姫那に本当のことなど言えるはずがない。
両親の離婚で、姫那がどれほど傷ついたかを俺は知っている。それにもかかわらずその原因と全く同じ真似をしようというのに、何を言えばいいというのか。
「まぁ、なんだ。遊奈と喧嘩したってところだ。放っとけ」
『――それで誤魔化せると思ってる辺りが本当にお兄ちゃんだよね……』
心底呆れたようなため息をついて、姫那は言う。
『お兄ちゃんは、喧嘩をしない人だよ』
「何だ、急に」
『正確には出来ない人、かな。――お兄ちゃんはメンタルが潔癖だから、自分が間違ったことをするのが大嫌いだし。冗談では済まないって分かってて、自分に非があることが分かっていたなら、お兄ちゃんはどんなに相手が嫌いだって謝れちゃう。喧嘩になんてならないんだよ』
「何目線だよ、お前」
『妹目線だよ。――まぁ、そんな訳だから遊奈さんと何があったのか、なんて姫那には分からない。よく分からないけど大変なことがあって、首が回らなくなってるんだろうな、ってことくらいだね』
「……、」
『しばらくは適当に姫那がお兄ちゃんをパシらせたことにしてお母さんを誤魔化しておくから。――だから、大人しくその面倒くさい性格を叩き直して貰って、連れ戻されること』
「……誰にだよ」
「俺だよ」
俺の頬に突然触れた温度に、俺はびくりと全身を震わせた。奇声を上げなかったどころか通話中のスマートフォンを砂の上に落とさずに済んだのは僥倖だろ。見れば、それはどこにでもあるような缶のココアでそう怯えるほど熱くもない。
そして、それを持ってくすりと笑う少年がいた。
「……蒼生」
「昨日ぶりだな」
いったいいつから待機していたのだろうと問いかけそうになって、俺は止めた。姫那の口ぶりから察するに蒼生は彼女から連絡を受けて俺を探していたはずだ。タイミングから考えて、少なくとも通話前には見つかっていて、姫那との会話は全て筒抜けだったのだろう。
「そういう訳だ。姫那ちゃんの大事なお兄ちゃんは俺が責任を持って送り届けよう」
『よろしくお願いしますねー』
スピーカーホンにしてないというのに大声で意思疎通を図り合って、姫那からの通話はぷつりと切れた。
「……お前、いつの間に姫那と連絡先交換してたんだ?」
「小学校の頃はお前の家で遊んだりもしたからな。面識はあったし。去年の文化祭で挨拶に来てくれて、そこでお前には内緒で連絡先は交換してた」
「なんで秘密にする必要があるんだよ……」
「伝える必要があったか、シスコン」
「ぶん殴るぞ、お前」
そう言いながらも、俺は差し出されたココアをありがたく受け取って、二人で座れそうなベンチへ向かう。
「――さて、何があったか話してもらえるか?」
「お前に相談するようなことじゃないよ」
親友の申し出にも、俺は素っ気なく答えるしかない。
答えが出ないことなど分かっている。ましてや、それは俺の汚い部分を曝け出すような行為だ。蒼生にまで格好を付ける気などないが、それでも誰だって汚物をみたいとは思わない。蒼生に不快な思いをさせる理由がない。
だが、隣に腰掛けた蒼生はじっと俺の目を見ている。
「……俺は、高嶺が好きだった相手を知っている」
「……っ」
「俺の失言が直接的な原因になったのか、遠因になったのか。それは分からないがな。あれから何がどうなるか、くらいは俺にだって想像がつく」
蒼生の言葉に、俺の中に諦観が湧き始める。
既に蒼生は部分的に事情を知っている。俺が答えに辿り着いたように、蒼生だって答えに辿り着くことは可能だろう。
であれば、隠す意味はない。
むしろ間違った解釈を挟まれる余地がある方が、こじれてややこしいことになる。
そんな誰に向けたものとも分からない言い訳を心の中で重ねて――そして、俺は全てを蒼生にぶちまけた。
