月下に駆ける
「はあっ、はあっ――!」
雨の降る夜の街を、青年は息を切らしながら駆け抜けていた。
歳はおそらく15、6。首筋に届くかといった短めの髪に、黒の学ランを着た、まさしく学生だ。
ほんの少しのあどけなさを残すその顔に浮かぶのは、びっしりとした汗と焦燥だった。肩に下げた大きなカバンを取りこぼしてしまいそうなほど必死に駆ける、その後ろを、
『居た、見つけたぞ!』
何かが追っていた。
『こっちだ、こっちだ!』
『体を山分けだ!』
角に当たるたびに合流し、口々に物騒なことを喚く声に、青年、総一郎は振り向くことはなかった。
こんな輩に追われるのには慣れていたからだ。
『人の子のくせに俺たちを見ていたぞ、生意気な!』
『ああ見ていたぞ、見ていたぞ兄弟! 生意気にもあの眼ではっきりと俺たちを見ていた!』
怒気を含んだ声の主たちは、小器用に二本の隆々とした腕をバタつかせ総一郎を追っている。
その姿はどう見ても人間ではない。たとえるなら腕の生えた毛玉だ。その中心に一対の目と大きな口がついており、次々と物騒な言葉を並べ立てる。世にいう妖怪、もしくは異形、あるいは物の怪と呼ばれる化け物の一種である。
本来ならば人と出会うこともなくひっそり奇怪な生を営み、そのまま消えるだけの存在。そんな彼らが総一郎に迫るのは理由がある。
『見鬼だ! 絶対に逃がすな!』
『食ってやる!』
「またそれか……!」
見鬼。
その言葉を聞いて総一郎は心底恨めしい気持ちを代弁するかのように、下の唇を噛んだ。
ああ知っている、知っているとも。読んで字のごとく鬼を見る力。鬼だけじゃあない、精霊悪霊妖怪変化……とにかくそんな奴らがいつ何時でも、どこに隠れていようとも、その善悪の関係もなく見えてしまう霊能力。
そういう異常な力を持つ人間はたいてい霊力だかなんだかが高く、妖怪の界隈ではそれはもう絶品中の絶品なんだとか。
ということは捕まればどうなるかは自ずとわかる。その肉を食い散らかされるのみだ。
「……食われてやるもんかよ!」
足に強く力を込め、総一郎は吠えた。
こちらも物心をついたころからこうして追われる身。あしらうコツはある程度つかんでいる。
『チクショーなかなかすばしっこいなコイツ!』
『そう腐るな、俺たちにビビって逃げてんのさ!』
『いくら足が速かろうと所詮は人の子! いつかはバテてこう言う筈だぜ! 助けてくださーいってよ!』
「…………!」
唇を噛む力が一段と強くなる。百万語の反論でも返してやりたいが、事実なので何も返せないのだ。
その後も聞こえてくる毛玉妖怪どもの声を無視し、ちらちらと周囲を見ればそこは見慣れた住宅街。そして、
「あった!」
ともすれば木々に囲まれた道とも言えそうな、細い川とベンチがいくつかあるだけの公園。
しめた。ここからなら神社は目と鼻の先だ。そう思い、総一郎は若干ぬかるんだ土の公園へ足を踏み込んだ。
妖怪は神社に入らない。いや、きっと踏み入れない。祀られている神様の目の前に、邪気を振りまく自分たちが堂々と入ってしまったらどうなるかわかったもんじゃないからだろう。
ともかく、神社に逃げ込みさえすれば、こいつらは撤退を余儀なくされる。こちらが出てくるのを延々と待っているかもしれないが、不思議と滅多に起こり得ない。
諦めが早いのか、神社にこもってしばらくするとまるで夢幻であったかのように、居なくなってしまうのだ。
『ん……? おい、あいつ神社の方に向かってないか!?』
『まじか!? こんなとこで見鬼逃がしたくねえよ!』
総一郎の向かう目的地に気付き始めた妖怪たちはにわかにざわつき始めている。
だがもう遅い。踏み込んだスピードを緩めることなく、総一郎は公園を突き進んでいく。川を跨いで蛇行するこの道を走り抜ければ――!
