第一章 私が好きだったのは、誰なんでしょう? -1-
金木犀の香りすら薄らいで、冷たく研ぎ澄まされた空気が鼻の奥を刺すようだった。
人気のない教員用駐車場に一陣の風が吹く。俺と彼女の間に一つの線を引くような、そんな木枯らし。
思わず身をすくめてしまうような寒さに、しかし俺の心臓は必要以上に高鳴っていて、体感的な寒さは不思議と和らいでいた。指先の冷たさすら忘れるほど、胸の奥では様々な思い出や感情が渦を巻き、その摩擦が熱を高めていく。
そして眼前に立つ少女は、照れたように、恥ずかしそうに、ほんの少しだけ頬を紅潮させて、ゆっくりとその桃色の唇を動かした。
それがきっと、全ての始まり。
あるいは、何かの決別でもあったのかもしれない。
「私が好きだったのは、誰なんでしょう?」
*
時間は、ほんの僅か遡る。
安っぽいハロゲンヒーターの暖気に満たされた、教室には使えないくらいに狭い部屋――生徒会室だった。
そこで俺――伊吹一維は、渡された書類の束をぱらぱらと眺めていた。
「……めんどくさいな……」
「生徒会でもないのにお前が奉仕で手伝うって言ったんだろう。言ったからには手を動かせ」
呆れたように俺の対面でため息をついた少年は立花蒼生。この水鳴高校の現生徒会長だ。
中肉中背で顔立ちに関しても平均的な俺に対し、蒼生は非常に高身長だった。顔立ちもモデルとまでは行かないが、学年で順位をつければトップ10に食い込むだろう。俺と何ら変わらないはずの紺色のブレザーも灰色のスラックスも、彼が着ることで仕立てが一枚上のように見えてくる。
「テスト明けてすぐさまイベントの準備、なんてハードスケジュールだからな。まぁ、昔なじみの気まぐれの善意だ。戦力的には期待するなよ」
「あと二週間もないんでな。期待しない訳にもいかない」
そう少年っぽくはにかみながら言って、彼は黙々と書類に目を通し、生徒会の承認を示す判を押していく。適当に済ませてしまえばいいものを、きっちりと精査する辺りが蒼生の生真面目さを窺わせる。
十二月も半ばを過ぎ期末考査も終わったいま、一般の学校ならば大したイベントはない時期であろう。しかしここ水鳴高校は、クリスマスに第二の文化祭とでも呼ぶべき催し――聖鷹祭を行うのが習わしとなっている。その準備に生徒会はてんてこ舞いという訳だ。
「他の生徒会メンバーは?」
「視察やら準備やら、書類以外の仕事を頼んでいる。――どうせならお前も生徒会に入ってしまえば良かったのに。中学の頃はお前の仕事ぶりを頼りにしてたんだぞ?」
「まぁ、親がうるさくてな。中学の頃は内申点目当てで部活も生徒会も強要されてたけど、今度は高校に入った途端部活も生徒会活動も禁止だとさ」
適当に答えながら、俺は書類のミスをチェックして、付箋を貼って指摘して蒼生へ返すという作業を続けた。
いくら狭い部屋でヒーターがあると言っても、この冬の寒波を打ち消せるほどではない。指先は冷たく、書いた字も普段からは考えられないくらいに歪んでいた。
「相変わらず厳しい家だな」
「息が詰まるって言うんだよ。それに、見えないところで何をしてようが俺の勝手だ。成績さえ下げなきゃな」
「ほう。なら、彼女が出来たことも隠してる訳か?」
「……言える訳ないだろ。ぶっ飛ばされるぞ」
分かってて聞いてるな、と睨む俺の視線を躱して、蒼生は次の書類に目を落としていた。俺も追求はやぶ蛇だと諦めて、書類の山から次の一枚を引っ張って作業を続けるほかない。――ただ、せっかく書いた字は先ほどよりもよっぽど歪だった。
そんな調子で他愛もない会話を繰り返しながら、互いに手を止めることなく作業は進み、三十分ほど経った頃。
ふぅと息を吐いて軋む事務椅子の背にもたれかかり、天井を仰ぐ。伸びをしたついでに腕時計で時間を確認すると、時刻は四時半を回ったところだった。
いい時間だろう、と俺は自分が使っていた書類の束をトントンと整理して机周りを簡単にではあるが片付け始める。