高嶺雪花に告白されたことも。
高嶺のことを今でも想ってしまっていることも。
遊奈のこともまた好きであることも。
俺の汚い部分を全て、そのままに吐き出した。
「――なるほど」
だと、言うのに。
蒼生はただそれだけだった。
俺に向ける視線の温度すら変わらない。いつも通りの、親友に向けるそれのままだ。
――いいやつだ。そう改めて思った。
俺は蒼生の、無私の奉仕を否定している。それはこの上なく損な役割だ。こうして頼んでもいないのに相談を受けるなど、その極みだろう。人の愚痴なんて、聞いた側にだってヘドロのように何かがこびりつく。
なのに、それを分かっていても蒼生はそれを引き受ける。その親友の姿に、俺は今だけは素直に感嘆した。
「それで、お前はどうしたい?」
核心に迫るような声で、蒼生はそう問いかける。それがなぜか怖くて、俺は視線を砂の地面に落とすしかなかった。
「……分からない」
「……はぁ。お前が分からない、なんてことがあるわけないだろ」
呆れたように蒼生はため息をついていた。白く広がる息だけが視界の端でかすかに見える。
「一つだけ確認しよう。――どちらも選ばない、なんて、腑抜けた選択をする気じゃないだろうな?」
その蒼生の言葉に、俺はびくりと全身を震わせた。――それがどういう心理かなんて、言うまでもないだろう。
「やはりか」
「……なんで、そんなことを聞くんだよ」
「何年お前の親友をやっていると思ってる? お前の考えなどお見通しだ」
肩をすくめる親友を前に、敵わない、と、俺はそう思った。
いつだって立花蒼生はそんな人間だった。何でもないことのように全てを成し遂げ、平然と周囲の全てを見通して、全てを円滑にまとめ上げてしまう。
それはきっと俺の憧憬であり、俺が彼の傍にずっと居ようとする理由だったのかも知れない。――その無私の奉仕さえ、あるいは。
だから、観念した。
自分にすら偽ってきた本当の気持ちを、とっくに気付いていたのに気付かないふりをして押し込めようとしていたその結論を、俺はただ吐露する。
「俺は、姫那以外の家族が嫌いだ」
「……知っている」
「自分の理想を押しつけるしかしない母親が。何より、自分勝手に全てを壊した父親が。――なのにさ、今の俺のありさまはどうだ? 誰がどこからどう見たって、俺はその父親と同じことをしている」
だから俺は、迷ったのだ。
どちらを選ぶか、ではない。
どうすれば俺が綺麗な人間でいられるか、だ。
「遊奈と付き合ってるんだ。高嶺を選ぶなんてあり得ない。――だけど、高嶺があの日事故に遭いさえしなければ、俺の隣にいたのはきっと高嶺だった」
そう呟いた俺の指先は震えていた。それが気温に関係ないことくらい、もう分かっていた。
遊奈からすれば、高嶺を選ぶなどあってはならないだろう。
だが。
高嶺からすれば、もう一度選び直して欲しいと願うのが当然だ。
どちらの想いも分かる。間違ってなどいない。
「だから、選べないよ。どっちを選んだって正解がないから」
はぁ、と吐いた息が夕闇の中に広がっていく。
気持ちが悪い。
俺の吐いたものが白いという、ただそれだけのことすらもう。
「……俺は、どこで間違えたんだろうな」
ぽつり、と。
勝手にそんな言葉が俺の口から漏れ出た。何を喋ろうと思ったわけでもなく出たその言葉は、きっと、何よりも俺の本心だった。
「高嶺の想いを探ったことか。それとも、高嶺の依頼を受けたときか。――遊奈と付き合ったときか。高嶺を好きになったときか」
あるいは、もっと前だろうか。
「……俺は、どうすれば良かったんだよ」
答えなんて出てこない。――分かるのは、俺が気付いたときにはもう、薄汚れた人間だったというただそれだけ。
