第三章 俺が好きなのは――…… -1-
返事をしなかった。
その事実そのものが、俺の頭の奥でぐるぐると渦巻いている。
もうとっくに日は昇っている頃だろう。窓から見える薄汚れた鉛筆画みたいな空も、僅かに明るんでいることが分かる。――だが、俺はベッドの上に倒れたまま動けないでいた。
地球の質量でも増えたのだろう。縫い付けられたみたいに、重く空気がのしかかる。
一晩くらいで、この自己嫌悪が拭えるわけがない。――あるいは、答えを出すまでは。
「――くそが」
天井へ吐き捨てるが、それはそのまま自分へと降り注ぐ。
正解なんて分かっていた。
あの場でどうするべきかなんて分かり切っていた。
今がどうしようもなく間違っていることも。
なのに、何も出来ないでいる。
――まるで、と。
火花が散るように、記憶が蘇る。
過ぎる映像は全て中学一年生の頃のもの。その映像の中心にいるのは、俺とよく似た父親の姿だ。
あぁ、そうだ。俺はあの人の息子だ。だから繰り返す。あの父親のように二心を抱いて、何もかもを無茶苦茶に壊すのだ。
誰よりも憎んだはずの男の姿と、今の俺が気持ち悪いくらいに重なって見える。
そんな俺が、何よりも汚くて、憎くて、嫌いだった。
「――お兄ちゃん、朝ご飯どうするの?」
そんな俺の部屋に、ノックもなしに姫那が入り込む。
彼女が俺に向ける声のトーンは落ち着いている。昨日の帰宅直後の俺の様子から、彼女も何かを感じ取ったのだろう。探るように、フラットな声音を心がけているようだった。
「……食うけど、母さんは?」
「仕事だからってとっくに出て行ったよ。……お兄ちゃんにも声かけてたはずだけど、聞いてなかったの?」
そうか、とだけ呟いて、俺は軋む体を無理矢理に起こす。
きっと聞いてなどいなかったのだろう。それくらい、今の俺は自分のこと、自分の気持ちだけで手一杯だった。
答えが分かっているのに辿り着けない。
素人が作った迷路みたいなものだ。どうしたってぐるぐると堂々巡りを続けるしかなく、疲れ果てて、すり減って、どうしようもなくなって、その場で終焉を迎えるのだ。
「……のんびりしてていいの?」
「何がだよ」
重力に抗ってどうにか起き上がる俺に、姫那は当たり前のように言う。
「土曜日だよ、今日。最近ずっと土日のどっちかは出かけてたじゃん。あれ、遊奈さんとデートしてたからでしょ?」
目の前がチカチカした。
その名前を聞いただけで、みぞおちを殴られたみたいに思い衝撃が俺の内臓へ響いてくる。
彼女と過ごす毎日は、間違いなく輝いていて、楽しかった。
それがこんなにも重く苦しいものになるだなんて、誰が想像しただろう。
「――あぁ、すぐに行くよ」
取り繕って、そう言うのが精一杯だった。
いま、そして遊奈と会うとき、俺はいったいどんな顔をするのが正解なのか。
それすらもう分からなかった。
*
それから、俺は何をどう準備したのかも覚えていない。必死に面の皮を厚くして、思いも裏切りも何もかもをその下に押し込めて、いつも通りの俺を作り上げた頃にはもう駅前にいた。
遊奈を待つ間も、心は不思議と落ち着いていた。あのどす黒く重たい何かは、明るい色で塗り潰されている。
それがメッキだとは分かっていても、剥げなければそれは分からない。
「――センパイ、お待たせしちゃった?」
俺が着いて五分としないうちに遊奈が俺の前に顔を出す。昨日の別れ際は泣いていたはずだが、もうそんな様子は見て取ることは出来ない。
おろしたてのような白いコートと柔らかそうなニットに身を包んだ彼女は、いつも以上に可愛らしく俺の目に映った。
たぶん錯覚ではないだろう。習慣づいてしまったデートの中では服装の力の入れ具合は、男の俺にもある程度分かってくる。
その理由は分からない。――けれど、きっと触れてはいけないのだろうと思った。
「いや、大して待ってはないな」
「じゃあいいかな」
そんななんでもないやりとりに、心が救われるようだった。
言わなければいけないことがある。
