・2313―2
所長は優しかった。
所長が、佐藤の体で触れなかった場所は無かった、黒い髪の毛も、整った顔も、桃色の唇も、しなやかに伸びた腕も、うっすらと脂肪が乗った脚も、臍がキュートな胴体も、引き締まった尻も、眼窩や、鼻や、またぐらの穴と言う穴も、それどころか体の中も胃も、腸も、脳味噌すらも。所長の手と目が触れなかった箇所は無かったし、採集されなかった箇所も無かった。
皮膚も、汗も、血液も、涙も、涎も、胃液も、髄液も、股の間から流れる汁も、小便も、糞も、全てがサンプルになった。佐藤が物心が付いた頃から、ずっと採取されてきたのだ。
佐藤は猿である。直立歩行する大型類人猿である。食事も所長と共に取るし、寝床も所長と同じベッドで眠るし、体毛も殆ど所長と同じ箇所にしか生えていない。
ただ、額のアクセス・レンズが佐藤には無い。
額のアクセス・レンズが無くても、佐藤は大概の電子機器を扱える。アクセス・レンズがあれば、殆ど人間と同じ生活が営めることだろう。
それでは、佐藤は人間と殆ど同じではないのだろうか。
だが、忌々しい事に、自分が人間であるという事を客観的に証明する手立てが無い為に、佐藤は猿である事を自ら認める。額のアクセス・レンズが無い故に、自分は猿であるという事を認める。
『所長、アクセス・レンズがあれば、アタシも人間になれるの?』
『佐藤、君がそう望んでも、僕は君にレンズをつけてあげる事はできない。脳の構造に差があるんだ。僕と、君とでは』
佐藤と人間との差は脳蓋にあると、所長は言った。だから、佐藤は所長に頼み込んだ。
『アタシの脳味噌と、所長の脳味噌を比べさせてください!』
所長は笑いながら、そんな事はしなくてもいいと言った。
『だって、君は猿なんだから』
その夜、佐藤は所長の頭蓋を叩き割って、アクセス・レンズと脳味噌を取り出した。
裸の猿は自分の頭蓋も割って、取り出した脳味噌と己の脳を、鏡で比較した。
佐藤は、優しい所長の事を思う。きっと許してくれるだろうと、思う。
佐藤の記憶はそこから、三ヶ月ほど無くなっている。
法と裁判で人は裁かれる。
だが、猿を裁く裁判も法も無い。
佐藤の処分に関しては、もめにもめた。何しろ、貴重な、猿なのだから。何しろ、所長は人間だから、代えが効くから。
果たしてこれは、事件なのか、事故なのか。果たして彼女は、『人間』なのか、それとも『猿』なのか。佐藤は、自分を『人間』と訴えた。アタシが殺したのだと訴えた。検察部は、佐藤を『猿』と認識した。猿が飼い主を殺した、事故だと断じた。報道部は、所長も佐藤も『死んだ』と報じた。最後の猿が死んだと報じた。
裁判部が下した結論は――人間だか猿だかの、面倒な判断は専門家に任せようという結論だ。
佐藤は、人間として裁判を受ける為に、この学校に来たのだ。
世間は、佐藤を猿と判断する為に、この学校に送り込んだのだ。
こうして、特殊霊長類研究所――田中の認識では、特殊養護学校――に、佐藤は来た。
「返せ! この猿!」
田中は、偽装硝子を奪った佐藤を猿だと思う。どれだけ人間らしくしていても、こいつは猿で、人間の言葉が通じていない。異分子である。
「ビニって言ったっけ、あの研究者。あいつとアタシの差は、どこにあるのかしらね」
その証拠に、田中の言葉とはまったく無関係なやり取りを佐藤はしようとする。
「この猿、人の話をまったくききゃしない!」
「そうじゃないのよ、アンタが人の話を――行間を読もうともしないだけよ。私が猿なら、アンタは一体なんなのさ? レンズが無いアンタは、私と何にもかわりゃしない。私が猿なら、アンタも猿よ」
淡いピンク色の偽装硝子を手で転がしながら、佐藤は田中の手を捌き続ける。
「逆に言うと、アンタが人間なら、アタシも人間よ。訂正しなさい、猿」
真っ赤に充血した目で、佐藤は田中をにらみつけた。田中は、佐藤の言葉を反芻し、ようやく手を止める。けして、佐藤の気迫に飲まれたわけではない。田中は、田中が人間であるから、田中自身の理性の言葉に従っただけである。
