2話・王は唯たるがゆえに王たる。
私は、あの日から時間が過ぎることを意識し、むず痒さを覚えていた。
弓矢を持つ群れと相対したときに言葉を使って以来、フンババは嬉々として言葉を用いるようになってしまった。
「お腹空かない? 何か取って来ようか?」
「服、ありがと! とっても素敵!」
「大好きだよ、エンキ」
言葉。便利なものを私は忘れていたようだが、私は故意的に忘却していたのだと思う。
私とフンババの間では本当に必要なことは言葉を用いなくとも通じていたし、獣たちも用いていないのは必要ないからだろう。
これは容易く同族を騙すことができる。表情や所作以上に自らを知らしめられる。
私は、フンババが嘘を吐いているのではないかと疑えるようになった。
どうにも私の見ていないところで小動物を狩り殺しているようだが、食べてはいないように思う。
食事は私と共にしているが、時折爪や牙から不自然な植物の臭いがする。
濃い臭いを付けて血の臭いを上書きしていると確信しているが、フンババは言葉を器用に使いこなすのだ。
「そんなことするわけないよ、エンキは殺すの嫌いだもんね?」
言葉が無ければ、私はフンババを折檻した上で押さえ付け、殺しをやめさせていただろう。
だが、である。フンババは殺していないと話し、私にもフンババが殺しているという証拠はない。言葉があるなら理論によって諭さねばならない。
「エンキと私だけ居れば、あとはこの森に何も要らないんだよ」
フンババの手足は、言葉を使うようになってから急激に伸びた。衣服を何度も作り替えるほどに。
胸元は私とは異なり柔らかく育ち、その柔らかさは、いつの間にか全身に周って草花のように瑞々しく、果実のように膨らんでいた。
雄と雌になりたいと使えるはずの言葉ではなく、フンババは体や仕草で伝えてくる。
無意味に触り、無意味に嗅がせる。賢しい限りだ。
獣離れした嘘を纏いながらも、愛欲を振り撒くときは獣になる。身勝手な動物としてフンババは結実しそうだった。
「エンキ、お喋りしよう? エンキの声を聴かせて?」
闇の中、フンババは熟れ始めた身体を擦り寄せてきていた。
私自身、雄としての本能でフンババの肉を求めてはいたが、それ以上に森の一員としての自我がフンババの存在を受け入れられずに居た。
獣としての領域を侵しながらも、森を食み、森に住まう。
弓矢を持つ群れもそうだったが、どうやら二足歩行の猿のような我々には種としてそういった特性があるらしい。
私はどうか。私自身、今もすがるフンババに憤りを感じているが、それも私の独善に過ぎないのではないか。私は狭い樹洞からフンババの下を抜けるように出ていた。
「エンキ?」
「フンババ、空を見よう! 星屑になって落ちる前に!」
久方ぶりだった私の言葉は、思いの外 穏和な響きを持っていた。
幼かったときと同じく、フンババは木から飛び出して私の傍らへ納まった。
「キレイだね。お星さま。今日はいつもよりピカピカしてる」
晴れ渡った空。闇の中でも、それは心躍る無音の響きを持っている星々は、静寂を以て語り掛けてくる。
「……星とは、なんなんだろうか」
「遠くのお日さまだよ。エンキ」
私の呟きにフンババの回答。そうだ。
日……太陽より大きいが、距離が遠すぎて小さく見える恒星。それが星。真空の宇宙では光は拡散せず、無制限な距離を――
?
待て。私はなぜ、そんなことを知っている?
森で暮らす獣に過ぎない私が天体望遠の技術もないこの時代……ジダイ?
「どうしたの、エンキ? 何か……思い出した?」
いたずらっぽいフンババの笑顔が月明かりに照らされる。
月光は太陽光の反射で、月の満ち欠けはその光を地球が遮るためで……知識が溢れてくる。
知らないことではない、忘れていたことだ。思い出してはならない。これは、違う。
「思い出してくれた? エンキ、私たちが“何なのか”」
思い出してはいけない。私はそれをあえて忘れたはずだ。
なんのため? それは考えるな。
「良いよ。思い出して。一緒に行こう」
訊ねるな。どこへなどと訊ねてはならない。
なぜ? なぜ? 私は誰だ? 考えるな、私は考えてはならないはずだ。なぜ考えてはならない?
