08 回収
図書室の空気は、いつも通りだった。
窓から差す夕方の光。
本の匂い。
静かなページの音。
だからこそ、違和感が目立つ。
先生はカウンターの奥で、例の黒い本を机に置いていた。
その横に、古い台帳を開いている。
先生は眉間に皺を寄せたまま、ページを何度も行き来していた。
「……ないわね」
小さな声。
俺は席に座ったまま、その手元を遠くから見ていた。
見てはいけない気がするのに、目が勝手にそっちへ行く。
(管理台帳……そりゃないよな)
先生は黒い本の表紙を指で軽く叩く。
コツ、という乾いた音。
「……あなた、何者なの」
独り言だった。
でも、俺の背中がぞわっとした。
先生は俺に気づいて、顔を上げる。
「佐倉くん。ちょっといい?」
俺は反射で立ち上がった。
「はい、早乙女先生」
先生は黒い本を指で示したまま、淡々と言った。
「これ。やっぱりおかしいわ。分類もないし、台帳にも載ってない。寄贈印もない」
「ですよね……」
俺は曖昧に笑った。
笑うしかない。
「それに、読めるのに……読めないのよね」
俺は固まった。
「読めるのに、読めない?」
「文字は見えるの。でも、頭に残らない。気づいたら同じ行を三回読んでる」
先生は困ったように眉を寄せる。
「それが、仕事柄いちばん嫌」
仕事柄。
“記録を扱う人間”の言い方だった。
怖がっているのに、逃げていない。
先生は引き出しを開ける。
鍵を見せるみたいに、わざと音を鳴らした。
カチリ。
黒い本が引き出しに入れられる。
「これは一旦、保管するわ。学校の所有物じゃないなら、確認を取る」
先生の声には迷いがない。
逃げない。
怖いのに、逃げない。
先生は鍵をポケットに入れた。
「佐倉くん」
「はい」
「この本のこと、誰にも言わないで」
声が少しだけ低くなる。
「噂になると、生徒が寄ってくる。寄ってきた子が触る。触った子が気分悪くなる。……そういうの、嫌なの」
俺は頷いた。
「分かりました」
先生は一拍置いて、俺を見る。
「君も今日は旧校舎の整理はやめなさい。帰って」
心臓が跳ねた。
「え」
「今日の分は私が司書として判断する。……危ない匂いがする」
先生の直感は、たぶん当たっている。
でも俺は――
俺が言い返そうとした、その前に。
引き出しの中から、小さな音がした。
紙が擦れる音。
先生も俺も、同時に黙る。
鍵は閉めたまま。
なのに、音はもう一度した。
ぺらり。
ページをめくる音。
先生の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……今の、聞こえた?」
俺は喉を鳴らした。
「……聞こえました」
先生は一瞬だけ目を閉じる。
次に開いた目は、もう迷っていない。
「佐倉くん。帰りなさい」
言い方が命令だった。
俺は反射で頷きかけて――止まった。
(帰ったら、どうなる)
引き出しの中で勝手に本が開く。
勝手にページがめくられる。
それを先生が、一人で受ける。
俺のせいだ。
俺が一行を書いたせいだ。
俺は口を開く。
「先生、俺――」
「君は生徒。私は司書」
先生は静かに言い切った。
「守る側の仕事は、私がやる」
その声に、背筋が伸びた。
でも俺の胸の奥は、熱かった。
(……守る側)
管理者が言った。
『間接閲覧を許可します』
間接閲覧。
第三者。
それが先生なら、確かに“守る側”だ。
先生は引き出しに手を置かない。
触れない。
それでも目だけで、そこを監視している。
「今日は帰って。明日の朝、また話す」
「……分かりました」
俺は頷いた。
頷いてしまった。
それが正しい気がして。
正しいのに、怖い。
俺は図書室を出る。
ドアを閉める直前――
引き出しの中から、もう一度だけ“ぺらり”と音がした。
まるで、誰かが読んでいるみたいに。
翌朝。
図書室は、いつもより早く開いていた。
先生が来るのが早いのか、俺が早いのか分からない。
ただ、扉が開いているだけで安心した。
「早乙女先生、おはようございます」
俺が声をかけると、先生はカウンターの奥から顔を上げた。
「佐倉くん。来たのね」
先生の声は落ち着いていた。
でも目の奥が、少しだけ疲れている。
「……昨日、何かありました?」
俺が訊くと、先生は一拍置いた。
「……本が、勝手に開いた」