『ヒヒヒ、見鬼ィ!』
「がっ!?」
だが、総一郎の努力はこの瞬間水泡に帰す。
草むらが大きく揺れたかと思ったら、そこから新手の毛玉妖怪が総一郎めがけて飛び出し、体当たりをかましてきたのである。
「しまっ―――!」
鉄砲玉のような一撃は夜闇と雨で視界がひどく不自由であった総一郎には予期できぬものだ。彼はそのまま雨に濡れた橋で足を滑らせ、無様にも下の小川へ尻餅をついた。スネにも届かない浅い川なので体が流される心配はないのだが、
『よくやった!』
『さすがだぜ!』
『おう、あたぼうよ』
いっそのこと、勢いよく流されてしまった方がマシだったかも知れない。
橋を見上げればそこにはもう六匹の化け物たちが集い、
『ヒヒヒ、人の子のくせにてこずらせやがって』
『さて、どこから先に頂こうか兄弟? 腕か? 足か?』
『足は硬くてマズそうだなぁ』
『そんな事言ったらどこも骨ばってて食うとこあんまりないだろ!』
『ああ、まるでモヤシみたいだ』
獲物をとったと確信して、悠長にどう食べたものか相談し始めている。
……にしてもこいつら人を襲っておいて言いたい放題。こっちだって好きでこんな体型じゃないんだぞ!と総一郎は内心で文句を返した。
『おいおいおいどうすんだよ! 見鬼だぞ!? 滅多にありつけねえごちそうだぞ!』
しかし、今ならこの茶番に乗じて逃げ出すこともできるのではないだろうか。
そう頭によぎったのは毛玉どものうちの一体が、腕を上げて声を荒げた時である。
こいつらはこの通り、喋ることに夢中で誰もこっちを見ていない。この体制でゆっくり後に下がっていけば、雨音も相まって聞かれることもないだろう。
『誰も食わないなんていってねーだろう、ただ食うとこあんまりなさそうだなって』
ゆっくり、ゆっくり下がるんだ。
頭の中で繰り返し反復し、その肝に命じる。
『いつも通り早いもん勝ちでいいんじゃねえのか』
『アホか! 親分の分け前も考えなきゃあいけねえだろうが!』
まだなんか居るのか!?
こんな奴らの親分。一瞬だけどんな化け物かと考えたが、総一郎はすぐに頭を振ってその空想を打ち消した。
どの道ここで逃げ切れれば、もうこいつらに会うことなどないのだから。
そうこうしている間にもう岸のほど近くまで来ている。神社まで行かずとも、このままそそくさ立ち去ってしまえば、その時点でこちらの勝ちだ。
しかし――
『どうだっていいさ、そんなこと!』
集まった腕団子の一匹、総一郎を川に突き落とした奴がしびれを切らして川に飛び下りたのはそんな折であった。
『せっかくの見鬼なんだぜ? さっさとはらわたでも捌いて、持って帰っちまえばいいじゃねえか!』
「いいっ!?」
『おお、確かにはらわたならどんな人間でも柔らかい! 天才か兄弟!』
『やめろよ、照れるぜ』
『さーって、じゃあ早速掻っ捌いちまおうか』
下卑た笑い声で迫ってくる連中に、総一郎はおののいていた。
まだ死にたくない。やりたい事をたくさん残している。世界を巡って、いろいろな物を見て。そのようなことが頭の中を駆け巡った時、
「だっ、だれかーーっ!」
総一郎は即座に立ち上がり、もうなりふり構わず駆けだしていた。
神社へ続く道は腕団子が行く手を塞いでいる橋一本しかない。ということは彼に残された手段はもう、逃走を続けることのみ。そうしてあわよくば誰かに見つけてもらって助けを請うのだ。
だが、すぐに制服の襟を掴まれ、総一郎は川へ引き倒されてしまう。背中から川に打ち付けられ、怯んだ隙に、
『往生際が悪いんだよ!』
腹をその丸い体で、両腕をそれと不釣り合いな腕で押さえつけられてしまった。
『捕まえた、捕まえた! もう逃がさんぞ見鬼!』
「くそっ、放せ!」
総一郎は拘束を解こうと必死にもがくが、彼の細腕ではどうにもならず、振りほどくには至らない。
『さあ、まずはどこから切り裂いてやろうか、ぎゃあぎゃあと五月蠅いその喉笛か、それともいまだに我らから逃れようとするこの足か!』
