1話・王たるは蛮を尊び礼に通ず。
【シュメール文明】
数千年前に実在した文明である。
正確に何年前に興き、何年前に滅んだかすら明らかでないほど太古でありながら、その文明水準は極めて高く、法律、天文学、数学、語学をどこに倣うでもなく習得したとされる。
簡潔に云えば、日本人が必死に縄で土器に柄を付けている頃、彼らは石板に小説を書いていた。
日本人が明確な文学を身に付けたとされるのは中国を模倣して漢字を習得したここ千年ほどであるというのに、だ。
エンキドゥの登場する英雄ギルガメッシュ物語は、そんな時代に産み出された。虚構と現実、繁栄と滅び、未来と過去。間にエンキドゥはギルガメッシュと共に立ち続けている。
世界は今日も輝いていた。
茂る森は朝露を纏い、滴る夜霧は葉を伝い闇を吸い朝に消えていく。
風は命を抱いて流れ、虫たちは沈黙の冒険を続け、日向には花、日陰には茸が根付く。
闇を狩り場にしていたものたちは休み、朝を狩り場とするものたちが動き出す。空に風は流れ、川を水が流れ、大地には命が流れる。
私とフンババも、木の樹洞から這い出して歩きだした。最後の食事はふつか前。ふたりとも飢えていた。
肉を喰う獣は、強くなればなるほど狩りと食事が減ると森は教える。
欲望のまま食べ続ければ森は痩せ、そのものが枯れ落ちる。獅子も竜も、そして私とフンババも飢えが満ちたとき、初めて食事をする。私とフンババは森の中にいる全ての獣の呼吸と臭いを知っていて逆も然り。前に食事をしたときに比べて減った匂い、増えた呼吸を探る。
フンババはいつも新しい命を食べたがるが、私が許さなかった。新しい命は弱く小さいため簡単に食えて肉も柔らかいが、だからこそ私は避けた。快適さと便利さを判断の軸にしてはならない。便利さに欲望が包まれて見えにくくなる。
私たちはどの獣や竜よりも強い、ならばこそ小さな肉は大きくなる。大きな肉ならば私とフンババの飢えも一匹で何日か満たせる。
私とフンババの爪牙は、全ての獣を肉にできる。森の理を破り、獣を貪り尽くすことも容易い。だからこそ、自らを律するのだということがフンババにはまだわからないらしい。
フンババは体毛も少なく、白い手足は細く幼い。
私が食い鞣した獅子の毛皮を着ているが、闇の中ではすり寄り、私の側で眠りたがる。
昨日から空腹を訴え続け、せがんで私の顔面を舐め回した。私とフンババは親子でも雌雄でもないが、この森の中でただ唯一の同種だった。
肉を、肉を。とフンババは育ち盛りの爪を振るいたがる。その先にはいつも兎や鷹、小鹿や鼠を据えて。
一匹食べても飢えは満ちない生き物ばかりを食べたがり、いざ戦いを任せると、中々に殺さない。
命を奪うときの感触は私も好きではない。輝いていた瞳から力が失われ、血は流れをやめて澱み、やがて自らの重さに負けて腐り溶けて行く。
全ての物質は下に向かう。全ての命が死に向かうのと同じだ。
葉は季節の終わりのために落ち、雨は渇きを終わらせるために落ち、死んだ命も、きっと大地の下に落ちていくのだ。
私もフンババより先に死に落ちるだろう。そのとき、フンババは森と調和できる獣になっているだろうか。
小さな猪豚や小鳥に爪を向けたがるフンババを抑えながら、私は今日の餌食に獅子を選んだ。
強く、大きく、数日前までは獅子の群れで最も強かったはずの獅子。
今は、他の獅子との戦いに敗れてただの獅子。ただの獅子だ。重さは私のせいぜい三倍。分厚い毛皮は水牛の体当たりにすら耐えるが、そんな同種の皮すら容易く裂く爪や牙は尚のこと硬く鋭い。
群れの長を襲えばその群れは統率を失うが、それ以外ならばただの強い肉。
私もフンババも隠れたりはしない。この森の獣たちは私の気配を知っているし、無意味だ。
バキンと音を立てて枝が折れた。フンババが踏み折ったらしい。足元に気を遣わない悪癖。いつも毒虫の上でも歩こうとする。
そう、私とフンババはただ歩く。湿った土に足に馴染ませて獅子に向かって歩く。獅子もまた、私とフンババの意図を察して身構える。
私は地面に気を配る。踏み潰して余計な生き物を殺さないように選び、滑らないように太い木の根に足裏を合わせる。
獅子もまた、身を屈めて構える。力を溜めている。
獅子が全身に力を充填したのを見てから私は弾くように跳んで頸を狙う。翼の無い私は空中で方向を変えられず、落ちる水滴のように直進するのみ。
交差する瞬間、獅子の爪と牙を掻い潜り、私の方は爪は使わずに腕ごと獅子の頸に巻き付け、速度と圧力で骨を割るようにして折る。
この方法なら首が割れた瞬間に脳が止まるが、絶対ではない。最速で絶対急所の眉間に爪を突き立て、脳を破壊し、私たちはこの偉大なる獅子の命を継ぐ。願わくば、この友たる獅子が安らかに死へと落ちることを。
――いつもフンババは不満そうだ――
フンババは生きて心臓が動いている間に血を抜いて絞る方法を好む。
確かに血を抜けば肉の味は良くなり食べやすくなるが、私は血を抜くまでの痙攣して命が肉になるまでの時間が嫌いだった。
