第二章 あの問いは、まるで鏡のようで -4-
薄暗く狭い空間だった。
そんな場所に、澄んだ綺麗な声が響く。それをなんと形容すればいいのだろう。流行の曲をただ思うままに歌っているだけのはずなのに、その空間を支配すらする。歌詞に出てくる雪降る街の情景すら浮かぶような、そんな歌声だった。
だから、一瞬、俺は忘れてしまっていた。
いつもとは決定的に異なるこの現状に。
「――……なんでこんな状況になってるんですかね……?」
改めて呟いた頃には、曲は後奏に入っていた。マイクを握っていた美丘遊奈は、きょとんと首をかしげている。
「なんで、って、さっき言ったじゃん。聖鷹祭のステージじゃ一曲しか歌えないし、リハーサルも同じだから不完全燃焼だ、ってことでカラオケ行こうって」
「そうだな、それはまぁいいよ。一時間くらいなら別に。――で、だ」
そう言って、俺は遊奈から視線を外す。
そのまま横にずらした先に、彼女はいた。
「うん? お兄ちゃんどしたの?」
こちらもこちらできょとんと首をかしげている。
伊吹姫那。俺の妹がいた。
「なんでお前がいんの……?」
「だって遊奈さんと遊びたかったし」
そんなことを言って、姫那は遊奈にぴったりとくっつく。――たぶん、俺ですらそんなに密着したことはない。
「センパイと一緒に帰ろうと校門を出たらいたからびっくりしたよ」
「迷惑でした?」
不安そうに上目遣いで窺う姫那に、遊奈は優しい笑みで首を横に振った。
「全然だよ。センパイの妹さんに嫌われてなくて安心したくらい」
「別に姫那ブラコンじゃないから、お兄ちゃんの彼女を嫌う理由はないんだけどなー」
なんとなく、遊奈と姫那の双方から外堀を埋められているような気分になって、居心地の悪い俺はオレンジジュースをストローで吸う。溶けた氷の味しかせず、ずずーと音が鳴るだけだったが。
「そ、れ、よ、り」
そんな風に言って、姫那はさらに一歩、遊奈に近づいた。
「お兄ちゃんとの馴れ初めとか、姫那は聞きたいなーって」
「お前な……」
表情筋の全てを使って心底嫌そうな顔をする俺の横で、遊奈は少し困ったようだった。
「センパイは嫌? そういうのを聞かれるの」
「嫌に決まってるだろ、妹だぞ」
「じゃあ教えるね」
困った顔から一転、遊奈は笑顔でそう言った。接続詞にバグが発生しているが、この笑顔を見るに意図的なものだろう。
「………………ちょっと機嫌悪い?」
「全然。別に、あたしがいない間に高嶺センパイの日記の件が完全解決してることに妬んだりとか、そんなことはしてないよー」
既に遊奈には高嶺の件が解決したことは伝えている。あのあとメッセージで『告白するかも』とか『頑張れ』とか適当なやりとりをして、もうあの依頼は完全な収束に向かいつつある。
せっかく高嶺と仲良くなったばかりで接点の一つが消えてしまったことに、遊奈はご立腹らしい。俺が嫌がれば嫌がるほど、今の遊奈は喜んでやることだろう。諦めて俺は空のジュースを片手にただ口をつぐむしかない。
それを肯定や妥協と受け取ったのか、遊奈は隣の姫那に向き合った。
「で、馴れ初めだっけ?」
「はい。うちのお兄ちゃん今は部活もやってないし生徒会も入ってないから、まず後輩の遊奈さんと知り合いになることとかないと思って。――まさかお兄ちゃんがナンパしたりとか」
「前も言ったけど俺が告白された側だっての……」
俺の言葉の信用など子供銀行券以下であるらしく、姫那は俺に目もくれず遊奈の言葉を待っている。ただただ俺は、曲が入れられずにアーティストの挨拶を垂れ流すテレビだけを眺めるほかない。
「あたしもセンパイも文化祭実行委員で一緒の班になって、そこで門の看板の製作とかをやってたの」
「……お兄ちゃん、実行委員なんてやってたの? そんな忙しそうな委員、よくお母さんがいいって言ったね」
「仕事が五月六月にしかないから楽、って誤魔化した。なんでもかんでも俺が素直に従ってるわけじゃないぞ」
意味もなく部活も生徒会も禁止された身だ。反抗の一つや二つはして当然だ。その権利くらい俺にだってあるはずだ。
「はじめは『なんか理屈っぽくて面倒なセンパイだなぁ』って思ってたんだよね」
「…………割とショックだったんだけど、今のカミングアウト」