「放せ、放――ぐっ、あぐっ!」
それでも未だ抵抗を続ける彼に何を思ったか、腕団子はその細腕をへし折らんとばかりに握りしめつつ、後ろの仲間に言い放つ。
『決めた――おい誰か、こいつの喉笛を切り裂いてやれ!』
『よし来た!』
万事休すか。
体は押さえつけられ、いくら暴れようとも上に乗っている異形はビクともしない。
『キェェェェエッ!!』
仲間の声を合図に、さっきまで嗤っていたやつが飛びかかってくる。
人は今までに生きてきた中で最大の危機を感じた時、周囲が異様なほど遅く感じることがあるという。今の総一郎はまさしくその状態で、処理能力の上がった彼の頭は、このどうしようもない状況の中思考を駆け巡り、ある一つの情を打ち出していた。
それは紛れもなく後悔の念だった。
昔むかし、本当に小さかった頃。もはやおぼろけながらにしか思い出せないが、父の驚いた顔を始めて見た日。あの時からすべては狂いだした。
突如として母とともに親戚からつまはじきにされ、父は父でかばうようなこともせず屋敷で何か怪しげなことを始める始末。それからしばらくたって自分はこうして異形に追われるようになってしまった。
すべてはこの見鬼が原因なのだ。自分が見鬼さえ持っていなければ、ここまで不幸に苛まれることもなかったのに。
「やっぱり見鬼なんてロクなもんじゃない……」
躍り掛かる化け物の爪が見えた時、小さく、本当に小さく総一郎は呟いた。
でもせめてと、こんな時でさえ思ってしまうのはやはり、彼もまた人間だからだろうか。
せめて父とは和解し、また昔みたいに家族で暮らしたかったな--
所詮叶わぬ願いなんだよなと薄ら笑いながら、総一郎は悪足掻きを続ける力を抜いた。
そして、その直後には鋭いものが空を切る音と、派手にに舞った何かが川に注がれる音。
『はあああああっ!?』
『な、なにぃぃい!?』
それを軽々と打ち消す、悲鳴染みた驚きの声があたりを埋めたのである。
あまりにも驚いたときに絶叫するか、言葉を失うかの二つしか取れないのは、人間も異形も大して変わらないようだ。
橋の上にいた四匹の腕団子たちは、あまりにも突然のことに笑うのも忘れ、目を剥いていた。
「な、んだ今のは……?」
何せここまでの急展開をすべて目にすることができていたのは、組み伏せられ、もう死を待つばかりの総一郎のみだ。
あおむけになっていた彼のみが見える木、飛びかかって来ていた腕団子より、せせら笑うその仲間たちよりさらに後ろにあるなんの変哲も無い木が不意に大きく揺れ、何かが飛び出したのを見てとることができていた。
一瞬、鳥が明日は我が身と逃げ出したかとも思ったが、それにしては矢のようにまっすぐこちらに向かってきて近づくほどに影が大きくなっていく。
そして、その姿がまるで人の様だ、と気づいたその時。
「ゆえに、寄りて斬るは人の心なり!」
「え、えあ……?」
影はとびかかってくる腕団子――総一郎の首を引き裂こうと飛び出した奴と重なり、寸分違わず真っ二つに分けたのである。
そうして襲い来る異形を撃ち落とした影は、驚いている総一郎たちの隣に着水した次第だ。
「わっぷ!」
よほど勢いがよかったか、水しぶきが舞い踊る。そしてそれが静まった時見えたのは女性だった。
そう。とんでもなく綺麗な女性。
肩に届くかといった長さで後ろにまとめられた黒髪に、赤を基調にした袴を自然と着こなし、そして腰には刀の鞘。おおよそこのような時間、それどころか今この時代に外を出歩いているとは考えられない、そんな古めかしい風情を感じさせる人間だった。
『なんだぁ、お前――!?』
突然木の影から光の下に現れた彼女はすぐ目の前から聞こえる異形の声に答えることもなく、ただ――
「我が身はこれ、剣を手繰るものにつき--」
短くそれだけ、つぶやいた。
07/31
改稿に伴い、直後の話と統合させていただきました。