3話・いかに覇道を王道とするか。
ギルガメッシュ。
その名前を私は知っている気がした、しかしながら私は思い出すという作業をあえて怠った。
記憶の海に潜る場合ではない。今は無我へと意識を沈めなければならない。深く。とにかく忘我の内に自らを浸す。ギルガメッシュよりも早く。獣相手には試みたことすらない思考法と戦闘哲学で。
思考の因果に霊的な齟齬はありはするが、私は無我の教えに従って自らを無我へと導く。これこそが奥義であると無我が私に告げる中、私は両掌を握らずに差し出し、腰を沈める。
大地に引かれるように。
蟷螂が斧を構えるように。
餓狼が牙を剥くように自然な本能的な、それでいながら長年の叡知により求められたとわかる武の一手だった。
ギルガメッシュの構えも似通っており、私の無意識はその鏡移しめいた姿にレスリングという言葉を紡いでいた。
打撃ではダメだ。打てばもろとも拳足が挫ける。掴んで倒す、それが最良手だと本能から遅れて残滓の自我がなぞる。
――拳を打つのではない、体ごとぶつけ、相手の体を丸ごと制圧し、地面に縛る――
合図はなかったが、動き出したのは同時だった。
私とギルガメッシュが跳躍すると、計ったように距離は消え去り、私たちは攻撃のために手を伸ばした。
ギルガメッシュの右五指はぐんと視界の中で大きくなる。目潰しだ。目玉に当てるだけでなく、そのまま捻り潰すやり方だった……が、甘い!
私の両手はその右腕をガッシリと掴み捉えている。私の無意識は口角を引き上げた。 爪を立て、このまま両手で右腕を握り潰――
私の意識と無意識は対称的なまでに揃って凍り付いた。その現象を考察する間もなく、私の視界は空を向き、続いて地面に寝そべる豊満な石灰岩へと向き……そして叩き付けられた。
「勝手に休むな痴れ者が。我が輩の前で居眠りするな。不敬罪で裁くぞ」
ギルガメッシュは悪びれもしていなかった。もちろんのこと、その必要もないが。
文字通り急転直下で岩に頭蓋骨を叩き付けられて死んだはずだった私は立ち上がっていた。傷どころか痛みを感じることすらなく、先ほど頭に当たったはずの岩を無傷で踏みしめて。
「今、何をやった? 地面に叩き付けた手応えすらなかった」
反射的に用いて防いだのは、“俺”が以前から使える技能・ジンキ。
ジンキは血液中に微量に含まれる重力を伝達させるトラペジウムという物質を、パイプ中で量子加速されたニュートリノのように血管中を駆け巡らせ、得た加速を重力に転換する技術。
そのエネルギーが体内で時空を歪め、“向こう側”のエネルギーを利用できるようにする際にいくつかのパターンに区分できるが、それはおおよそABO式血液型の結果に合致し、俺の血液型はA、“アナグラム”と呼ばれる能力を利用できる。
俺……私は、そこで自らを俺と称する記憶の破片を抑えつける。
頭の中に間仕切があるのに、俺と云う私はそれを越えてこようとする。私はこの自分自身を思い出してはならない。理由が分からなくとも無我の教えは確信的な実感が伴っていたのだ。
私は意識を自分自身から逸らす為、目の前の脅威に意識を向けた。
頭の中に住まう“俺”を見つめ合うことは、私にとって目の前のギルガメッシュよりもはるかに恐ろしかったのだ。
空の果てや海の果てを覗くような高揚と共に、捉えどころのない焦燥を伴う。私は不安を誤魔化すようにギルガメッシュの問いに答えることに決めた。
「……ジンキだ。手や足を使わなくともできる技術を指す。私のはその中でもアナグラム……A型と呼ばれるタイプのジンキだ」
堂々、ギルガメッシュは先ほど私を軽々と投げ飛ばした本人とは思えないほどに敵意の無い姿だった。ギルガメッシュは腕を組み、無言の圧力で続きを促している、そう私に錯覚させようとしていると確信できていた。
先ほど私が両腕で握りしめた右腕。私を投げ飛ばすために計画的に目潰しに使ったのだろうが、今は逆に見えないように構えている。
「アナグラムはキーワードに即した能力を使える」
「呼称は違うが、そのタイプは知っている。だがキサマのキーワードが分からん。回避できる能力だな? 次に仕掛ける我輩の攻撃も凌げる、と考えて良いのか?」
「……自分の秘技を喋るのか。お前の思う敵は敵に」
「ああ、語るが良い。語るだろうな。キサマが自らの秘技を語る間、我が輩の秘技がキサマの身を裂かずにおくのだから」
ギルガメッシュの立つ乾いた草地が湿地のように沈んだ。ギルガメッシュの磨かれた肉体が敗けず倒れなければ、大地が敗けるしかないのだ。
いつの間にとは問うまい。瞬時に物質を生成するタイプのジンキを持つということ。
俺は血液型診断を信じていないが、ギルガメッシュはなんとなしにB型だとは思っていた。
あまりに凶暴なまでの偉容は、その甚だしい質量のみでギルガメッシュの膂力と共に自らの破壊力を誇示していた。
巨大な一挺の戦斧。人や獣を狩るにはあまりに過ぎた刃渡りは、城や竜、あるいは山や島を砕くことを臨んでいることは見てとれた。
「……ああ、つまり、私が喋らなければ、それが私に向くということだな……」
