・プロジェクト・ノア
"職員室"といっても、教員はビニ一人だ。
ビニは、電子ペーパーにぐだぐだと、くだを巻くように今日一日のレポートを綴る。
『……に該当、甲が発揮した暴力性は、旧人類に良く見られたもので、現生人類と等しいとは思われない……が……激しい感情の発露は……私見であるが、猿と断言する事は』
キーボードを叩く手を止め、ため息をついて、コーヒーにオレンジ・ペーストを三センチほどたらしこんで、混ぜる。
泥色のソイツをぐいっと煽ると、甘味と苦味と酸味のフレーバーが程よく混じる。ビニの凝った肩と、疲れた脳にじわりと広がる味。
後は塩味と旨味が混じれば完璧なフレーバーだ。
とんだじゃじゃ馬がやってきたものだ。いや、暴れ猿か、と訂正をし、更に深くため息をついた。田中はあんなにも愛らしいのに、どうして佐藤はあんなに苛立つ子なのだろうか。
「……確かに、甘いんだけどねーぇ」
客観的に鑑みると、確かにビニは田中に甘い。このコーヒーほどには、甘い。
だだ甘である。
田中は猿である。人間ではない。人間を生み出したヒトを、人間の手で復元するプロジェクト・ノアの実験動物だ。2295時点で全滅した霊長類――ホモ・サピエンスの受精卵を人間の代理母の子宮を使って出産し、ヒト種の復活を行い、最終的には野生へと返す為にある――いわば、試作品だ。
田中は猿である。
ビニは、確かにそう考えている。いかにビニ自身が腹を痛めて産んだとしても、だ。
それなのに、猿に人間と同じものを食べさせ、人間と同じ服を着せ、人間と同じようなレンズのおもちゃを与え、地下鉄に乗せ、人間と同じように扱っている。
あまつさえ田中を、自分の子供か恋人のように扱っている。これでは、ペット扱いよりも酷いではないか。研究者として、実験動物に対してあるまじき扱いである。公金の無駄遣いと批判されても、まったく反論が出来ない。
そんな田中に愛情を感じるビニは、佐藤の言う通りのド変態のズーフィリアだ。
ストレスで濁る頭蓋水晶を、健康部身体健全システムと同期。各個人に調整されたテロメラーゼ最適化賦活処理と抗酸化処理をダウンロード。下品に胡坐をかいて、デスクチェアの背に小さな背中をもたれかからせて、伸びを打つ。
「あ゛ー……効くわぁ……」
身体の老化は防げても、心の老化は未だ防げない。
ビニの人生は三十六年。人生僅か五十年とニッポンのブショー、ノブナガは言ったが、今の人類は理論上、二百五十年は生きる。大体五倍だ。その三分の一も過ぎちゃ居ない癖に、自分で死ぬ奴が多すぎるから、平均寿命は大体八十年。
三百年前と大して変わらない。八十年だ。
「ビニ、入っていいかな?」
「あいー……」
緩みに緩みきったビニの姿と、湯気を上げるオレンジコーヒーを見て、田中の口はへの字に歪む。甘苦酸っぱい泥色の液体は、田中の好みでは無い。
「よくきた、ちこーよれ。肩をもむ権利を授けよーではないか」
ずるずると泥を啜るビニの白い肩を、田中はもむ。親指に力を入れると、コリが伝わって来る。揉み解すと、ぉぉ゛ぉ゛ぁ゛と、愛らしい顔に似合わない疲れた呻き声が部屋に響く。
「……あいつ、一体なんなんだ?」
「猿よ」
「猿かぁ……」
「うん、猿。田中とは違う。猿」
田中の問いに、ビニはとっさに嘘をついた。
よれた白衣についた、コーヒー染みの様な黒い感情。
田中と佐藤は同じ猿で、彼らをつがいにして、野生に放り出す計画だ、と概要を説明したらどう感じるだろうか。田中はビニを許さないだろうか。
いや、佐藤を猿と判定せず、人間と判定したなら。佐藤は死刑になって、犯した罪を人間として償って、この世から消える。
ビニと田中の楽しい毎日は、きっと続く。
だが、計画の方は頓挫する。
何しろ、もうたった二頭のヒトなのだ。もう一匹産むには、ビニは年を取り過ぎた。肉体的には不可能では無いが、健康部のシステムがそれを許さないだろう。ただでさえ人口が爆発しているのだ、旧世紀の失敗をシステムは許さない。
それをどうにかこうにか誤魔化したとして――もう一頭産んで、そのもう一頭が出産適齢期を迎えたとして、田中とつがいにさせて、野生に放り出すとして――それまで、ビニは田中と暮らしたとして、耐えられるのか。
不可能だ。
十八年。これから過ごすであろう人生の7.2%を過ごしただけで、これほど苦しい判断を迫られるのだ。三十六年。14.4%を占めたら、どれだけ苦痛に感じるのか。
それなら、プロジェクトの失敗もやむなしか?
