第二章 あの問いは、まるで鏡のようで -2-
風に晒されているはずの左手から、顔まで赤くなるほどの熱を感じる。周囲からの視線を感じてつい手が緩むのに、緩んだ分以上の力で握り返されるのだから逃げようがない。
「えへへー」
横でそんな風に俺の手を強く握っている張本人の美丘遊奈は、だらしないくらいの笑みを浮かべている。それがあまりに幸せそうなので、俺はこのいたたまれない状況も、ため息一つをついて呑み込んだ。
それに、俺だって嫌がっているわけではない。たった数十平方センチメートルの肌が触れているだけだというのに、それはどうしようもないくらい胸が高鳴って幸せがどこまでも伝播していく。――ただそれを俺の口から伝えるのははばかられるが。
「上機嫌だな」
「まぁねー。このまま何もなければ今日は満足です」
そんな鼻歌でも歌い出しそうな遊奈の視線が、ぴたりと止まる。笑顔もまるで一時停止でも押したみたいに固まっている。
「……どうした?」
「ねぇ、センパイ」
声が一瞬にしてフラットになる。いったい何があったのかと彼女の視線の先を追って、俺はまさかと察した。
彼女は俺の左の胸ポケットを凝視している。――何も差していない、布地だけがあるポケットを。
「今までずっと差してたシャーペン、どしたの?」
「………………」
一手でも手を誤れば、あれほど上昇していた遊奈の機嫌が一転して過去最低レベルにまで下落することなど目に見えている。世界恐慌やリーマンショックすら笑い飛ばせるほどに。
声を出すより先に、俺は少し歩調を速めた。遊奈が僅かに手を引かれて、俺の後ろになるような形だ。
「……センパイ、視線を逸らす癖を誤魔化すために物理的に先に行ったって無駄だよ?」
「な、何のことだ?」
「そう言えば、さっき生徒会長のお手伝いをしてるときから使ってなかったよね? たぶん少し前から差してなかったんだ。小学生の頃、初恋の人から画策して手に入れた、クリスマスプレゼントの、あのシャーペン」
細かく確認するように、突きつけるように、遊奈は言う。握られた手の甲に彼女の長い爪が突き刺さる。
「女の勘、なんて適当なことは言わないよ。――ただ、あれほど毎日大事に持っていたシャーペンを、最近になってピタリと使うのを止めてしまったのは何で? そのきっかけは?」
「…………、」
俺が答えるまでもなく、既に彼女は気付いているのだろう。昨日の俺さながらに、そしてあの失態を塗り潰すほど完璧に、遊奈は推論を並べ立てていく。
「ここ最近でセンパイの周りで変わったことって言ったら、高嶺センパイの依頼を受けたことだよね。ということは、センパイは高嶺センパイにそのシャーペンを持っていることを知られたくなかった」
「…………、」
「でもあのシャーペンは、クリスマスの交換会で手に入れたもの。そのシャーペンを見て何かに気付ける人間なんていないよね。――意図して貰ったセンパイと、それを贈った人以外に」
チェックメイトだった。
「センパイの初恋の相手、高嶺センパイだよね?」
「…………もうお前が高嶺の日記の鍵を探した方がいいんじゃねぇかな……」
それが俺の出せる精一杯の負けの意思表示だった。
隠そうという意思があるわけではないが、流石に彼女を相手にわざわざそんなことを言えるほど俺の面の皮も厚くない。
「なんで黙ってたの?」
「これむしろどうやったら角を立てずにお前に伝えられるのか教えて欲しいんだけど……」
素直に俺が言うと、やや睨んでいた遊奈もむぅっと頬を膨らませているものの納得した様子ではあった。ただそれでも俺の手の甲に食い込んだ爪は緩んでいないのだが。
「……まぁ、そうだよね。センパイの言うことも分かるから怒ったりはしないよ」
「お前はとてもいい女だと思う」
「でしょー」