「正解も間違いもないんだよ、こういうのには」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ……っ」
すがるものさえ失って、俺は目の前の親友を睨み付けるしかなかった。
どうしたって俺に救いの道はない。あれほど嫌悪した姿に自らが重なるのを、ただ指を咥えて見るしかない。
「傷付けたくなんてないんだよ……っ! そんなの当たり前のことだろ! なのにどうして、どちらかを傷付けるしかないなんてことになるんだ……っ!!」
どこにぶつけたらいいかも分からない怒りがこみ上げて、それを、無様にも俺は目の前に吐き出していた。
だから。
言ってはいけないと分かっているのに、その言葉が口を衝いて出る。
「――はじめから、出会わなきゃ良かったのに」
ぐらり、と、急に足場が崩れ落ちたような感覚があった。
確かめてみても、足は地面に着いている。なのに、ひどく不確かな浮遊感だけは消えずに俺を呑み込んでいる。
「そうだよ、それしかなかった。繋がりなんてはじめからなかったら、こんな痛みは、俺にも、遊奈にも、高嶺にだってなかったんだ……っ。ずっと、ずっと俺が思ってたんじゃねぇかよ。誰とも繋がりがなければ、って。中学のあの日から、俺がずっと願ってたんだ……っ」
「――だから、二人を捨てると、そう言い切ってしまう気か?」
凍えたような蒼生の声が、俺の胸を叩く。
「どちらも選ばなければ汚くならなくて済むと思っているのなら、それは間違いだ。――それはお前の選択肢の中で一番、お前自身が汚い人間になる選択だ」
「何だって?」
「だってそうだろう? どちらも選ばない。それで救われるのは、いったい誰だ?」
その言葉に、俺は目を剥いた。
それ以上を続けさせては、俺が固めようとしていた何かが粉々に砕け散ってしまう。なのにそれを止める力すら凍てつかせて、蒼生は言葉を打つ。
「高嶺も遊奈ちゃんも納得なんてしないだろ。片方を選ぶなら傷ついても、きっとあの二人なら納得できる。けどお前のその選択はだめだ。その選択で救われるのはお前だけだよ」
「……っ」
「我が身可愛さに二人を傷付ける。そうして手に入れた綺麗さは、たぶん腐っているよ。皮一枚だけ綺麗に取り繕っただけ、中身はひどいものだ」
言い返せなかった。
その通りだとさえ思った。
だって、俺は遊奈のことも高嶺のことも、これっぽっちも考えてはいなかった。
ただ俺が他人からどう見えるかだけを考えて、型に嵌まった道徳に沿おうとして、二人を切り離そうとした。
そうして綺麗ぶろうと、自分が汚くなりたくないと、そんな理由で二人の思いから目を背けるその様は、きっとなによりも醜悪だ。
「頭のいいお前は通って来なかった、ありきたりで当たり前のことを、俺がいま教えてやる。――選ぶしかないんだよ。正解なんてなくて、どっちを選んでも傷つくしかないと分かっていても、そのどちらかを」
「――ッ」
「どれだけ考えたって、全てを丸く収める画期的な解決策なんて絶対にない。――子供の頃からそうやって、聡く、狡く、誰にも思いつかないようなことを思いついて、誰にも見破れないものを見破って、何でも乗り越えられたお前には分からないだろうが、それが普通なんだよ」
――あぁ、そうだとも。
本当は分かっていた。自分の力ではどうにもならないことがこの世の中にはあって、どれだけ抜け道を探したところでそんなものはないのだと。
そんなこと。
両親が離婚して、姫那が一人すすり泣いていたあの夜に、とっくに分かっていたはずなのに。
「悩めよ、一維。今までそれをしてこなかったんだから、まずはそこからだろう」
そして俺の肩を叩いて親友は笑う。
それを見送るように眺めて、俺は短く息を吐く。
選ばなければいけない。
それがどれほど高慢かなど、言うまでもないだろう。
けれど、それでも――……