淡々と言った。
淡々とした声だからこそ、怖い。
「鍵は閉まったまま。引き出しも開いていないのに、ページをめくる音だけがした」
先生は机の上の紙を指で押さえる。
そこには、走り書きのメモがあった。
司書の癖だ。記録する。
「それから……同じ夢を見たわ。白い廊下。黒い箱」
俺は喉が鳴った。
(それ、俺が見たやつだ)
先生は自分で自分を否定するように首を振る。
「変よね。そんな場所、行ったことないのに」
先生は少しだけ言い淀み、それでも続けた。
「……こういう感覚、昔も一度だけあったの」
先生は視線を落としたまま言った。
「大学の頃。古書店で買った、ごく普通の本。怪談でも禁書でもなくて、古い教養書みたいなやつ。――講義の参考にするような、そういう類の」
先生は小さく息を吐く。
「でも、開いた瞬間に寒気がしたの。理由が分からないまま、指先だけ冷えて……ページをめくるのが嫌になった」
俺は息を止める。
「怖い“話”だったわけじゃないのよ。文字も普通。内容も普通。でも、“読んだら戻れない”って身体が先に決めたみたいな感覚」
先生は苦笑して続けた。
「結局、途中で閉じて、棚の奥にしまって……それきり。あれは、そうするのが正しい気がしたから」
先生の目が、引き出しに戻る。
「でもこれは、棚に戻して終わる話じゃない」
先生は俺を見た。
「佐倉くん。これは、君が見つけたのよね」
「はい」
「じゃあ、君は最初に触れてる。……気分は悪くない?」
俺は一瞬だけ詰まった。
悪い。
でも、別の意味で悪い。
「大丈夫です」
俺は嘘をついた。
先生はそれを責めない。
ただ頷いた。
「そう。なら良い」
その言い方が、逆に怖い。
“良くない可能性”を最初から計算している。
その時だった。
コツ、コツ、と二人分。
靴音が妙に揃っている。
そして扉が開く。
入ってきたのは、見知らぬ二人だった。
スーツ姿。
胸元にIDカード。
表情は柔らかいのに、目が冷たい。
……なのに。
図書室っていう場所に、スーツが馴染んでない。
場違いなはずなのに、妙に“慣れてる”。
歩き方。
立つ位置。
先生との距離。
全部が、最初から決まってるみたいに揃っている。
(うわ……新イベント、きた!?)
背中が冷える。
でも心臓だけは、逆に速くなる。
(マジで来るんだ……こういうやつ)
「失礼します。こちらの学校の図書室でお間違いないでしょうか」
先生が一歩前に出る。
「はい。何かご用件ですか」
男の一人が、穏やかな声で名刺を差し出した。
「施設点検の件で伺いました。関係資料の確認をさせていただきたい」
先生が眉を動かす。
「……突然ですね。事前連絡は?」
「急な変更でして。申し訳ありません」
男は笑った。
笑っているのに、笑っていない。
「こちらでお預かりしている“未登録の資料”について、確認したいのです」
先生の指先が、わずかに止まった。
俺も止まった。
未登録の資料。
黒い本のことだ。
先生は静かに訊いた。
「……何の資料ですか」
男は、言葉を選ぶように間を置いた。
「昨日、こちらで確認されたものです」
知っている。
最初から知っている。
先生は一拍置いて、鍵の入ったポケットに手を伸ばしかけ――止めた。
代わりに、視線だけで俺を見た。
――下がれ。
そんな意味の目だった。
俺は反射で一歩下がる。
でも視線は、男たちの胸元のIDカードに張り付く。
(うわ……マジか。マジでそれ系か)
男の一人が、先生に尋ねる。
「失礼ですが――お名前を伺っても?」
先生は一拍置いた。
「早乙女……祥子です」
その瞬間。
引き出しの中から“ぺらり”と音がした。
まるで返事をするみたいに。
男たちの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「早乙女先生。ありがとうございます」
丁寧すぎる声で。
「では、対象物の確認を」
先生は一拍置いた。
「……確認って、具体的に何をするんですか」
男は即答しない。
“説明する側”の呼吸で、順序を整える。
「対象物が、現在どの状態にあるかを確認します」
「状態?」
「未登録資料であることは既に把握しています。
こちらで見るのは、内容そのものというより——」
男は言い換えるように続けた。
「誰かが、どの形で“触れているか”を確認します」