やや機嫌が上向く遊奈に胸をなで下ろしながら、俺は歩く。手を握っていた遊奈は一度手を放し、代わりに絡みつくみたいに腕を組む。
寒空の下なのにそこだけ熱くて、それがどうしようもないくらいの幸福感を与えてくる。顔がにやけそうになるのを必死に堪えて平静を装っていたが、それが成功している自信は俺にもなかった。
「ねぇ、センパイはなんで高嶺センパイを好きになったの?」
「……それ、答えなきゃ駄目?」
「答えないってことは何かやましいことでも?」
「何もないのでつまびらかにお伝えしましょう」
ここまで来ると俺に拒否権などないだろう。下手に抵抗して遊奈と喧嘩する、というのは俺の本意ではない。
腕を組んだことでぐっとペースが落ちた中、遊奈とのんびり歩きながら俺は昔の思い出を掘り返していく。
「……とは言ったけど、別に、大した何かがあった訳じゃないんだよ。小学六年生の頃に、同じクラスになって生活班が一緒の時期に結構話したんだ。別に何かイベントがあったわけじゃないし、向こうが覚えてることに驚いたくらい」
「それでなんで好きになったの?」
「……喋ってて楽しかったから、かな。女子とあれだけ喋ったの、たぶん遊奈を除いたらあのときだけだし」
「あと普通に可愛いし」
「勝手に俺の気持ちを代弁しないでもらえる?」
「代弁ってことは、認めるんだ」
「…………、」
うっかり口を滑らせた俺に、遊奈の視線が突き刺さる。
「なんか、センパイの目がいつもより楽しそうに見える」
「言いがかりだよ、それは……。あと自分で聞いといて不機嫌になるのだけは本当に理不尽だと思うぞ」
はぁ、と深くため息をついて俺は横の遊奈の頭を右手で撫でる。
なんとなく今日はずっとこんな調子だ。最近の俺の態度が原因で慢性的に機嫌が悪く、それが限度に近づいてきているのかも知れない。俺がないがしろにしてきたツケのようなものだ。
姫那の言葉が脳裏に蘇る。
『絶対に遊奈さんを逃しちゃ駄目だよ』
こんなに俺を好きになってくれる子は他にいないだろう。姫那に言われたからではないが、それでももっと大事にしなければ、と心を入れ替えることにした。
「ご機嫌斜めなようだけど、どうすれば機嫌が直りますかね、お嬢様」
「そのまま頭を撫でながらケーキ屋さんへ連れて行ってもらうのを所望します」
「バイトできない高校生にそれを突きつけるのどうかと思うぞ、お前……」
とは言いつつも、俺は遊奈と共に駅前の喫茶店へ足を向けるのだった。
*
――自分の判断、そして時間管理のミスではある。ただ、今日は遊奈に尽くすと決めたし、そこに後悔はなかった。
遊奈と散々っぱら遊んでから帰宅した直後のことだ。
「――そこに座りなさい」
ドアを開けると同時に、リビングで母親がそんなことを言う。
「……なんで」
「この時間まで遊んでおいて何を言ってるのあんたは」
刺々しい母親の言葉に、俺はただ黙って席に着く。反論できるような材料は、少なくとも今日に限ってはゼロだ。完全に遊んでいたし、言い逃れするつもりもない。
「いつも言っているはずよ、国公立以外に認めないって。いまこうして遊んでいる余裕があるとでも思っているの? 言っておくけど、私立に行こうが浪人しようが、そうなった場合は学費も生活費も自分で出しなさい。家には二度と入れませんからね」
「……何度も聞いたよ、それは」
「だったらその態度は何なの」
「成績は落ちてないだろ、他に何をどうしろって言うんだよ」
「口答えをするなって言っているの」
またか、と俺は口の中で呟く。会社で嫌なことでもあったのか何なのか、俺に当たり散らしているだけだ。――あるいは、俺の姿が別れたあの最低な父親に似てきているのか。
俺が母の思うとおりに動かないから、その勝手さが父親と重なって見えるから、それが気に食わなくて無理矢理に型やレールに押し込めようとしている。