「お兄ちゃんうるさい。――で、どこでその印象が変わったの? というか遊奈さんの第一印象は、お兄ちゃんの全てを正確に表す完全無欠の形容だと思うんだけど」
もはや兄に対する尊敬の念など一ミリもないらしい姫那に、俺は小さく呟く。
「……姫那、お前が誤魔化して隠してるテストの成績、後でリビングのテーブルに出しとくからな」
「やん、お兄ちゃん冗談だよ? オニーチャンダイスキー」
完全な棒読みで作った笑顔と共にウィンクを飛ばす妹の姿に、俺は辟易してため息を漏らす。
「それでそれで、どこでお兄ちゃんの認識が変わったの?」
「んー。センパイは忘れてたみたいだけど、あたしが鼻歌を歌ってるところで鉢合わせて。で、歌うまいなって褒められたんだよね」
「……鼻歌ってレベルじゃなかったよな。廊下の端から聞こえるくらいの大熱唱だったぞ」
「そこは思い出さなくていいし!」
俺の横槍に顔を赤くしながら遊奈は怒るが、咳払い一つで話を本筋に戻した。
「昔、あたしは病気してて、小学校の頃は大人になれないと思ってたんだよね。で、治ったけどどうやって生きていくのか分かんなくて。そしたら、どうせなら人前で歌えばいいのに、プロになったらサイン貰うから、とかセンパイが言ってくれたんだよ」
「……俺、そんな境遇聞いてないけど」
「言ってないし。心配されても困るもん、もうほとんど治ってるのに」
「…………ほとんど?」
その言葉に、俺が耳ざとく反応する。遊奈が「……ホントそういう細かいところは嫌い」なんて唇をとがらせてぶつくさ言っている。
「呼吸器系の病気だったから、今でもしんどいのは無理だよ。長距離走とか、カラオケも立て続けに歌うとか。でもそれ以外は普通に治ってるの」
「そういうの言っとけって。万が一があったらどうするんだよ」
「…………ゴメンなさい」
「遊奈さんって、きちんと謝れる人なんだね。うちのお兄ちゃんとは大違い」
そんな遊奈の様子に姫那は感心している。都度都度俺を引き合いに出しながら貶しているが、俺も同感だからそこに文句は言えない。
だが、何に感心されているのか分からない、といった様子で遊奈は小首をかしげている。
「もしかしたら謝ったりお礼を言ったり出来ないで、そのままもう二度と会えなくなるかもって、そういうの子供の頃からなんとなく分かってたし」
きっと辛いことだってあったはずだ。子供の頃の病院なんて、痛い注射と苦い薬の記憶しかない。なのに遊奈のその言葉には、本当に裏のない、感謝だけが込められていた。
「だから、あたしはそういうのはきちんと言わなきゃなって。お父さんとお母さんにはすごく迷惑も心配もかけてるし、病気が治ったのだってたくさんの人のおかげ。そういう人の繋がりのおかげだって分かってるから、それを切り離しちゃうような真似は出来ないよ」
彼女は輝くような笑みと共にそう言った。
――あぁ、と、俺は心の中で呟く。
ずっと彼女の傍にいて、彼女に憧れにも近い好意を抱いていたのはここだったのだと、ようやく気付けた。
俺は人との繋がりなんて面倒なだけだと思っていたし、事実、それは今でも変わらない。あの母親がいる限り、あの父親の行動があった以上、俺の感性が変わることなどこれから先もないのだろう。
ただ、心のどこかでは願っていたのだ。
もしもそうでない環境があったのなら。
もしもあの日、離婚なんてなければ。
繋がりを、家族を疎まずに生きていけることを、俺はどこかで望んでいたのだろう。だから遊奈に惹かれたのだ。
彼女の傍にいたい、と。
そう意識した瞬間、俺の中に湧いてきた思いはそれだけだった。惚れ直す、なんてありきたりな言葉で表現することすら躊躇われるような、落雷でも受けたかのような衝撃と共に。
――そんな俺の感慨など知らない様子で、遊奈は「話が逸れちゃったね」なんて言って続きを語り始めた。
「とにかく、センパイの言葉で、急に『未来』っていうものが見えるようになったんだよ。センパイのおかげで、あたしにも未来があるんだってそう気付けた」
遊奈はきらきらとビードロのように輝く瞳で俺を見つめる。その真っ直ぐな微笑みに、俺は耳まで赤くなりそうで俯いて、手にした空っぽのグラスで視界を埋める。