それでもそれを棚上げにして、今このときだけは楽しみたかった。
「――それで、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
「……何も決めてないわ」
「センパイ、彼氏としての自覚が足りないんじゃないかな……」
はぁ、と遊奈は呆れたようにため息をつく。こんなやりとりすら、もはや遠い記憶の中にしかないように思えた。
「でもそんなことだろうと思って、今日のあたしはデートプランを作ってきたから。今日一日は、センパイをあたしがおもてなしするよ?」
「それは楽しみだ」
そんな風に笑って、俺は彼女とともに歩き始めた。口元の筋肉が、攣ったみたいに痛かった。
――それから、俺は遊奈に連れ回された。
初めは、彼女が行きたがっていた映画だった。
ポップコーンの味を塩にするかキャラメルにするかで一悶着あり、厳正なるじゃんけんの結果俺が譲ることになって、甘いものを抱えて俺と遊奈は劇場内へ足を踏み入れた。観たものは、公開されたばかりの恋愛映画。原作が恋愛小説で、ヒロインが不治の病気を打ち明けるシーンでは、隣を見れば遊奈の手の甲には滴が落ちていた。
それから向かったのは洋食屋。
小洒落た店で、きっと俺一人なら行くことはおろか見つけることもなかっただろう。俺が頼んだハンバーグを遊奈に一口譲ったが、遊奈が代わりにと俺にくれたのはセットのサラダだった。そういう訳だからではないだろうが、遊奈の食べていたパスタはありきたりなカルボナーラなのにとても美味しそうに見えた。
そして、俺たちのデートの定番でもあるカラオケへ。
マイクを握り締めた遊奈が、聖鷹祭でも歌う曲の練習も兼ねて熱唱していた。俺も負けじと対抗するが、点数はおろか消費カロリーですら彼女には遠く及ばない。この華奢で小柄な体のどこにそんな力があるのかは分からなかったが、きっと誰かに音楽を伝えるために生まれたのだろうと、そんなことを考えた。
――そうしてだいたい、三十分が過ぎた頃だろうか。歌う曲が見つけられない俺に、遊奈はマイクを置いて向き合った。
「センパイ」
「待てよ、いま適当に入れるから」
「センパイ――こっちを向いて」
そして、彼女は両手で俺の頬を包むように触れた。
「大事な話があるの」
「……なんだよ」
「センパイ、昨日、高嶺センパイに何を言われたの?」
「――ッ」
隠し通すはずだった。
なのにその言葉はあまりにも鋭利で、どれほど分厚く固めた面の皮でも、一太刀で切り落としてしまう。
「な、にも――……」
「告白、されたんだ」
「――っ、違、それは……っ」
咄嗟に否定の言葉を紡ごうとする。けれど、その先は言葉にならなかった。ここで嘘を積み重ねることは、さらにひどい裏切りのように思えたから。――もうこれ以上ないくらい、彼女の思いを踏みにじっているというのに。
「やっぱり、勝てないのかなぁ……っ」
零した遊奈の言葉が、俺の胸を内側から抉る。
心臓に穴が開いたみたいに、鼓動と同時に吹き出す血液を自覚する。暴れ狂う胸の奥が苦しくて、俺は右の拳でそれを押さえつけるしかなかった。
「……なんで、そんなこと」
「隠せるわけないじゃん。――センパイ、今日は一度も目を合わせてくれてないのに気付いてないの?」
言われて、俺ははっと彼女の目を見た。
いったい、いつからだろう。それすら分からない。
ただ彼女の瞳は涙に濡れていて、目元は赤く、赤く腫れている。
「――……センパイが、まだ高嶺センパイのことを好きなのは知ってるつもり」
「待てって、俺は――」
「いいから。だって、あたしが告白したんだもん。センパイがあたしの告白を受け入れてくれたのはあたしのことが好きだからじゃなくて、あたしを振る理由がなかったから。分かってるよ。分かった上で、あたしは付き合ったの」
俺の言葉に噛み付くように、しかし静かに彼女の独白は続いた。
何かにハウリングするみたいに、彼女の声がこの狭い部屋に木霊する。