「そもそも、高校入試ですら第一志望に落ちたというのに学習しないの、あんたは。何をどう分析すれば遊ぶ余裕があるなどと錯覚できるのかしら」
「…………、」
あぁ、そうだとも。俺は第一志望に落ちた。わざと、落ちた。
解ける問題をあえて落とし、徹底して点数を計算し、ギリギリのラインで俺は今の高校へ受かるように仕向けた。そう選んだ。――そうすれば、俺への期待の皮を被った抑圧は霧散すると思ったから。
それは、俺の淡くて甘い願望でしかなかったが。
「だいたい、いつもあんたは私の言ったことを――」
「……思い通りになんかならないだろ」
つい、そんな言葉が口を衝いて出た。
「……何か言った?」
「思い通りにならないのが気に食わないからって、当たり散らさないでくれよ」
――言わなくていいことだ。
分かっている。分かっているが、それでも、俺はどうしても耐えきれなかった。
「姫那にはそんなに厳しく言わないよな。俺が父さんに似てきてるのがそんなに気に食わないのかよ」
カッと母さんの顔が赤くなる。言ってはいけないことを言ったのだと、逆鱗に触れたのだと理解していながらも、それでも俺の口は止まらなかった。
「自分勝手に動いてるって、それがあの人に重なるからキレてるんだろ。――当たり前だ。他人なんだから勝手にするさ。俺はあんたの所有物じゃない。あんたの優秀さを見せびらかすためのバッジでもない」
「あんたね――ッ」
ヒステリックに母さんは叫び、俺の頬を平手で打つ。じんじんと左の頬が熱を帯びるが、むしろそのおかげで俺の頭は冷えてくれた。
「――――――――――」
「――――――――――」
「――――――――――」
それから、俺はもう母親の言葉を聞いてはいなかった。
俺がこれ以上言い返さないのは、そのまま機械のように「言い過ぎた」だとか「ごめん」だとかを繰り返しているのは、俺が子供だからだ。今は扶養されているからと、そう理由を付けて仕方なく頷いているだけだ。
もはやそこに、家族の温かさなんてなかった。
こんな風に言い合ったのはいつ以来だろう。言えばすっきりするかと思っていたが、胸の奥に溜まった泥は一ミリだって減ってくれはしなかった。
ただ、心がその泥の重さに耐えかねて乖離するようだった。
思うのは、なんで俺がこんな目に遭っているのか、ということだ。
これが普通の家庭の姿とは思えない。もう薄れ始めた記憶、小学生の頃であれば、もっと家は楽しいものだった。なのに、いまは違う。帰ることすら億劫で、家の中にいることは苦痛以外の何ものでもない。
そんな風に壊れたのは、全て、父親の不貞が原因だ。
妻を最も愛すべきはずの人間が、他の誰かと恋愛をした。その事実を知った中学一年生の俺は、ただ嫌悪と侮蔑を込めて父親を見送った。それであとはいつも通りに戻るのだと、家族で笑い合ったあの家が戻ってくるのだと思ったのに。
けれど、それはもう泡沫と消えた。
「――――あぁ」
小さく、対面の母に聞こえないほどに小さく、俺は呟く。
俺はこの街が嫌いだった。その原因は田舎だからとか、不便だからとか、そんな風に思っていた。だがそれは全く関係ないのだ。
この街はこの家を拡張しただけのような存在だから。
ひとりぼっちの方が楽なのに無理に人と接し、目先の利益に縛られ縁を切ることも出来ず、ただ機嫌を取ってヘラヘラと上っ面で会話をするしかない。
狭いコミュニティ。助け合いの精神。きっとそれは尊く、間違ってなんていやしない。ただ俺には、それがどうしようもなく不自由で、この家と同じ臭いがする。
だから俺は、この街が嫌いなのだ。
どこを向いても、この家と同じ空気が蔓延している。悪臭を付けただけの空気みたいに、きっと害なんてないのに、息をしなければ死ぬしかないのに、ただ俺の肺腑の奥へ重く重く沈んでいく。