止まらない。悶絶し冷えた原っぱ転げ回り、石や枝が私の皮膚を掻いても傷は付かず痛みにも至らない。
なぜだ、頑健すぎる。私は人間として強すぎる。そもそも私は“人間”なのか? なぜ森にフンババとただふたりで居る? いつから? なぜフンババは……駄目だ。意識を外せ。石、樹、虫、風……石は石灰質、樹は樫、虫は……知識が引き出されてしまう。何を見ても連想して知識が湧き出してしまう。
意識を止めるべく堅い堅い樫の木に両手を添え、背筋力の限りに頭を叩きつける。一度では足りない。何度も何度も。だが、思考は止まらないし、フンババも私を止めない。
知っているのだ。私の頭は樫より頑丈であることを。私は強すぎる。そうだ、あのとき、この力が有れば、私は君を守ることが……そうだ。“俺”は君を守れなかった。
誰だ。私は、俺は、そうだ。フンババじゃない。俺が好きなのは。君は、誰だ。
止まらない。君を思い出そうとすると痛みがじわりと広がる。打ち付けている頭じゃない。記憶が軋んでいる。
忘れてはいけない君を忘れなければならない。君に繋がないと。俺が忘れないと君が、アイツが生まれても死んでしまう。思い出すな!
狂ったように跳ね続けて、俺は――私は、空を見て、あることに気が付いた。
「――フンババ?」
「なあに? エンキ」
「“あの空”は、なんだ?」
嫌らしいまでに清々しく笑っていたフンババの表情が曇った。
「――星のこと?」
「違う。黒のことだ」
「それは、空」
「空じゃない。黒が二種類有るだろう? 空の黒と、“もうひとつの黒”が」
言葉にしなくともわかる。フンババはあの黒を知っている。
そして、それを私に教えまいとしている。“黒”。正体はわからないが、それは確かに存在している。
空の闇と同じ黒でありながら、なぜか私には黒と黒の境界が認識できる。
「……知らなくて、良いよ」
嘘だとこれまでで一番強く感じた。
あれは空ではない。空の果て、真空の果て、時空の果て。
膨張する宇宙と同義でありながら、収縮ではない終焉を呼ぶもの……そうだ、これはアイツが見ていたものだ。アイツが……友がゼガと呼んでいた。友は強くて……思い出すな、私はエンキドゥ。俺じゃない、私は……ぶつかり合い。
思い出そうとする俺と、記憶を押し留めようとする私。
激しく流れるように、それでいて拮抗し留まり、忘れることも思い出すこともないまま、身体を朝日が照らした。
名もない衝動に喘ぎ、嘔吐き、動物たちも私に怯えて近づかなかった。
フンババの姿も視野と視界に入らない。どれほどの時間と苦痛の中に居ただろう、その男が現れるまで続いていた。
「キサマだな? 我が民の狩りを妨げたのは?」
洗練とは程遠い服装に、修練によって収斂された肉体は、弾けんばかりの調和を携えていた。
知らない男だったが知っている気がした。見ず知らずの男だが懐かしかった。
武器らしい武器も持たず、防寒というには長すぎるマントを纏った不遜な余裕。竜や猛獣の住む森へ来る様相ではなかった。
「……何者だ、お前は?」
「不敬の極みだな。我輩を知らないだけでなく、我輩に名乗れだと? このギルガメッシュを知らないだ
と? 先に名乗れ。獣よ。我輩から先に名乗ることは有りえん」
先にギルガメッシュと名乗ったじゃないかと思うが、“私”は名乗ることにした。
私は私に戻っていた。記憶の波は穏やかになった。それは間違いなく、このギルガメッシュという男の出現によってだった。
そうだ。これは私の物語ではない。この快傑、ギルガメッシュの物語なのだ。
「私の名前は、エンキドゥだ」
「我こそはギルガメッシュ! 父王ルガルバンダの直子にしてウルクの大地に生まれし最たる英雄!」
やはり、言葉とは要らないものだった。
それ以上、私とギルガメッシュには言語を必要とせず、重心を低くした。
狩りの邪魔をした私を倒そうとするギルガメッシュ、森の秩序を守ろうとする私の戦いは、ここから始まった。