第二章 あの問いは、まるで鏡のようで -7-
あれから一時間以上待ったが、遊奈とは出会えなかった。教室を覗いてみても彼女の鞄はなかったから、一人で帰ってしまったのだろう。
理由は分からない。
ただ、蒼生の言葉を聞いた遊奈はひどく狼狽していた。それが間接的か直接的かは別にして、原因であることに疑いの余地はない。
本気で蒼生を問い詰めれば、答えに辿り着けるのかも知れない。だが、彼が頑なに言わなかったと言うことには、絶対に意味があるはずだ。
「自分で考えるしかない、か」
昇降口から出て、俺は傘を開きながらそう呟く。
思考の整理から始めよう。
問題は、なぜ遊奈は走り去ったのか。
その原因は蒼生の言葉。
『――まだ告白はしてない』
その意味を考えることが、スタートライン。だがその状況すら分からない。蒼生には高嶺が告白したかどうかなど知るよしもないのだ。その断定は、本来ならあり得ない。
――では、断定できる理由は?
その自問への答えはほとんど思考を必要とはしなかった。
数瞬でシナプスは繋がり、たった一つの解答までへも繋がってしまう。
「……違う、それは違う」
答えはあった。
だが、嘘だろう、とそう呟くしかなかった。そんな結論は、醜いナルシズムにすら見えた。だと言うのに、俺には否定の材料がなかった。
否定が出来ないのなら、それが真実でなければいけない。
――違和感は、はじめからあったのだ。
それは、紛れもなくスタートから。
「じゃあ、あの手紙と鍵は――……」
その結論に辿り着いたのは、きっと偶然だっただろう。理論も理屈もありはしない。ただちりばめられた状況が、その仮説を形作っただけ。他の可能性だってあるはずだ。こんな推論は暴論だ。もっと、もっと考えれば――……
「――くそ」
思考はもうまとまりはしなかった。考えるより、動いた方が早かった。
俺はただ、家とは真逆の方向へ走り出していた。
*
気付けば、一つの家のインターホンを押していた。
押してから彼女以外の家の人が出たらなんて説明すればいいのかと過ぎったが、それは杞憂で済んだ。
『……伊吹くん』
カメラ越しに俺の姿は分かったのだろう。そんな風に呼ぶのは、きっとこの家では高嶺雪花だけだ。
「確認したいことが、あるんだ」
『……入っていいよ』
そう言ってインターホンは切れる。
俺は促されるままに門を抜けると、ちょうど玄関の扉でガチャリと音がした。鍵を開けてくれたらしい。
扉を開けた高嶺はまだ制服姿だった。帰ってきたばかりだったのだろう。
「それで、伊吹くんが確認したいことって?」
高嶺の声はあまりに平坦だった。それがどういう心境から来るものなのか、俺には判断するだけの冷静さも、察するだけのゆとりもなかった。
「……鍵」
そう呟くので精一杯だった。冷え切った冬の空気に、自分でも気付かないうちに肺が締め付けられていたのかもしれない。
「上がって」
高嶺はそう言った。俺はもう傘をどうしたとか靴をどうしたとか、そんなことすら分からないありさまで、それでも気付けば彼女の部屋にいた。
先日来たときとは違う。あんな浮き足だった感情はどこかに消え失せていた。
「――……気付かないわけじゃなかった」
ぽつり、と。
零すように俺は言った。
「楽器ケースから鍵が見つかったのも、それが日記帳の鍵なのも本当だろう。――じゃあ、はじめに財布から見つかった鍵は? それが日記帳の鍵でないのなら、その錠前はどこで何を守っているんだろう。そう考えたけれど、それの答えは出ない。だから、これが問題の一つ目――いや、二つ目として棚上げにしよう」
「…………、」
「先に解くべき問題の一つ目は、本当に一番最初。お前がこの依頼を持ちかけるより少し前に、俺が抱いた違和感だった」
そう言って、俺は制服のポケットに入れっぱなしにしていた一通の手紙を取り出す。それは、高嶺雪花が俺を呼び出すのに下駄箱に入れていたものだ。
「この手紙にはどうしようもないくらいの違和感――いや、既視感があった。なぜか? だってこの封筒も、この文字も、俺が遊奈に告白された日に貰ったものと瓜二つだったから」
その事実に気付いたのは、ついさっきだ。だが思い返せば、そのヒントでは常につまずいていたのだ。
遊奈が聖鷹祭のステージに出るという申請書を手に取ったとき。
姫那に遊奈が告白した日の話をしたとき。
記憶の端で、この手紙の存在がちらついた。その信号の正体が、これだ。
「なぜ、遊奈が書いたはずの手紙に高嶺の文字があったのか。――簡単だよ。遊奈は手紙を書いてなんかいない。半年前、俺に手紙をくれたのはお前だったんだ」
そうでなければ、筋が合わない。
あの日、遊奈が告白するために書いたと思われた手紙。それと高嶺の文字が同じであるなら、その結論以外にはあり得ない。
代筆の可能性もまたない。高嶺と遊奈が出会ったのは、ほんの一週間前だ。六月の文化祭の二日目に届いた手紙に関与できる理由がない。
「だとしたら、全ての状況が覆される。――高嶺。お前が交通事故に遭った日は、いつだ?」
いっそ、外れていればいい。
こんな神妙な面持ちで、真剣に思い悩んだこの様を笑い飛ばすくらい、「なにそれ」と一言で台無しにしてくれればいい。そう笑い物になった方が一〇〇倍マシだ。
そんな引きつった笑みを浮かべる俺の前で、高嶺は小さく、掠れる声で呟いた。
「……六月、十五日。――うちの高校の文化祭の二日目だよ」
それはまるで、答え合わせだった。