「付き合ってからだっていいから、センパイにあたしを好きになってもらおうって思ったの。馴れないメイクも勉強した。デートの日は少しでも可愛く見える服を前の夜から悩んで悩んで決めた。少しでもセンパイの心の近くにあたしがいられるように」
「遊奈……」
「今日のデートも、頑張ろうって。高嶺センパイよりあたしを選んでもらえるように。少しでもデートらしく、でもセンパイにも楽しんでもらえるようにって。あたしと一緒にいたいって、あたしがそう思ってるのと同じくらいセンパイにも思って欲しいって」
つぅ、と。
彼女の頬を涙が伝う。
「なのに、あたしじゃ駄目なのかな……っ」
言葉が刺さる。
いまはどんな言葉も嘘にしか聞こえないだろう。――俺自身が、俺の本心を理解していないというのだからなおさら。
「あたしは、センパイが好きだよ」
「――っ」
「世界で一番、センパイのことが好き」
脳裏に過ぎる高嶺の姿が、俺の身体からあらゆるエネルギー奪い去っていく。
目の前の遊奈の姿と。
昨日の高嶺の姿とが。
ぴったりと重なり合ってしまう。
「俺、も――……」
たった一言が、あまりに遠い。
掠れきった喉からは、もう声なんて出なかった。
「高嶺センパイのことは、あたしも大好きだよ。こんな形でセンパイと付き合ってさえなかったら、もっと、ずっと、仲良しでいたかったよ……っ。――でもそれでも、あたしはセンパイのことが好きだから。他の誰にもあげたりなんて出来ないから……っ!」
俺は、彼女に何を言わせているのだろう。
こんなことになるはずじゃなかったのに、と。
そんなどうしようもなく無駄で無意味な現実逃避に思考が呑み込まれる。
これ以上、彼女に先を続けさせることだけは、駄目だ。それを言葉にされてしまえば、もう俺という人格は砕け散ってしまう。
「けどやっぱり、センパイは――」
「違う……っ。俺が、俺が好きなのは――……」
「やめてよ」
食い下がり、続けようとした俺の言葉を、彼女の叫びがさらに拒絶した。
「……はじめて、言ってもらうのに。それを、そんな風な言い訳には使わないでよ……っ」
涙と共に放たれたその言葉に、俺は胸を穿たれた。
俺は何をしようとしていたのだろう。それは、まるで透き通った水晶の玉を粉々に砕いて砕いて汚泥の中に沈めるような、そんな醜くおぞましい真似だ。
「――ゴメン、センパイ。あたし帰るね」
もうこれ以上、平静ではいられないと思ったのだろうか。俺の前から美丘遊奈は涙を振りまいて走り去っていく。
それを、俺は動くことも出来ずに呆然と見送った。
追いかける術すらない。ただ開け放たれた扉の向こうを眺めるしかない。
「――何やってんだよ、俺」
自嘲気味な笑い声が漏れる。
右手で自分の額を殴りつけ、そのままくしゃくしゃと前髪を握り潰す。
あぁ、醜い。
醜くて、汚くて、救いようがない。
誤魔化しようもない。この期に及んで遊奈を騙そうとした挙げ句、それにすら失敗し、彼女に涙を流させた。
ソファの上に落ちたその滴を指先でなぞる。冷たいその感触が伝播して、そのまま凍えてしまいそうだった。
「本当に、何やってんだ……」
涙をなぞった左手を爪が食い込むほどに握り締める。ぷつ、と切れる感触と共に滴る血液は、気持ちが悪いほどどす黒く見える。
これが、俺という人間だ。
俺に自由なんて要らなかった。母親は正しかったのだ。
俺は普通の人間だと思っていた。周りと何も違わない。ただ普通に勉強をして、恋をして、まっとうに生きていくのだと。
出来るわけがないのに。
あの父親と同じ血が、俺の中には流れている。だったらもう結末だって変わらない。
ただ少し、その悪の華の開花が早かっただけだ。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
こんなにも醜い俺が。
――この期に及んで他の何かの責任にしたがる、醜い俺が。
「――――……っ」
もうどうしようもなかった。
ただ小さく、この世界から消えてしまうほど小さくなって、俺は嗚咽を噛み殺した。