先生の眉が僅かに動く。
「……あなたたち、何を言って……」
「誰が、どこで、どの形で読んでいるか。
直接ではなく、間接の閲覧が発生している場合もあります」
先生の視線が鋭くなる。
「……そんなことを、どうやって」
「手順上、必要です」
男は淡々と言った。
「この手の対象物は、確認の仕方を誤ると“拡散”します」
先生の指先が、鍵の入ったポケットの上で止まる。
「拡散……?」
男はそこで初めて、少しだけ言葉を選んだ。
「認識が広がる、という意味です。
噂。興味。本能的な恐怖。——そういったものが連鎖して、齟齬が増える」
先生の顔が硬い。
「……齟齬、齟齬って……」
男はその反応に構わず続ける。
「確認自体は簡単です。
対象物がここにあることを確認し、必要なら封印状態を維持する。
持ち出しが必要な場合は、手順に従って移送する」
先生は即座に返した。
「持ち出しは認めません。この図書室の資料です」
男は表情を崩さない。
「承知しています。だからこそ——」
一拍。
「先に、整合処理を行います」
先生の眉が跳ねる。
「……整合?」
男は頷いた。
「周辺の認識を整える処理です。確認の前に行うのが手順です」
「なんのために、そんなことを」
先生の声が強くなる。
反発が、ちゃんと怒りの形をしている。
男はそこでようやく“理由”をはっきり言う。
「確認そのものは、物を見て終わりです。
ですが、その瞬間に生まれる驚きや恐怖が、齟齬を拡散させる」
男は淡々と続ける。
「整合処理は、記憶を消しません。事実も消しません。
ただ、事実と危険認識の結びつきを弱めます。
“危ない”と感じる経路が強いほど、人は行動します。
逃げる、触る、伝える。——それが拡散になります」
先生の顔が青くなる。
「……それは……人の心を……」
「操作ではなく、手順です」
男は感情を挟まずに言った。
「こちらがしているのは、異常を日常に紛れ込ませるための処理です。
理解されなければ、広がらない。
広がらなければ、回収できる」
先生の唇が震える。
「許されて……いや、できるはずがないでしょう。そんなもの」
男は、反論しない。
「回収班の現場手順です」
それだけ言って、胸元のケースに手をやる。
留め具を外す音がやけに小さい。
取り出したのは、小さな機械だった。
掌に収まる薄い端末。
カードより少し厚く、角が丸い。
表面には小さな表示窓がひとつだけ。
男は淡々と補足する。
「整合端末です。処理の起動と同期ログを記録します」
(端末ぅ……!)
頭の中で変な声が出た。
落ち着け。落ち着け俺。
でも無理だった。
(専用機材ってだけで、もうズルいだろ……)
男は端末を操作する。
親指が側面のボタンを押す。
カチ、と小さな感触。
表示窓に文字列が灯る。
《SYNC:STANDBY》
(うわ、出た。こういうの……好き)
端末が低い振動を鳴らした。
耳では拾えないくらい薄い音――なのに骨に響く。
……空気が変わる。
透明な板を一枚挟まれたような距離。
音も光も、その向こう側へ押しやられる。
先生が一度だけ瞬きをした。
目の焦点が合いかけて――すぐ外れる。
さっきまで出てた“反発する言葉”が、喉の奥で止まる。
言いたいはずなのに、言えない。
先生が急に大人しくなった。
(……え、待って。今の、やった?)
男は端末を少し傾けた。
《SYNC:READY》
「早乙女先生。対象物をこちらへ」
先生の肩がぴくりと動く。
……拒否しない。
先生はポケットから鍵を取り出した。
カチリ。
引き出しを開ける。
黒い本が、そこにあった。
先生は一瞬だけ手を止め――止めたのに。
次の瞬間には、もう掴んでいる。
机の上に置く。
コト。
乾いた音。
先生の手が、そのまま本を滑らせた。
男の手のひらへ。
渡してしまう。
先生自身が“それが当然”だと思っているみたいに。
先生は息を吐いた。
「……確認、するんですよね」
声は落ち着いている。
落ち着きすぎている。
男が端末をこちらへ向けた。
《SYNC:APPLY》
空気がもう一段、薄くなる。
声が遠い。
目の前なのに、距離だけが増える。
俺は目をこらした。
端末。
手順。
同期ログ。
見たい。
全部見たい。
でも、それと同時に。
(……先生、これ大丈夫か?)