なぞりたくもない。けれど、なぞらなければいけない。見なかったことにだけは、もう俺には出来なかった。
「だから、あの日、手紙を送った高嶺は俺の前には現れなかった。ただそこに偶然、遊奈が来てしまった。――あいつは手紙のことも知らず、ただ俺へ告白する機会を窺っていて、たまたま一人になっていたところを突撃したつもりなんだろうな」
そして、俺と遊奈は付き合うことになる。
「入院なりから戻ってきたお前はショックだっただろう。告白するつもりだった相手に、彼女が出来て。それが自分の告白するはずの日に付き合ったのだと知ったのならなおさら」
「…………、」
「悩んだんだろ。悩んで悩んで、それでも、真相がどうしても知りたかった。――遊奈が俺や高嶺を嵌めたのではないのだと、その確証が欲しかった。それが分かれば、諦められるとでも思ったのかも知れない。だからお前は今になって、俺たちに接触した」
それが、一週間前の出来事だ。
「記憶喪失は嘘だよ。遊奈に後ろめたいことがあるかどうかを探るために、そして、もしただの偶然で遊奈に落ち度がないのなら、自分の思いを隠し通せるように」
そうして彼女は俺たちに接触した。そして確信したのだ。遊奈が騙したのではないと。
だから、彼女は身を引こうとした。それが俺に贈られた『告白はした』というメッセージだ。
「それが、今までの真実だ。違うところがあるなら、言ってくれ」
俺の言葉に、高嶺は無言で立ち上がる。そして引き出しを開け、一つの金属の箱を取り出した。そこには、小さな南京錠が付いている。
「――これが」
「そうだよ」
彼女は財布から小さな鍵一つを取り出し、その錠を外す。かちゃり、と音を立てて落ちた南京錠を放って、彼女は蓋を開く。
そこにあったのは、数枚の紙。
それは便せんだった、
「書き損じの手紙だよ。ラブレターみたいで、友達にも親にも見られたくなくて、そしたらどこにも捨てられなくてね。こうしてしまう以外に方法がなかった」
それは、紛れもない解答であり、不動の証拠だった。
俺の無様な自己陶酔などではないのだと、このほんの数枚の紙束に突きつけられている。それはきっと鉛の鎖なんかよりもよほど、俺の心臓も肺も重く締め付けている。
「……どこで気付いたの?」
俺の問いに、まるで答えのような質問で彼女は返す。あぁ、と嘆きを堪え、俺は震える唇で言葉を紡ぐ。
「本当に、ついさっきだよ。蒼生が言ったんだ。『告白はしてない』って。何の事情も知らないはずのあいつが断言できる理由は何だろう、って考えた。答えは一つしかないよ。蒼生はお前の好きな人を知っていた。そしてそれは、蒼生か俺のどちらかだ」
そうでなければ、告白はしていないと断言は出来ない。昨日の今日だ。他の誰かであったのなら、たまたま知らなかっただけ、という可能性もあるはずだ。それすら排除して蒼生が断言したのなら、選択肢なんて他にない。
小学生の頃から俺と蒼生、高嶺は同じ学校だ。蒼生が高嶺の好きな相手を知っていてもおかしくはない。
「あとは手紙の件だ。合わせれば、答えはこうにしかならない」
「流石よろず屋だね。何だって、頼んでもないものだって、解決しちゃうんだから」
もう俺は、高嶺の顔を見ることすら出来なかった。
こんな事実を突きつけに来て、俺は何をしているのか。
彼女が俺を諦めようとしているのならそれでいい。見なかった振りをして、気付かなかったふりをして、それで済ませればよかったのに。
俺は何かを求めるみたいに右手を自分の胸ポケットに当てた。
空っぽの感触に、何に触れようとしていたのかを思い出して、ひどく胸が軋んだ。
「……遊奈は、先に気付いてたみたいだけど」
「私のところに来たよ。遊奈ちゃんは何も悪くないのに、すごく泣いて、すごく謝ってくれてた。遊奈ちゃんには、申し訳ないことをしちゃったなぁ……」
そこで彼女たちにどんな会話があったのかなんて、想像することも出来はしない。
けれど彼女の声音は、怖いくらいすっきりとしていた。もう後悔なんて、懺悔なんて、全て終えてしまった後なのだと、そう気付くには十分すぎた。
「――最低な、本当にひどいことをしている。分かってるよ。分かった上で、それでも私は、綺麗で格好付けたままで生きているなんて出来ないんだって、気付いたから」
そして、まるで飛び降りる前みたいな、そんなはっきりとした声が飛んでくる。
違う、と。
それは駄目だ、と。
思うのに、さっきまであれだけ饒舌だったのに、唇は張り付いたまま動いてはくれない。
「伊吹一維くん。――私はまだ、あなたのことが好きです」
聞き間違いなどあるわけがない。
そんな余地を残してくれないほど残酷に、彼女はその言葉を、思いの丈を、俺の心臓へと真っ直ぐに突き刺した。
――言え。
――たった、たった一言だ。
――無理だよ、と、ただそれだけだ。
そう思うのに、喉も体も、全てが凍り付いてしまったかのように動けない。
俺には遊奈という彼女がいる。だからその気持ちには応えられない。ただそれだけ、どこにだって転がっているような、そんなありきたりな拒絶を並べ立てるだけでいい。それが俺の役目のはずだ。
分かっている。
分かって、いるのに。
どうしたって俺は、その言葉が言えなかった。
あのシャーペンが、胸ポケットから筆箱の中へと隠したあのプレゼントが、どれだけ離れていたって俺からその力を奪い去っていく。
窓を雨が叩く。
ふと、俺の脳裏に、一週間前に彼女が放った問いが過ぎる。
あの問いは、まるで鏡のようで――……