いや、それもまた――
ただ、ビニがどちらを選択しても、独断では話が進まない。申し送り書を添付しても、どうせ第三者機関が長々と監査して、もっともらしくて仰々しい文章で熨斗をつけて来るだろう。継続なら継続と、中断なら中断と竹を割ったような答えが直ぐに返ってくれば、ビニももう少し気が楽になるのだが。
「……馬鹿馬鹿しい」
「ん……何か言った?」
ビニの独り言が、田中に漏れた。
「色々。馬鹿馬鹿しいなって」
「そうだね。馬鹿っぽいよ。特にそのオレンジ・コーヒー」
田中の視線は、先ほどからずっとビニの手に持つ、泥色液体に注がれていた。甘酸っぱくて、苦香ばしい、吐しゃ物に近い味わいのソレを、ビニは旨そうに啜る。
「後でケチャップ入れて、完璧な味にするから」
げぇ、と更なるゲテモノに進化するソイツを想像して、田中はうめき声を上げた。
後はいつもの通りの、霊長類とのスキンシップ。ビニの日常は、大体そんな感じだ。
壊れた偽装硝子は、予備がある。本当なら佐藤にくれてやる為のそいつを、田中の額につけて、ビニは満足した。
猿は一人でいい。
後ろ手で、こっそりと、旧態然とした電子メィルの送信。
『出来ず、むしろ、我々人間と同質の存在であるのでは無いかと具申する』
翌日。
田中は昨日と同じ、睡眠学習装置の駆動限界でたたき起こされ、いつものようにビニの緑ペーストの朝食を食べ、ぐるっと環状メトロの客を観察して、学校へ行く。
田中はまったく気にならないが、ビニが教えてくれることは睡眠学習装置で既に相当前から叩き込まれている事なので、一々教えてもらう必要は無い。
あくまで、田中はビニの白衣を見に学校に行くのだ。
今日も佐藤は、田中の机の横に居た。佐藤の額に偽装硝子は、はまっていなかった。
「田中、知ってる?」
「……なんだよ、佐藤」
「あいつらの脳味噌と、私たちの脳味噌の差」
ビニの声を聞きながら、ノートをとる田中に、佐藤は横からチャチャを入れる。
「何も違わないさ」
「あいつらの脳味噌の色も、私たちの脳味噌の色も、基本的にはクリィム色でピンク色なんだ」
田中の昼のペーストはピーチ&クリィムで、クリィム色と桃色が螺旋にひねり出される事を思い出す。田中は、一気に食欲がなくなった。
一人じゃサンプルに足りないから、十人ほど割ってみたけど、と佐藤は前置きをして。
「一番の違いは、あの真っ赤なコランダムよ。アイツを埋め込まれた脳味噌は、前頭葉を中心に幅広く萎縮して、取り出したら九百グラムほどになってた。でも、その代わりに硝子が段々成長して、根を張っていく。年寄りほど根っこが張ってるわね。若いのはそうでもなかった」
額をコンコンとたたきながら、どこか遠くを佐藤は見る。
「気持ちが悪いから、やめてくれ」
「でも、それを綺麗に取り除くと――驚くほど、差がないんだ」
ぼそぼそと呟くように、佐藤は、田中に語りかける。
「佐藤ちゃん、次のインデントから音読ぅー。後、私語は慎むよーに」
佐藤は立ち上がると、教科書を持って、指定されたインデントを目で追った後。
「――だから私も、アンタも、アイツも同じ人間なんだ」
「佐藤ちゃん、減点ー」
授業をまともに受ける気は、佐藤には無いらしい。
授業が終わると、佐藤はまた、誇り高く手錠を掛けられて、どこかに行く。
こんな日常が、数ヶ月続いた後。佐藤は姿を消した。
暫くの間、田中の食事が、夜のペーストまでグリーンペースト漬けになったり、ビニのテンションが妙に高かったり、低かったりした事以外は、田中の日常は大して変わって居ない。
後、特筆すべき事としては、佐藤が姿を消した数ヵ月後、何のお祝いでもないのに肉が出た。
それ以外、田中の日常は変わらない。