「我が輩は背反する自我を抑え奮えている。我が天砕きを振るうに足る宿敵に久方ぶりに出逢った慶び、そして……またもその宿敵を天砕きの一振りで喪う所信に等しい所感への畏れだ」
「……私のジンキはお前の斧を防げるかもしれん、が、絶対ではない。私のジンキはほとんどの攻撃を無力化できるが発動しつづけることができない。発動中は呼吸どころか立っていることも難しくてな。目にも留まらない速さで攻撃されれば防げないだろうな」
「……誠実だな。弱点も併せて語るとは」
「誠実といえばお前もだろう? 私の言葉を疑わないのだから」
「互いの潔白めいた誠実さを認め合ったなら、キサマの次の言葉は停戦かな?」
いいやと云いながら、私はギルガメッシュの腕を指差した。
最初の接触でギルガメッシュは私の頭を岩に叩き付けようとし、私はギルガメッシュの腕を圧し折るつもりだった。
互いに思惑が外れた結果、私は無傷だがギルガメッシュの腕には私の手形が内出血として鮮やかに紫色。
「……自分の能力が不便だと感じるよ。私は一切のダメージはないが、お前には僅かながらダメージがある。この状態からでは私が降伏しても情けを掛けられたのはギルガメッシュ、お前ということになってしまう」
ギルガメッシュが微笑んだ。
溢れる喜びの中、沈着させた殺意を隠さない姿は、獣の気高さを漂わせている。
音はなかった。音より速かったためだ。
只々風を切った大斧の切っ先が私の左頬に触れた瞬間、私の神経は反射によってジンキを発動させていた。
「“透過”? 違うな。“気化”でもない。キサマのジンキのキーワードが解らん。攻撃が当たっているはずなのに当たっていない……?」
危なかった。頬から滴る血の雫が大斧の似合わぬまでの鋭利さを記録し、束で伐り倒された樫が重厚な破壊力を物語る。
ジンキの発動が間に合わなければ、私の頭部は鼻の下で両断されていただろう。
「すり抜けた、としか思えんが、そうではない。幻覚や超スピードでもない。もっと恐るべきジンキと理解した」
「……そんなに凄いジンキではないよ。ただ……これで私も傷ひとつ、痛み分けにしないか?」
「無駄と解っているだろうが、その通り無駄だ。身体以上に胸が温まってきた」
どちらが強いか決めよう、そういう意味だと視線で語っていた。
“あいつ”に似ているな、コイツ。
明晰で冷徹だが、その分頑固で“俺”の話なんか聞きはしない。
以前の俺は非力で“あいつら”に守られてばっかりだったが、なるほど。強さってヤツは持つと使ってみたくなるものだったか。
忘れ去った誰かのことを想う。憧憬じみた回想を無意識に追いやり、私は目の前の強敵へと意識を戻す。
「――宿敵よ。名を聞いておこう」
「さっきも名乗っただろう? 俺は……いや、私はエンキドゥだ」
「そうか。我が輩ほどではないが良い名だな。我が名はギルガメッシュ。さあ……力比べだっ!」
戦いはシンプルに煩雑で、快適なまでに刺激的だった。
私のジンキは攻撃にも使えるが、ギルガメッシュに必殺の破壊力を発揮できるものではない。
かといってギルガメッシュ必殺の斧はジンキにしろ身体能力にしろ私には避ける以外に途はない。
結果、斧をフェイントにした身体能力による格闘技術でギルガメッシュが攻めれば、私はジンキを併用した格闘技術で対する。
決め手を欠けながらも繰り返し殴り合い、蹴り合い、気を抜けば命を落とす危機的状況は私とギルガメッシュの脳に著しいまでの集中を強いた。
拳の行き来する間に昇った日は暮れ、闇は更けてまた朝が浮かび上がる。
終わりを望まない私闘めいた死闘は六日七晩続き、そして不意にその瞬間は訪れた。
「エンキドゥよ。ひとつ訊きたい」
限界を越え、次の攻防でどちらかが死ぬ。
そんな感覚を共有していることを確信したときだった。
「なんだ。ギルガメッシュ」
「……我が輩は逃げ口上を紡ぐのは苦手だ。だがキサマなら戦いをやめる良い屁理屈を仕立てられるのではないか?」
随分な驕傲だが、それはギルガメッシュにとって生来のものであると私は格闘の間で共感的なまでに理解していた。
引き下がるつもりがなく、それでいて私を殺す気も失せていた。
「……そうだな。ここはひとつ、森のため、でどうだ?」
私の言葉に思い出したように、というか、思い出したようだった。自分が森の中で闘っていたことを。
永い闘いの中で薙ぎ倒された木々、割れた岩壁、歪になった池にやっと気付いたよう……私も今気付いたばかりだが、とにかく、ギルガメッシュも認識したようだ。
「これは……やってしまったな」
それは不釣り合いすぎて似合いすぎる、ギルガメッシュ大王の何かを壊した子供のような顔と声だった。
「……エンキドゥ、我が城へ来い。六日七晩も城を空けてしまった。家臣たちに何か手土産が欲しい」
「私は手土産か?」
「いいや。キサマの回りの良い舌を借りたい」
断る理由はなかった。
“私”は、既に森の民と云うには暴れすぎた。
“俺”は、既にギルガメッシュを友と認めていた。
理性も本能も。“私”も“俺”も。断るわけがなかったのだ。
いつの間にやら姿を消したフンババに別れもしないまま、私はギルガメッシュと共に往くことを決めていた。