「もう帰りか?」
「今日は迎えが来るんでな。また明日、気が向いたら続きは手伝ってやるよ。戦力外ではあるけどな」
「あぁ、大いに期待している」
「……だから、あぁ、もういいや」
にやにやと笑う蒼生に文句を言う気さえなくし、俺は使っていたペンの何本かを筆箱へしまい、お気に入りの一本だけはブレザーの胸ポケットに差した。
ちょうどそのタイミングで、生徒会室にノックの音が響く。来客、という訳ではないだろう。こちらが返事をする前にガラリと戸が引かれ、ぴょこんと色素の薄いサイドテールの髪が映る。
「センパーイ、一緒に帰ろ?」
そこにいたのは、女子の中で小柄で華奢な少女だった。肌は白く、ともすれば病弱に見えたかも知れないが、尻尾のような髪と一緒に元気に跳ねているその姿はまるで子供のようで、むしろ快活さがにじみ出ているようですらあった。
見覚えがあるなんてものではない。むしろきっと、この半年に会わなかった日など数えるほどだ。
美丘遊奈――紛れもなく俺の彼女だった。
「噂をすれば彼女のお迎えだぞ。デートか?」
「ただ帰るだけだぞ」
付き合い始めて、気付けばもう半年。こうして未だに親友にからかわれるので、いい加減に俺も馴れてきた頃合いだ。はじめの頃は、こうして言われるだけでも顔を真っ赤にしてしまっていたような気がする。
俺は高校二年、遊奈は一年で後輩だ。文化祭実行委員で同じ班になって、何も特別なことをした記憶はないが向こうから告白してきて、断る理由もないから付き合った。物珍しいようで校内に一組くらいはいそうな、そんな何でもない関係だ。――正直なことを言えば、俺には過ぎるくらい可愛い女の子だと思う。
「センパイ返してもらって大丈夫です、生徒会長?」
「どうぞどうぞ。思う存分イチャついてこい。――あ、でも補導されたり生徒指導の先生に怒られるようなことはするなよ?」
「しねぇよ……」
「いま一維に抜けられたら聖鷹祭の準備が詰むから」
「色々ツッコみたいけど、とりあえず執行部に所属してない俺を本格的に戦力に数えるのをやめろよ……」
そんなことを言いながらさっとマフラーを巻いて顎というか口を埋め、鞄を肩にかけながら遊奈を迎えるように廊下へ出る。
俺も遊奈も蒼生と軽く挨拶を交わしてから戸を閉め、上履き越しにも冷たいリノリウムの床の上を二人でぺたぺたと歩いていく。
まだ屋内だというのに、暖房のない廊下は外と変わらないくらいに寒い。一月の半ばでもう少し陽が落ちれば、廊下でだって吐く息が白くなるかも知れない。
身を縮こめながら両のポケットに手を入れて、できる限り外気との接触を断とうとするが、それでも気休めだった。
そんな俺の横で遊奈はただ平然と歩いている。防寒具らしい防寒具はカーディガンとマフラー程度。両手だって多少カーディガンの袖に覆われているくらいだというのに、まるで寒そうにしていないから不思議だ。たぶん体温や基礎代謝が俺と違うのだろう。子供みたいなものだ。
そんな少し失礼なことを考えられているとは気付かず、遊奈はいつも通り何でもない会話を俺と交わしていた。
「ずっと思ってたんだけど、センパイなんで生徒会の仕事を手伝ってるの?」
「中学時代の名残だよ。あいつが生徒会長で、俺が副会長だっただけ。――あと、放っておけばあいつは際限なく奉仕を続けるからな。誰か管理してやらないと、いいように使われて損するから」
「……うーん。センパイのそういう優しいところはいいと思うし好きなんだけど、センパイが生徒会長に上から目線で接してるの見ると、なんかこう、違う気がする」
「何でだよ……」
好き、と言われたことに半年も経ってドキッとしてしまうのを誤魔化すように、歩調を速めて一歩先を行く。後から遊奈が少し小走りで追いかけてくるのが分かる。
「あともう一個質問していい?」
「何でもどうぞ」