「まぁでも、それと好きになったことは別かも。そこから意識してセンパイと話すようになって、だんだん好きになったっていう感じかな。一緒にいてすごく楽だし」
「どんな告白をしたんです!? そこを、そこを詳しく!」
「お前はどんだけ食いついてるんだよ……」
「流石にそれは恥ずかしいし……」
俺は呆れ遊奈は少し頬を赤くしてやんわりと拒否する。しかし思春期まっただ中、恋愛話が主食になりつつある中学女子の好奇心が止まるわけもない。
「この際お兄ちゃんからの情報でもいいや。教えてよ」
「別にいいけど、大した話じゃないぞ。ありきたりっていうか。まぁそれでもすげぇ嬉しかったんだけど」
そう言いながら、俺は思い出しながら答える。
「文化祭の二日目、最終日だったから、もう半年くらい前か。下駄箱を開けたら手紙が入ってて、公園に呼び出されたんだよ」
「手紙……?」
それに首をかしげたのは、姫那ではなく遊奈だった。
「どした?」
「……ううん、もう続けて。姫那ちゃんになら教えてもいいし」
遊奈に促されて、俺は不審に思いながらも続きを思い出していく。その行程ですら頬が紅潮するのが分かるが、カラオケルームの薄暗さならごまかせるだろうと自分に言い聞かせておく。
「公園に行ってしばらく待ってた。正直に言えば誰かの嫌がらせとか罰ゲームとか、そっちの方を考えてたんだけど。そしたら遊奈が来たんだよ。で『好きです付き合ってください』ってドストレートに来た」
「おぉ! で、お兄ちゃんはなんて?」
「…………忘れた」
「遊奈さん」
「第一声は『…………罰ゲームで言わされてないか?』だよ」
「……お兄ちゃん……」
哀れみと蔑みを等量混ぜ合わせて五時間ほど煮詰めたような視線で俺を見つめる姫那に、俺はなぜか言い訳を考えていた。
「待て、確かに最低な返事だとは思う」
「うんうん」
「でも冷静に考えろ。この俺に、こんなに可愛い遊奈みたいな女子が告白してくるなんてあり得るか?」
「あり得ないね! だったらお兄ちゃんの発言は妥当だ!」
一瞬で納得されるとそれはそれで腹立たしいが、ともあれ姫那の視線は純然たる憐憫に変わってくれていた。――ちなみに、当の遊奈は「……そんな風に言われて、あたしはどうリアクションすれば……?」と照れたように困っていた。
「……まぁそんな感じで、あたしと一維センパイは付き合いましたよ、って感じなんだけど。――姫那ちゃんは満足するような内容だったかな?」
ノンフィクションだから満足して貰えなかったら困るんだけど、と遊奈が言うと、姫那はソファの上に正座して深く頭を下げる。
「遊奈さん、こんなダメダメで不束なお兄ちゃんですがどうか末永く――」
「お前は何を言ってるんだ、アホ」
変なことを口走る姫那の頭を叩いて無理矢理に黙らせようとするが、姫那はかっと目を見開いて俺に詰め寄る。
「でもでも、こんなに真っ直ぐにお兄ちゃんを好きになってくれる女の子なんてこの先一生、絶対に見つからないよ!」
「一生とか言うんじゃねぇよ……」
強く否定できない程度には自覚がある俺に、遊奈はツンツンと脇腹をつついて言う。
「何も問題ないよね? あたしはセンパイのこと大好きだし、他の女の子に好かれなくても」
にっこり笑顔の遊奈に、俺は言葉を詰まらせるしかない。横で聞いている姫那がわざとらしく口に手を当てて目を輝かせているのが微妙に腹が立つ。
――が。
遊奈は自分で放った言葉を反芻して、そこでふと何かに気付いたらしく遊奈の表情はすっと影が降りていた。
「――……ねぇ、待って」
ずいっと遊奈が俺に詰め寄ってくる。彼女のシャンプーだかボディクリームだかの甘い匂いにくらっときそうになりながら、俺は狭いソファで抵抗するように後ずさる。
「あたし、よくよく考えたら一度もセンパイに『好き』って言って貰ってないと思うんだけど。あたしばっかり言ってると思うんだけど」
「……一回くらい言ったんじゃないかな」
「言ってないし! だいたい目を逸らした時点で自覚あるんじゃん!」
「…………お兄ちゃん、それは流石に彼氏としてまずいんじゃないの……?」
さぁ言え、と言わんばかりに遊奈も姫那も詰め寄ってくる。
流石に妹の前でそんなことを言えるはずもなく、俺はただ天井を仰いで、早く時間が来てカラオケから出られることを指折り数えて待つのだった。




