二人、相まみえる
女の声が聞こえたかと思えば、今飛び出した奴がまっ二つになった。
飛び行って来た女以外の誰もがその光景を理解できずに目を剥いていた。その後に確約されていたはずの光景が思わぬ横やりでおじゃんになってしまったのだから無理もない。
『なんだぁ、お前――!?』
総一郎の喉笛を引き裂かんと飛びかかった毛玉妖怪の残骸が落ちてきたとき、ようやく我に返ったその仲間が毛を逆立させ、押さえつけている総一郎の上から睨みつける。
「わが身はこれ、剣を手繰るものにつき」
だが、声に動じることもなく女は手に持つ刀を鞘に戻し、そのまま華奢な身をかがめた。
『ハァ!? テメェ、答えになって――』
今しがたまでいきり立っていた異形の声は、次の一瞬で困惑に変わる。
『ね?』
時間にして二秒もない。
そこには文句を言い終わらぬうちに足を踏み出していた女と。
水面を裂く魚の背ビレにも見える刀の鞘が迫っていた。
「彼の生殺を計るなり!」
『がっ――!』
敵の思考がそれに対する判断を導き出す前に、女は刀の鞘でもって総一郎の上に乗る腕団子を思い切り打ち上げた。
ゴルフボールのように打ち出されたそいつは、衝撃で思わず手を離したせいもあってそのまままっすぐ飛んでいき、
『がっはあ!!』
『きょっ、兄弟ぃぃいい!!』
ちょうどその場所にいた他の二匹を巻き込んで、橋の反対側へ落下していった。
そうして、ようやっと重しがいなくなった総一郎は、何が何だかわからないままに起き上がり、
「ご無事でしょうか?」
危機を救ってくれた、と思われる不思議な乱入者と顔を合わせることとなったのである。
「あ、ああ……」
彼女の言葉が自分に向けられた物である、と総一郎が理解するのにさえ、ほんの数瞬だけ必要だった。
川を照らす電灯の下に現れた今、彼女の姿ははっきりと見て取れるが、しかし姿に、顔に一切、見覚えがない。そも着物に袴に刀と、このご時世滅多に拝めない服装を平然と着こなす女とどこかで一度でも会っていたなら、忘れることなどないだろう。
『てんめぇぇぇええ!』
ではなぜ?と思考を回していくのにキリがなくなってきた時、橋の上から異形の怒号が聞こえてきた。
橋の方を見上げればそこには全身がずぶぬれの毛玉が全身に青筋を立てて殺気を放っている。さっき跳ね飛ばされた腕団子が橋の上に戻って来たのだ。
『さっきから俺たちの邪魔ばっかりしやがって、もう許さんぞ!』
「……すみませんが今しばしお待ちを。 先に、あの者どもを討ち祓いますので」
その姿をみとめた後、彼女は手に持つ刀を構え直した。
今の台詞を聞いて、今度はすぐさま理解できた。
この人は、これからこの異形たちを相手に戦うつもりなんだ、と。
「待って! 君――」
「気にする必要はありません」
総一郎が言わんとするところをわかっているのか、彼女は何でもないかのように遮った。
しかし総一郎は続ける。
「でも君、怪我してるじゃないか!」
彼女をまじまじと見るように目線を下げていくと、はっきりとわかることがある。
彼女は怪我をしていた。
腹より少し右に刺し傷があり、その一帯を赤黒く染めていた。
それだけではない。肩口。袖。彼女は服のいたるところに、布地の物とは明らかに違う、赤黒い物――おそらくは、血――をつけていた。
この女はここに来るまでに何かと争ったのだ。犬も食わない痴話げんかとはわけが違う、まさしく命のやり取りを。
自分のことながら突拍子もない事を考えている、とも総一郎は考えていた。
だってもしそうなら苦痛に顔をゆがめ、少なくともその場にとどまっているであろう怪我でこの女は何故平然と立っているのか、こともなげに言葉を返せるのか、
「御心配には及びません。 私はこれでも祓い人の端くれ、異形に襲われる人々を助けるのは当然のことですので」
このありさまでなぜ、表情も変えずに見ず知らずの他人へ堂々と助けるなどと言い放てるのか、説明がつかない。……の、はずだが。
自分でも説明できないが、目の前の女からは及びもつかない風格--ただならない雰囲気のような物が感じられた。
「待ってくれよ! なんでそんな怪我をしてるんだ? なんでそんな状態なのに俺を助けるんだ!? 俺が君に何かできるわけでもないのに!」
例えるなら持ち手のいない刃だ。
害意だとか殺意だとか、危機感だとか。
物騒な状態のわりにそんな感情めいたものを一切感じ取れないのだ。不思議なことにそいつは今目の前にいるのに、どこか虚ろで、どこも見ていないように見えて。
『テメェも、見鬼も、俺たちのエサになりやがれぇ!』
「だいたい、祓い人ってなんだ? 君はいったい……何者なんだ?」
異形どもが向かってくるなか、そんな雰囲気の彼女に、総一郎は問うた。
祓い人。聞き馴染みのないその単語に、彼女を説明出来る答えがあると信じていた。
ーーだが。
「……いったい、なんなのでしょうね」
「……えっ?」
小さく。
本当に小さく紡がれたその言葉と垣間見えた悲しそうな顔に、総一郎は二の句が継げなくなっていた。
そして、呆然とする彼の横を、女は駆け抜けていった。