その不安だけは、喉の奥に残った。
ページをめくる音が聞こえた。
ぺらり。
ぺらり。
速い。
男の指先がページを固定する。
その動きが、また無駄がない。
手順通り、って感じがして――余計に嫌な予感がする。
同じ時間。
地下の白い廊下で、管理者は黒いケースの前に立っていた。
《Record:SEALED》
《View:RESTRICTED》
表示は変わらない。
それでも施設は、地上からの接続を受け取っている。
管理者の瞳の奥で、淡い光が走る。
「同期信号、受信」
次のログが静かに浮かぶ。
《Intervention Target:RETRIEVER》
《Assist:PROXY-READING》
《Route:LIBRARY》
介入先は回収班。
目的は、間接閲覧を成立させるための補助。
管理者は一拍置いて、淡々と告げる。
「間接閲覧補助:開始」
黒いケースの内部で、封印記録が微かに震えた。
その震えが、別の場所へ伝播する。
――紙をめくる音。
急かすための合図。
読むように、進むように。
ログがもう一段、重なる。
《Proxy Reader:SHOKO-SAOTOME》
《Status:ACTIVE》
《Read Speed:LOW》
管理者は表情を変えない。
「遅延を確認」
そして、必要な結論だけを落とす。
「読み上げを要求します」
先生の唇が、わずかに動いた。
「……この、矛盾は――」
自分の声なのに、耳に届くまで少し遅れる。
言おうとしていない言葉が、喉の奥に並んでいる。
言いかけた、その瞬間。
影が滑った。
誰かが先生と男たちの間に割って入る。
黒髪。
冷たい目。
制服。
東雲凛だった。
「そこまで」
短い声。
低い声。
男の片方が苛立ったように眉を動かす。
「観測員――接触は禁止のはずです」
凛は先生の口元を見て、言った。
「……その言葉を、続けないで」
男が端末をわずかに上げる。
凛に向ける角度。
けれど、指先が止まる。
ページを押さえていた力が抜ける。
紙がふわりと戻りかける。
男の目が、ほんのわずかに見開かれた。
自分の手が、さっきまで何をしていたのか。
遅れて気づいたみたいに。
男は本を見下ろし、先生を見る。
それから凛を見る。
喉が小さく鳴った。
「……何だ、今の」
言い方が確認だった。
誰かを責める声じゃない。
自分の中に残った“空白”を、埋めようとしている。
もう一人の男も、眉を寄せる。
端末を見た。
そこには、もう何も映っていない。
沈黙。
男は一度、息を吸う。
その吸い方が妙に整っていた。
そして、黒い本から手を離す。
「……手順を中断する」
片方の男が、低く言った。
もう一人が、すぐに頷く。
早すぎる同意。
男は先生に向き直った。
「早乙女先生。申し訳ありません。こちらの確認手順に不備がありました」
先生は瞬きをして、凛を見る。
次に黒い本を見る。
そして、自分の手元を見る。
何が起きたのか分からない顔だった。
でも、喉の奥に“何か”だけが引っかかっている。
男は黒い本を閉じる。
ぱたり、という音。
音は小さいのに、図書室の空気が戻る。
「本件は一旦、保留とします」
男は黒い本を引き出しの中へ戻した。
先生の鍵のある場所へ。
そして凛へ視線を向ける。
温度が落ちる。
「東雲」
苗字で呼んだ。
「これは明確な命令違反だ」
凛は動かない。
目も逸らさない。
「次はない。現場判断で済む話じゃないぞ」
凛の呼吸が、わずかに浅くなる。
それでも、退かない。
男は端末をしまった。
さっきまでの出来事を手で畳むみたいな動作。
「失礼しました」
二人は揃った足音で図書室を出ていく。
扉が閉まる直前。
片方の男が、振り返らずに言った。
「――報告しておけ」
扉が閉まる。
静けさが戻った。
先生が息を吐く。
「……私……」
言葉が続かない。
何かを思い出そうとして、掴めない顔。
凛は先生を見ないまま、短く言った。
「大丈夫です」
声は落ち着いている。
でも、手がほんの少しだけ震えていた。
俺は、凛を見た。
同じ制服。
同じ高校生のはずなのに。
立ってる場所が、明らかに違う。
そして――俺の胸の奥は、まだ熱かった。
怖いのに。
分からないのに。
(……これ、どうなるんだよ)
口に出さない。
でも、心の中でだけは言ってしまう。
図書室の空気は、いつも通りだった。
いつも通り――だったはずなのに。
引き出しの奥から、もう一度だけ。
ぺらり。
ページをめくる音がした。
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