第二章 あの問いは、まるで鏡のようで -3-
十二月十八日、水曜日の放課後だった。
一夜明けた程度では、あのどうしようもない苛立ちは消えてくれはしなかった。朝起きた時点から母親とも顔を合わせないように、思い出さないようにしていたが、それでも心の中では引きずっていたのだろう。
あの程度の小言は言われ慣れている。そもそも俺に従う気がないのだから、それの止むこと自体がない。同じことを繰り返せば、心は摩耗しながらも学習する。
――だが、一夜明けただけではなく、いまは既に授業も終わった放課後だ。ほとんど二十四時間も経てばたとえ意識して残そうとしたって、そんな負の感情は薄らいでしまう。
ましてや、こんな状況であればなおさらだろう。
夕暮れの橙の陽が差し込む、二人きりの教室だった。
そこにいるのは俺と高嶺雪花だけ。何を話せばいいのかも分からなくて、ただ無為に時間だけが過ぎていく。
――なぜ、こんなことになっているのだろう。
そんな逃避気味の思考が過ぎる。
思い返せば、それは一つの電話が発端だった。
『聖鷹祭のステージの第一回リハーサルがあるんで、あたしは行けなくなっちゃいました』
改めて高嶺の鍵を探そうと集まるはずが、遊奈が突然そんなことを言い出したのが、この状況を作った全ての始まりだ。
『あたしがいないからって浮気したら駄目だからね!』
電話越しに何度も遊奈が釘を刺してきたが、言われるまでもなく俺にそんなことが出来るはずがない。
――何より、高嶺の今の依頼は『好きな人が知りたい』だ。自分には彼女がいて、相手には好きな人がいると分かっている状態で浮気を出来るほど、俺は神経のイカれたプレイボーイではない。
ともあれ、そんな事情で俺は二人きりで高嶺にヒアリングをしなければならなくなった。――月曜日あれだけ盛大に推理を失敗しておいて、どの面を下げて、と俺自身も思わずにはいられない。
「……伊吹くん、少し機嫌悪い?」
そんな俺の様子を鋭敏に感じ取ったのか、高嶺は少し怯えた様子で問いかける。
「いや、そんなことはない。昨日家でちょっと喧嘩したのと、正直、月曜に赤っ恥を掻いた後だからやりづらいなってだけだ」
素直にそう吐露するが、「それならいい、のかな」なんて高嶺が言って、また無言が続いてしまう。
「……ごめんね、付き合わせちゃって」
「いや、俺がやりたくてやってることだから」
気まずさに耐え切れなくなった高嶺がそう言うが、俺も短くそう素っ気なく返す程度しか出来ない。――昔は、こんな風じゃなかったはずだ。
小学生の頃は、いったいどうやって彼女と話していたのだろう。
楽しい思い出は今でも鮮明に思い出せる。きっと小学生で一番、俺の記憶が輝いていた頃だ。その光をくれたのは、間違いなく高嶺だった。
なのに、その記憶はもう、手が届かないほどに遠い。まるで別人の記憶をDVDか何かで眺めているみたいに、俺の今の心とは乖離してしまっている。
「伊吹くんはやっぱり優しいね」
「……そうか? 俺なんかより蒼生や遊奈の方がよっぽどいいやつだと思うけど」
「伊吹くんも同じだよ。――少しだけ、遊奈ちゃんが羨ましいかも」
そう言って、高嶺は小さく笑う。
夕暮れの窓際のそんな彼女の姿に、ふと、俺の脳裏にはある日の光景が浮かんでいた。
あれは、いつの日のことだろう。おそらく、今とそんなに季節は変わらない。――中学時代ではなかっただろう。俺の服装は覚えていないけれど、彼女がスカイブルーのボアパーカーを着ていたことは思い出せる。
可愛いとか綺麗とか、そんな殊勝なことを思えるほど俺の精神は成熟してはいなかったけれど、それからしばらくの間、何かを買うときは青色を選んでいたと思う。
「……昔、こうやって二人で教室で遊んだことがあったな」
「よく覚えてるね、伊吹くん」
「覚えてなんかない。なんとなくいま思い出しただけだ。なんで二人だったのかも覚えてないし、何をしてたのかも覚えてない」
「えー、それはひどい」
わざとらしく高嶺はそんなことを言う。――久しく、彼女のそんな表情を見ていないような気がした。懐かしいと、素直にそう思えるくらいに。