「センパイ、付き合う前からずっとそのシャーペンだけ胸ポケットに差してるけど、なんか理由あるの?」
「――……なんで急にそんなことを?」
「センパイ、動揺してるのはどうして?」
じとっとした視線を感じて、俺は一歩先に進んだまま足を緩めることも振り返ることも出来なくなった。これがいわゆる女の勘というやつなのだろう。見た目は活発な子供のようであるのにやはり女の子なんだなぁ、と場違いな感想が心の中で漏れる。
「……小学生の頃のクリスマス会で貰ったんだよ」
「女の子からなんだ」
「秒速で断定するのやめて」
否定できない俺は、ただそうやって冗談を交えて少しでも話を逸らすしかない。無理矢理俺の前に出た遊奈がむぅっとむくれているから、下手なことを言えば一気に機嫌が転がり落ちるのは目に見えている。
遊奈の機嫌を損ねると危ない、なんて経験は今のところないが、あまりないがしろにして愛想を尽かされるのも本意ではない。話をどうにか逸らす必要はあるだろう。
「……よし、クイズをしよう」
パンと手を叩いて、俺は未だ不機嫌そうな遊奈をおいて強引に話の方向をねじ曲げた。へし折れてしまいそうなくらいの曲げ方だが、それくらいしないと遊奈の気が紛れないことはこの半年で学んでいる。
「急になに?」
「このシャーペンを俺がどうやって手に入れられたのか。それに正解できたら糾弾を甘んじて受けよう。答えられなきゃ見逃して」
「……まぁいいけど」
納得はしていないらしい遊奈だが、理解も追い付いていないからか上手く流されてくれている。これ幸いと、適当に思い出をクイズに変えて披露する。
「これを貰ったのは、小学生の頃のクリスマス会。仲が良かったりそうでもなかったりする合わせて十五人とか二十人とか、クラスの男女ほとんどを集めたときのプレゼント交換会だ」
「ふーん」
「音楽をかけて、みんなでプレゼントを回して、音楽を止めたときに持っているプレゼントが自分のものになるっていう例のあれだな。ちなみに進行役がいて、そいつが音楽を操作する」
「ふんふん。……で、偶然好きな子のプレゼントを引き当てた、と?」
「残念ながら、偶然に頼るほど馬鹿じゃないよ。百発百中で、その好きな子のプレゼントを手に入れる方法を考えた」
「……へー。やっぱり好きな子だったんだ」
遊奈の視線の温度が外気より下がったことには目を伏せて、俺はとにかく平常心を装って問題を続ける。――ポケットに入れたはずの指先は氷のように冷たくなっていたが。
「プレゼントの包装紙は、あらかじめ進行役が用意した袋タイプで、みんな同じ模様の同じサイズ。だから袋の外から判別は出来ない。それと、回す前に全部一カ所に集めてから分配してるから、誰が誰のプレゼントを持ってスタートしてるかすら分からない状況だ。――ちなみに、グループを二つに分けて、自分の用意したものは別グループで回される」
包装をあらかじめ用意していたのは、確かあまり高価なものを買ったりしないようにという配慮だった気がする。小さめのサイズに限定しておけば、値段もある程度偏り不公平が出ないだろうと考えた結果だったはずだ。
「……え? それでどうやってセンパイは目当てのプレゼントを引いたの?」
「それが問題なんだろ。昇降口に着くまでに正解が出たらお前の勝ち。出なきゃ俺の勝ち。解答は何回でもどうぞ」
「……センパイ、帰りの方向はそっちじゃないから」
「はい?」
「今日はなんとなく、ぐるっと一周したい気分だなー」
そう言って、目の前まで迫った階段を下ろうとする俺を引っ張って、遊奈は後ろを指さす。ロの字型の校舎をぐるっと一周してから階段を降りて、少しでも昇降口までの時間を延ばそうという話だろう。――話を強引に逸らしている俺は文句を言える立場でもない。
表面上は快く、内心では解答時間が延びて正解されたりしないか怯えながら、放課後の人気の減った校内を遊奈と二人で再び歩き始める。