幼少期(3)
結局、ほとんどの食事を残してしまった私は、無言で責めるタエの視線に気づかないフリをして自分の部屋にこっそりと戻った。そして驚愕。何とそこには先客がいたのである。
中にいたのは先ほど初対面したばかりの少女、一条明日香だった。
***
「なにしてるの?」
本棚の前に腰を下ろしてこちらに背を向ける少女の後姿に声をかけると、小さな体が思いきり跳び跳ねて、あわあわと慌てた様子で振り返った。
「うわっ!ごめんなさい!!」
「そんな驚かなくても…。何をもってるの?」
「……あ…」
今にも泣きそうな顔の明日香が手に持っているのは、一冊の分厚い本だった。
「すみません!さっき美散さまのお部屋に入った時に見つけてどうしても気になって……」
「別に本くらい見てもいいけど……」
どうやら彼女は私が食事中にこっそり部屋に入って、中身を少しだけ読んでからすぐに出ていくつもりだったらしい。
幼児といえど、桜庭財閥の娘の部屋に無断侵入なんて、バレたら大変なことになるのはわかるだろうに。驚くほど大人びた子だなあとは思うけど、やっぱりまだまだ自制の効かない年頃なのよね。
……ん?
思い返せば以前にもこんなことがあったような……。
『ひとのへやにかってにはいると、どろぼーなのよ!』
……あれ?
『おとうさまにいいつけて、おまわりさんにつれてってもらうんだから!』
……これって私の記憶?
『もっ申し訳ありません!美散さま…』
涙を流しながら必死に頭を下げて謝る小さな黒髪の美しい女の子……。
あの子は……。
「ああああぁぁっ!!そうだ!あの時の女の子だ!!」
「!?」
いきなり大声をあげた私にビクッと驚いた明日香は、自分の行動がそこまで怒りにふれてしまったのかと、恐る恐る私の表情を窺おうとする。
思い出した!
一条明日香は私の前の人生でも今と同じように無断でこっそり部屋に入って本を読んでて、当時の私とばったり遭遇してしまったんだわ。
あの時は私が泥棒泥棒と大騒ぎして、駆けつけたタエに叱責された上、運悪く本邸に戻っていたお父様にも話が伝わって大変なことになったのよね。
……私があんまり喚くものだから、うんざりしたお父様が連帯責任として母親の静香をクビにして明日香達を屋敷から追い出したんだったわ。
………思い出さなきゃよかった。
私って最低よね。
「美散さま…?」
「……ん?…ああ…ごめんごめん。今ね、ちょっと自己嫌悪してて…」
「じこけんお?」
「反省してるって意味だよ」
「…?…はんせい、ですか?…どうして…悪いのは私なのに…」
意味がわからないというように首を傾げる明日香に、私はなるべく優しく声をかけた。
「たしかに勝手に部屋に入ったのはいけないことだけど、明日香はちゃんと謝ってくれたでしょ?だから許すよ」
「美散さま…」
「ところで、何の本を読もうとしてたの?」
「…あ。これは動物の図鑑なんです。ずっとほしかったんですけど、家が貧乏なので買えなくて……」
悲しげに俯いてこぼす明日香の視線の先には、“せかいのどうぶつずかん”という子供向けのイラストの表紙で描かれた図鑑があった。
う~ん。図鑑ねぇ…。タエあたりが用意したんだろうけど、正直言ってあんまり興味ないのよね。物語とかだったら割と好きなんだけど。あ、そうだ。
「それ、ほしいなら明日香にあげる」
「……へ?」
うん。グッドアイデアだわ。どうせ本棚には腐るほど図鑑やら辞典やらが並んでるし、一冊くらいは無くなってもわからないでしょ。
そう言うと、何故か明日香が真っ青になって慌てだした。
「だっ…だだだダメです!美散さまの物を私みたいな使用人の子供がもらうわけには……」
「だって私、動物の図鑑なんてみないもん。それに、図鑑だって明日香が持っててくれた方が喜ぶと思うよ」
「でもっ…」
「ならさ。この図鑑をあげる代わりに私のお願いひとつだけ聞いてくれる?それならお互い貸し借りなしになるよ。」
5歳児にはちょっと難しいかな~と思いつつ、明日香の返答を待つ。話しててわかるだろうけど、あまりにも賢い子だからついつい本来の年齢を忘れちゃうのよね。
私が呑気にそんなことを考えている内に、どうやら明日香は私の話に乗る決心をしたらしい。それほど図鑑がほしいということなんだろう。
「お願いってなんですか?」
「うん…あのね…その…」
頬に熱が灯る。だってこんなこと言うのは生まれはじめてなのだ。私は人生をやり直したい。桜庭美散として、これから係わっていく人間を以前とは大きく変えてみたら、何かが変わるかもしれない。
私はできる限りの笑顔で言った。
「友達になってくれる?」