「一個訂正するとね、遊んでいたわけじゃないよ。私は、あのときもなくし物をしたの。家の鍵だったから、帰れなくて。お母さんにどんなに怒られるだろうとか、色々考えて、泣きそうになってた」
「……そんなこと、あったっけか」
「そうだよ。それで、運動場で遊んでた伊吹くんがランドセルを取りに戻ってきたタイミングで、一緒に鍵を探してくれたの。――だからね、私は伊吹くんにこの日記の鍵を探すのを頼んだんだよ。またなくし物を探すのを手伝って貰うなら伊吹くんしかいないなって、そう思ったから」
「本当に俺は覚えてないな……」
「本当にひどい」
笑いながら、高嶺は言う。ただ、俺も断片的には思い出している。
もしもその日のことで俺を優しいと高嶺が思っているなら、それは大きな間違いだ。
ただ俺は、好きな相手の力になりたかっただけ。格好を付けて、感謝されて、あわよくば好きになって貰おうと、そんな浅はかな考えで手を差し伸べたのだ。
――それは、今と何が違うというのか。
そんな風に俺の背後で影が囁く。
ぞっと背筋が凍るほどの冷たい声で。
かっと頬が赤くなるほど核心を突いて。
唾を飲む。それと一緒に感情すら飲み下す。ただひたすらそれに気付かないふりをするしかない。自分すら偽るしかない。
思考に没頭すれば、忘れることは出来るはずだ。
そんな汚い理由で、俺は手を叩いて話の方向を無理矢理にねじ曲げた。それすら悟られないように、必死に平静を装って。
「とりあえず、改めて何年かぶりに高嶺の失せ物探しをするとしようか」
「期待してるよ」
そんな風に微笑みかけられて、俺は思わず視線を逸らしてしまう。まともに視線を合わせることなんて、もう俺に出来るわけがない。
「……ところで、お前部活はいいのか?」
「んー、吹奏楽部だから結構忙しいんだけどね。今は聖鷹祭のステージもあるし」
「日を改めるか? 遊奈はリハーサルがあるって言ってたし、吹奏楽部もだろ?」
「今日のリハーサルは午後のステージの分。吹奏楽部は午前で、昨日に終わってるよ。最近はブラック部活、とか言われれないように水曜日は一応休みになってるし。――まぁみんな自主練に来るんだけど、行かなくても本番で吹けさえすれば怒られないよ」
「ならいいか」
とは言え、あまり遅くなれば部員から白い目で見られてしまうのは確かだろう。早いうちに決着をつけなければ、と俺は気を引き締め直す。――そうやって少しでもさっき過ぎった思考から遠ざかろうとした。
「とりあえず、日記帳をもう一回見せて貰ってもいいか?」
俺が訊ねると、高嶺は鞄から例の日記帳を取り出した。それを受け取って、俺はまじまじとその日記帳を観察する。
装丁は角がところどころ擦り切れていて汚れもうっすらとある。高嶺が大事にしているであろうことを考えれば、これは単純に古いものなのだろう。それは以前も考えていたとおりの確認だ。
そして、ふと俺はそれを横から見る。固く分厚い表紙を除いたページ部分の厚みはざっと一・五センチ程度。コピー用紙の束が五〇〇枚で四センチか五センチほどだったことを考えて、ざっと一七〇枚だ。
「ページ数で考えたら三四〇くらいか。毎日書いたら、一年で使い切る計算だよな」
しかし使い切った日記帳であれば、こうして記憶のなくした高嶺がすぐさま見つけるほど手近なところにも置かないだろう。つまり、高嶺は毎日はこの日記を綴ってはいなかった。
「好きな人の記憶を失って、鍵の場所も忘れた。つまりこの日記には、その好きな相手のことしか書いてなかった、ってことか」
何か他のことを書いていたのなら、その何かを推理できれば、それを呼び水に鍵の記憶にまで結びつけることは出来たかも知れない。だがこのページ数を考えれば、その可能性は限りなく低いと見た方がいい。
思考が行き詰まる未来を予測して、俺はそこで踏み止まって別の道を模索する。
鍵についてもっと深く考察する必要があるだろう。
先日披露して無残に散ったあの推理に矛盾は見当たらなかった。――だから、間違いがあるとすれば最初の前提条件だ。
「あのとき挙げた前提条件は、キーホルダーみたいにまとめられないし単体で保管もできない。日常的に使う場所でありながら、記憶をなくしてから一度も見てない場所にある」
「そうだったね」