「……猿といった事は、謝る。だから、返せ」
「やだね。こんな偽物へっつけて、世間様に自分はいかにも人間でございってツラしてるおぼっちゃまは、それこそ――反吐が出るわ」
佐藤は田中のレンズを、床にたたきつけた。がちゃんと硝子が割れる音と、砕け散る赤い結晶を見て田中は、反射的に怒りの声を上げた。硬く握り締めた拳を、このいかにも口が達者な少女の顔面にこいつを叩き込んだなら、田中は相当すっとするだろうと思う。
やれ。
自分は、まだまだ全力でぶんなぐってはいないはずだ。
ぶるぶると震える手を硬く握り締め。田中は――
「はいはーい、そこまでー」
ピンと張り詰めた暴力の気配を、のほほんとしたビニの声が割って壊す。
先ほどの催涙ガスの味を思い出し、田中は冷水を掛けられたようにうへっとした顔を浮かべた。
あの灼熱の味は、今まで食べたどのペーストよりも痛くて辛い。
「そこまでって、どこまでよ。おばさん」
「そこまではそこまででーす。人間なら、わかりまーす」
言葉で噛み付く佐藤に、辛辣な言葉で噛み付き返すビニ。
「大体、人間なら他人の物は盗りません。佐藤ちゃん、一ポイント減ぇーん点っ」
佐藤の顔が、怒りで真っ赤に染まる。口から泡を飛ばす勢いで、涼しい顔をしたビニに食って掛かった。
「あら、それこそ歴史上の人間は――たった、300年ほど前の人間は、日常的に他人の物を奪って生きてきたわ。それこそ、奪う事も、人間のまた一つの面よ」
「野蛮です、佐藤ちゃん、もう一ポイント減点。暴力は、猿のやる事でーす」
「野蛮をアンタが否定するの? アンタだってあの真っ赤な唐辛子ガスを臆面もなくぶっ放したじゃない」
「降りかかる火の粉を振り払う行為を、暴力とは言いません。もっと減点」
「降りかかる火の粉と言うなら、アタシがここにつれてこられた事こそが既に、火の中よ。火事の建物の中を抜けることは、野蛮でもなんでもないわ」
うすら笑いを浮かべるビニが、田中には恐ろしかった。
「佐藤ちゃん、ウソはダメだよー。自分から望んで来たのに、そんな言い方は卑怯だなぁ」
目の前の佐藤を、人かそうでないか冷徹に分析する顔。普段は田中には見せない一面が、ただ、恐ろしかった。
「大体、アタシを猿扱いしたいなら、まずはそいつを猿扱いしたらどうさ、おばさん」
「まぁた話題をずらすー。ちゃんとお話するなら、話題を頻繁にずらしたらダメだと思うよ?」
「そいつ、一体なんなのさ。アンタの情夫? まともな男に相手されないから猿をお相手? 随分若作りしてるけど、ここのお偉いさんやってるならもう、三十路も半――」
ぱん、と肉を打つ肉の音。ビニの平手が、佐藤の左頬を打った音だ。普段からぶたれている田中には判る。ビンタ・サウンドを添付することも忘れた、本気の平手だ。
「……ズーフィリアのド変態恥女、アンタはアタシと同じで暴力を振るった。アンタの負けよ」
「言ってなさーい、黒毛猿」
佐藤が、頬に付いた紅葉の勲章に、勝ち誇ったように胸を張った。対照的に、ビニは苦虫を噛み潰した顔をし――二、三秒の後に、普段どおりのあいまいな微笑みを浮かべ、田中のほうに寄って行く。
「田中、田中、ぼーっとしてない。レポートは出来た?」
「ビニ、うん、ああ、出来た。教練本三十二ページまでのまとめは」
よろしい、と頷きながら、ビニは田中の机近くに散らばるダミー・レンズの破片を踏んで、眉をひそめた。
「田中、ここの掃除をしてから――"職員室"に来なさい。佐藤ちゃんは宿舎へ帰りなさい。お迎えが着てるから」
ビニが指差す方向を見ると、朝方綺麗にのされた二人組が、律儀に教室の入り口で待っていた。佐藤は何も言わずに、入り口に向かって歩いて――
「手錠」
「……ああ、使用許可は下りている」
「アタシは、人間だ」
「お、おう……」
がしゃり、と自ら手錠を掛けられた。困惑する警備部の職員に連行されて、佐藤は背筋を伸ばして、胸を張り誇らしげに教室を出る。
「うっさい、猿」ビニの唇が、小さく動いた。