食事のために虐げては欲になる。欲に抗うことは難しい。だからこそ欲を膨らませたくはないのだが、フンババにはそれが中々通じない。
獅子の肉を食べながら私はそんなことを考えるが、フンババはひたすらに脂の多い部位を探る。私は脇腹周りの肉から皮を剥いでフンババに差し出す。
嬉しそうに食べるフンババを見つつ、私は筋張った前脚を筋ごと頬張って白くなった脚を血糊の中に静かに置く。腐敗から土に戻り、落ちたる命に敬意と祈りを。
残る毛皮は土に還さず使うか。フンババは体毛が薄いだけでなく、幼い頃の私より肉付きが悪く細部が異なる。恐らく雌なのだろうとは思うが、毛皮でまた服を作ってやらねばならない。
フンババと共に暮らして、私には一匹だった頃にはなかった時間という概念が生まれていた。
かつては飢えれば食べ、眠くなれば寝て、寒くなれば震え、辛ければ泣く。
今は、飢えたり眠くなくともフンババがどうかを考えなければならず、面倒で煩わしいときもあるが寒ければ寄り添い、辛ければふたりで半分ずつ泣ける。それは私に感情というものを与えた。
とはいえ、今食べた肉も、そんな群れの中に居たはずだが、群れの長の座を他の仲間である雄に追われたようだった。
仲間が増えれば、それだけ感情が増えると思う時期も有ったが、命には色々な繋がり方があり、群れの姿がある。
フンババの奔放な生き方を正しいとする同種に巡り合うかもしれない。
他の同種を探すために森から出るべきか。フンババは私以外の仲間を知らず、私はフンババ以外の仲間を知らない。
そんな思案をするのも面倒ではあるが、私がひとりで暮らしていたときにはなかった時間。
朝と闇を繰り返すだけの生活にフンババのことを考える時間は、複雑で充実していた。
フンババにも守る相手を持たせたい。命と肉の境界を自ら考える時間を与えたかった。
転機は、恐ろしく唐突で。
切っ掛けは、私が一匹で森を歩いているときに遭遇した大角鹿の群れを狩ろうとしている見覚えのない動物の群れ。
自分やフンババの近似種だと気付いたのはその群れの放った飛んでいく牙を弾いたあとだった。
――なるほど。硬い石を木の棒に結わえ、蔓のような紐で放つ道具か――
「バケモノだ! 弓矢を素手で何発も止めちまった!」
群れの中の一匹が吠えた。
遠吠えで連絡する命は見たことがあるが、複雑な鳴き声を組み合わせて意志疎通をしている。初めて聞く鳴き声だが不思議と意味は解る。畏れ、戸惑い。
この飛ぶ牙を持つ群れは、この森の外から来た。ならば、この森の肉を喰うことは許さない。この森の土に還らない命に奉じる気はない。とはいえ私には戦う気もない。私はこの飛ぶ牙の群れを肉にするつもりもない。
同種の間で殺しあう種がいるのは知っている。獅子同士で戦うこともある。だが、少なくとも私には彼らを殺す必要がない。故に手を出すつもりもない。
彼らが飛ぶ牙を何発打とうと私には当たらない。どうやらこの群れは、私やフンババとは小鳥と大鷹ほどの力の差がある種のようだった。
戦いにならないならば反撃する必要もない。この飛ぶ牙……彼らが弓矢と呼んでいる道具が通じないと分かれば帰るだろうと見ていたが、連中は中々に帰らなかった。
「逃げよう! ギル様でもなければ、あれは無理だ」
「バカヤロウ! この人数で獲物もなしで帰れるか!」
「でもアレは無理だよ」
「無理でもやるんだよ! あいつは手を出してこない! 攻撃してこないならやり方は有るだろ!」
話を聞いていると、どうにも群れの中に長が居ないらしい。互いに意見を出す種らしく中々に意見が纏まらない。
たまに矢を放つが私はもちろん避けるか打ち落とす。私も腹が減っているわけでなし、暇潰しに付き合おう。大角鹿も逃げたし、そういえばフンババを置き去りにしてしまったが、退屈しているだろうか。私がそんなことを考えながら遅い弓矢を叩き落としたとき、私の目で追えない何かが私の横を通りすぎたことを感じとり、私は背筋を冷やした。
反射だった。驚異を察知した小鳥が飛び立つような思考を介在しない行動。私は使ったことのない言葉を用いていた。
「やめろっ! フンババ! 殺すな!」
矢よりも速く飛び掛ったフンババは私の言葉に辛うじて止まり、石を投げて散る蜘蛛の子のように彼らは逃げ出した。
その哀れな彼らを見てフンババは笑う。無邪気にと称せざるをえないほどに清清しい笑顔。
その白い笑顔に血糊をへばり付け、その細い指には無骨な左手を隠して。あの一瞬でフンババは引き倒して腕を一本、衣服と一緒に捻じ切っていた。
フンババは切った腕を舐るように口に運ぶが、私はまたも言葉を用いた。
「食うな! それを私たちは食うことはできない!」
私の言葉に興味を失ったように腕を投げ出し、四足の獣のように口を大きく使って笑った。
「やっと言葉を使ってくれたね。エンキドゥ。大好きだよ」
血にまみれながら、フンババは私の腰に抱きついた。
フンババは私が弓矢で攻撃を受けていたから、咄嗟に攻撃してしまったのだろう。そう思いたかった私は、使い方を思い出した言葉で訊ねることを避けた。