「毎日綴らないのなら、日常的に使う場所っていう条件は崩れる。その他に、忘れている前提条件は、何だ?」
自問し、俺は考える。
日常的に使う場所でなくてもいいということは、別に日常的に使う場所でも構わないということ。ただの和集合だ。だから筆箱や財布、コスメポーチを考えたこと自体に間違いはない。問題は、なぜそこではないのか。――そして、どうしてそこを考えたのか。
「鍵を持っているのは高嶺雪花。これを忘れたから場所が分からなくなった」
「……どういうこと?」
「財布とか筆箱とか、そんなのは『誰でも片付けそうなところ』だ。高嶺個人に絞れば、それ以外の可能性だって浮上してくるはずなんだよ」
もともと俺が探そうとしていた場所は、一般大衆を含めた最大公約数的な場所ばかりだ。高嶺雪花の人格や行動に限れば、探すべき場所はもっと増えるはずだ。
「でもそれじゃ、選択肢がまた増えちゃうんじゃない?」
「だな……」
だから、条件はさらに追加しなければならない。
それは何か。
「……鍵、かけてるんだな」
改めて、俺は日記帳を見る。その南京錠はしっかりと施錠されていて、びくともしない。
「そうだね」
「何のために?」
俺の問いかけに、高嶺はきょとんとする。
「鍵があるならかけるんじゃないのかな」
「何でもかんでもか?」
「……そう言われると、あんまりかけないものもあるかな」
「あぁ。いちいち開けるのは面倒だし、鍵は小さい。なくしたくないなら、錠とセットにして別の場所に保管しておいた方が安全だったはずだ」
なのに、鍵をかけた。その理由は何か。
そこに思考が繋がった瞬間、俺は天啓のように理解した。どこに鍵が隠されているのか、その理由と共に、明確に。
勝ち筋が見えた将棋のように、俺は高嶺の問いに対し、一手一手を確かめるみたいに言葉を置いていく。
「でも、日記だよ? 読まれたくないなら鍵はかけると思う」
「そうだな。――じゃあ、それを読もうとする人間は誰だ?」
「……誰だろう?」
「質問を変えようか。その日記帳は、普段はどこにあった?」
「家だけど……」
「だったら簡単だ。家族に見られるのが嫌だった。なら鍵の保管場所はどこにするべきか。――決まってる。偶然にしたってなんだって、家族の手が絶対に及ばない場所だ」
そして俺は床を指さす。答えはこの場所だ、と。
「つまり、学校だよ。どうせ毎日は書かないんだ。書くときだけ持って帰ってきたっていい」
「……そう、だね」
「あとは簡単だ。学校に置きっぱなしに出来る場所なんて限られてる。下駄箱、机の中、ロッカー。けどどれも、あんな小さな鍵を隠すには適さない。何かで包んでいるにしたって出し入れのときに落ちてしまう可能性が高い」
「じゃあ、どこに……?」
「さっき追加した前提条件だよ。隠したのは高嶺だ。この学校で高嶺しか触らない場所があるはずだぞ」
その言葉に、高嶺もハッとしたらしい。
「……楽器ケースの中……?」
「じゃないかな。お前が何の楽器を担当しているのかも知らないし、その中がどうなってるのかは知らないけど、あんな小さな鍵一つを隠すくらいのスペースは絶対にあるはずだし」
「確認してくる」
「部活のついででいいよ。あってもなくても連絡だけくれれば」
そう言って、俺は手を振って高嶺を見送る。
「――……ごめんね、ありがとう」
去り際、振り返ってそう言った彼女の顔は、逆光でよく見えなかった。
「ごめんね……?」
ただ、その言葉だけが嫌に耳に残った。それがいったい何に対する謝罪なのかが、俺には曖昧で分からなかったから。
しかし気にしたところで仕方がない。
少なくとも今日の俺の仕事は終わったと見ていい。結果が駄目だったとしたらそれはまた明日考えればいいことだ。そう判断して、俺は帰宅の準備を整え始める。
――そして、五分ほどで俺のスマホに続けてメッセージが届く。
『鍵、あったよ』
『日記帳も開きました』
それを確認して、俺はふぅとため息をつく。
もうこれで、彼女と関わることはないのだろう。今まで通り、会話することもなく、ただ別々の生活を送っていく。
それに安堵する自分がいた。
――だって――……
その先を考えようとする自分を否定して、俺は遊奈がいるであろう体育館に足を向けた。




