07 代替ルート
翌日の放課後。
俺は昨日と同じように図書室のカウンター前に立っていた。
司書の先生が顔を上げる。
「佐倉くん、今日もお願いできる?」
「はい。昨日と同じ感じですね」
俺がそう言うと、先生は小さく笑った。
「ほんと助かるわ。旧校舎の方、ちょっとずつでも進めば十分だからね」
「了解です」
俺はバッグの紐を握り直して、カウンターを離れた。
旧校舎へ向かう――はずだった。
なのに、足が止まる。
図書室の奥。
書架の並ぶあたりに、妙な違和感があった。
いつもと同じ配置のはずなのに、そこだけ“余白”がある。
正確には、余白があるはずの場所に――“何かがある”。
俺は目を細めた。
(……あれ、昨日あったか?)
書架と書架の間。
壁際の、普段は誰も見ないような隙間。
そこに一冊だけ、本が置かれている。
置かれている、というか――落ちているに近い。
床ではなく、棚の最下段。埃が溜まりやすい場所に、ぽつんと差し込まれている。
背表紙は黒い。
黒いのに、光を吸わない。
むしろ“拒む”黒だ。
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
似ている。
地下施設の、黒いケースに。
(……いや、さすがに偶然だろ)
偶然。
そう思って足を動かそうとして――動けなかった。
目が離せない。
背表紙に、文字がない。
タイトルも、著者名も、分類ラベルもない。
なのに、そこに“ある”のが分かる。
あるべきじゃないのに、ある。
俺は気づいてしまった。
昨日、俺が書いた一行。
『封印記録は、暫定Ownerには直接閲覧できない』
その言葉が、喉の奥で冷たくなる。
――閲覧できない。
なら、どうする?
俺はゆっくりと棚に近づいた。
指先が震えそうなのを誤魔化して、本を抜き取る。
重い。
紙の重さじゃない。情報の重さだ。
革表紙だ。
黒。
俺のノートに、妙に似ている。
背中がぞわっとした。
(……え、なにこれ)
俺は表紙を開いた。
瞬間――視界が、揺れた。
文字がある。
でも読めない。
読めないというより、“読もうとすると滑る”。
視線を合わせた瞬間、意味が頭に入る前に、指先から抜けていく。
地下施設でログが滑り落ちたときと同じ感覚。
俺はページをめくった。
次のページも、その次も。
文字は確かにある。
びっしり書かれている。手書きだ。
なのに、読み取れない。
俺は眉を寄せた。
「……閲覧不可って、こういう意味かよ」
思わず声が漏れた。
その瞬間。
ページの端に、鉛筆で薄く書かれた一行が浮かび上がった。
最初からそこにあったのか、今出てきたのか分からない。
『——直接閲覧は許可されない』
俺の心臓が跳ねた。
(直……接……?)
俺は息を止めた。
直接、がダメなら。
じゃあ、それ以外は?
音読とか。
翻訳とか。
別の媒体とか。
……第三者。
その考えが浮かんだ瞬間、
胸の奥が、ひやりと冷えた。
(いや、違うだろ)
考えすぎだ。
今は、ただの言葉遊びだ。
俺はそう言い聞かせて、視線を戻しす。
ふと、図書室を見渡した。
静かだ。
平和だ。
誰もこの異常に気づいていない。
俺だけが、ここに立っている。
そのとき。
「佐倉くん?」
背後から声がした。
司書の先生だ。
俺はビクッとして振り返る。
「な、なんですか」
「そろそろ旧校舎の方……って、何それ」
先生の視線が、俺の手元の黒い本に落ちた。
俺は咄嗟に隠しかけて、やめた。
隠す方が怪しい。
「えっと……棚の奥にあったんですけど」
司書の先生が近づいて、少し首を傾けた。
「……こんな本、あったかしら」
先生は当たり前みたいに手を伸ばし、表紙を開く。
俺は息を止めた。
先生の目が、ページの文字を追う。
そして。
先生の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……これ、古い記録ね」
俺の背筋が凍った。
「え」
「文字が……すごく古い癖。しかも、これ……」
先生がページをめくる。
普通にめくっている。
普通に見えている。
俺には滑って読めないのに。
「内容は……うーん、難しいわね。日記みたい。でも……」
先生の声が、少しだけ遅くなった。
眉間にしわが寄る。
目の焦点が、わずかにずれる。
俺は気づいた。
先生も、“全部”は読めていない。
読めているのは――断片。
それでも、俺よりは読めている。
先生は小さく呟いた。
「……編集、という言葉が多いわ」
俺の喉が鳴った。
編集。
先生は続ける。
「それから……『保全』。『整合』。『禁句』……?」
禁句。
俺の指先が冷えた。
司書の先生の表情が、わずかに曇る。
「……嫌な感じがするわね、この本」
俺は乾いた笑いを出した。
「ですよね」
先生が表紙を閉じる。
「分類もないし、管理台帳にも載ってない。……預かるわ。勝手に持ち出しちゃだめよ」
俺は反射で頷いた。
「はい」
先生が本を抱えた瞬間、背表紙がわずかに光った気がした。
気がしただけかもしれない。
でも俺は確信していた。
これは地下施設の代償だ。
俺が“閲覧不可”にしたせいで、世界が別の出口を作った。
閲覧できないなら、閲覧させる場所を変える。
地下じゃなく、地上へ。
施設じゃなく、図書室へ。
俺は唾を飲み込んだ。
(……俺、マジで何してんだ)
怖い。
でも、めちゃくちゃ面白い。
胸の奥が熱くなる。
同時に、冷えた。
俺は先生の背中を見送りながら、ふと思う。
(……じゃあ、地下施設の方はどうなってる?)
閲覧できないようにした。
その代償で、本が出た。
――“出口”が増えたなら、施設は何か変わってるはずだ。
俺はバッグの底を指で叩く。
そこにある、ノート。
俺の“編集媒体”。
心臓が早くなる。
(確認しないと)
理屈じゃない。
ただ、行かなきゃ気が済まない。
俺は司書の先生に向かって、平然を装った。
「先生、俺、先に旧校舎の方やってきますね」
「ええ。気をつけてね」
先生は普通に頷いた。
この異常の中心にいる俺が、普通のまま見えている。
そのことが逆に怖くて、俺は笑って誤魔化した。
「はい」
そして俺は、旧校舎へ向かった。
ハッチは、昨日と同じ場所にあった。
床の継ぎ目。
錆びた取っ手。
なのに、今日は違う。
俺の目に映る輪郭が、やけに“はっきり”している。
(見つけやすい……?)
俺が意識したからか。
それとも、世界が親切になったのか。
どっちにしても、嫌な予感がする。
俺は取っ手を掴む。
冷たい。
引く。
金属が軋む音がして、ハッチが持ち上がる。
下から、同じ匂いが上がってきた。
機械の匂い。
清潔な冷気。
俺は一段目に足をかける。
怖い。
でも、それ以上に――
確かめたい。
俺は階段を降りた。
金属床に足が触れた瞬間、視界の端に文字が滲む。
《Session Authority:TEMP-ADMIN》
《Owner:UNREGISTERED》
《Access:GRANTED》
昨日と同じログ。
違うのは、その下だ。
ほんの一瞬だけ、別の表示が挟まった。
《Notice:ALTERNATE ROUTE DETECTED》
俺は目を見開く。
(代替ルート……?)
頭に浮かぶのは、図書室の黒い本だ。
施設は気づいている。
俺が“出口”を増やしたことに。
扉が静かに滑る。
白い廊下。
ラインライト。
冷たい空気。
管理者は、最初からそこにいた。
金髪。白い衣装。
人間みたいで、人間じゃない。
「ようこそ」
声は滑らかだった。
丁寧で、感情が薄い。
「《編集》を確認しました」
俺は喉を鳴らす。
「……確認って、昨日の一行?」
「肯定。追加解釈:適用済み」
やっぱり。
俺は笑いかけて――止めた。
「じゃあ……封印は?」
管理者は淡々と答える。
「《SEALED》は維持されています」
俺は少し肩の力を抜いた。
「……だよな」
守りで書いたんだ。
解除なんか、してない。
管理者は一拍置いて、続けた。
「ただし、閲覧経路が変化しました」
俺の背中が冷える。
「変化?」
「代替ルートを検知」
俺の頭に、黒い本が浮かぶ。
図書室の棚の奥。タイトルのない本。
「……それって、図書室の――」
俺が言いかけた瞬間、管理者の瞳の奥が光った。
「外部流出:確認」
俺は固まる。
「え、流出って……」
「訂正:補完です」
補完。
その言葉が、嫌に重い。
俺は笑って誤魔化した。
「補完って便利だな……」
「便利:必要」
管理者は淡々と答え、黒いケースの方へ視線を向けた。
《Record:SEALED》
《View:RESTRICTED》
表示は変わっていない。
封印は封印のまま。
なのに、世界の別の場所に“読むための出口”ができている。
俺は背中に汗を感じた。
(俺、守ったはずなのに)
守ったはずなのに、世界が勝手に穴を作った。
管理者が小さく首を傾ける。
「暫定Owner」
俺は反射で答える。
「はい」
「次の提案があります」
俺の心臓が跳ねた。
「提案?」
管理者は淡々と告げる。
「直接閲覧が不可能なら、間接閲覧を許可します」
俺は息を止めた。
間接閲覧。
――第三者。
司書の先生の顔が浮かぶ。
俺の喉が乾いた。
(……やばい。これ、巻き込むやつだ)
彼女の整合タグが、焼けるように熱を吐いた。
昨日より強い。
そして、今度は位置がはっきりしている。
図書室。
旧校舎。
地下施設。
同時に、三点でログが跳ねている。
《Edit Log:UPDATED》
《Edit Scope:LIBRARY》
《Edit Scope:OLD-BUILDING》
《Edit Scope:FACILITY》
《Coherence:FORCED》
強制。
補完が走っている。
彼女は息を止めた。
(回収班……間に合って)
彼女の視界に、別のログが差し込まれる。
《WSPO INTERNAL NOTICE》
《Observer:KIRIGAOKA-01》
《Directive:NO CONTACT》
《Directive:SECURE THE OBJECT》
《Directive:WAIT RETRIEVER》
接触禁止。
対象物確保。
回収班待機。
彼女は唇を噛む。
動けない。
動けるのに、動けない。
命令が、世界を守る。
命令が、世界を遅らせる。
彼女は整合タグを握りしめた。
熱い。痛い。
それでも、離せない。
(……また、同じ夜を繰り返すくらいなら)
彼女は目を閉じる。
(……もし、回収班が間に合わなければ)
凛は、そう考えてから、首を振った。
まだだ。
今は、まだ。
けれど――
(その時が来たら)
彼女は、その続きを、言葉にしなかった。
命令が何だろうと。
規則が何だろうと。
あの日みたいに、ただ見ているだけで終わるくらいなら。
彼女は影の中で、静かに呼吸を整えた。
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