57 《矛盾領域:記憶の回廊》⑮
――おかしい。
悠斗は、まずそれだけを思った。
派手な異変じゃない。
理解不能な現象でもない。
ただ、目の前の光景が、決定的に“噛み合っていない”。
凛が、止まっている。
さっきまで、あれだけ正確に動いていた。
迷いも、焦りも、全部切り捨てたみたいな顔で、
世界そのものに刃を突き立てていたはずなのに。
今は。
膝をつき、視線が落ち、武器を手放している。
ありえない。
倒されたわけじゃない。
追い詰められたわけでもない。
――“止められている”。
悠斗は、歯の奥に、じわりとした違和感を覚える。
それは恐怖じゃない。
焦りでもない。
至極シンプルな、不快感。
凛の前に立っている“それ”は、
敵意を向けていない。
攻撃もしていない。
戦う素振りすらない。
なのに。
凛だけが、壊れかけている。
「……は?」
思わず、声が漏れた。
誰だ。
あれは誰だ。
知らない。
記憶にない。
見覚えもない。
なのに、凛の反応だけが異様だった。
悠斗の中で、何かが引っかかる。
理屈じゃない。
構造でもない。
もっと単純なところだ。
――それ、ズルくない?
戦ってない。
ルールも守ってない。
勝ち負けの土俵にすら立ってない。
ただ、“そこにいる”だけで、
凛の足を止めている。
凛は、泣いている。
泣き叫んでいるわけじゃない。
感情をぶつけているわけでもない。
ただ、壊れかけの機械みたいに、
静かに、耐えきれなくなっている。
それを見た瞬間。
悠斗の中で、何かが“反転”した。
守らなきゃ、じゃない。
助けなきゃ、でもない。
――ふざけんな。
ただ、それだけだった。
今まで、どんな異変を見ても、
どんな理不尽を前にしても、
悠斗はどこかで「面白い」「興味深い」と思っていた。
観ていた。
距離を取っていた。
でも、これは違う。
これは、物語じゃない。
演出でもない。
明らかに、一線を踏み越えてる。
悠斗は、視線を逸らさない。
目の前の光景を、最後まで見続ける。
凛が崩れる様を、
世界が平然と選び取った“最適解”として、
処理しようとしているのが、はっきり分かる。
……ああ。
なるほど。
ここで初めて、悠斗は理解する。
世界は、凛を“主人公”として扱っていない。
強い存在。
便利な切断装置。
異常処理のための駒。
――その程度だ。
だから、壊していい。
だから、心を折っていい。
だから、“こういう手段”を使う。
悠斗の奥歯が、ぎり、と鳴る。
「……いや」
声は低い。
誰に向けたものでもない。
「それは、ないわ」
凛が戦ってきた意味を、
凛が選び続けてきた判断を、
そんな形で“処理”されるのは、
どう考えても、面白くない。
悠斗の中で、何かが決定的に変わり始めていた。
悠斗は、静かにノートへ視線を落とした。
凛が膝をつき、地面に手をついたまま、視線だけが宙を彷徨っている。
さっきまで、世界そのものを否定する刃を振るっていた人間の姿じゃない。
鎌は落ちたまま、拾おうともしない。
指先が震えているのに、それを止めようとする気配もない。
悠斗は、喉の奥で小さく息を吸った。
まずい。
これは、本当にまずい。
声をかけるべきか。
駆け寄るべきか。
だが、そのどれもが“正解”にならないことだけは、直感でわかる。
世界は、ここを狙っている。
凛の前に立つ“それ”は、何もしない。
攻撃も、威嚇も、支配もない。
ただ、そこにいるだけだ。
それが、致命的だった。
凛の唇が、わずかに動く。
「……おかあ……さん……」
声になっていない。
音として崩れた呼気が、かろうじて言葉の形をなぞっただけだ。
その瞬間、悠斗の視界が白く揺れた。
違う。
それは、見ちゃいけないやつだ。
“それ”は、応えない。
ただ、少しだけ距離を詰める。
凛の視界から逃げ場を消す、最適な位置取り。
優しい。
あまりにも。
凛の肩が、小さく上下する。
呼吸が乱れているのに、涙は静かに流れている。
声を上げることすらできず、ただ、崩れていく。
――何だよ、これ。
悠斗の中で、はっきりと線が引かれる。
敵を倒す場面じゃない。
試練でもない。
覚悟を問う局面でもない。
“折るための工程”だ。
凛が積み上げてきた判断。
守るという選択。
誰も欠けさせないというやり方。
それらを、「無意味だったかもしれない」という形で突きつける。しかも、最も否定できない顔で。
悠斗の指先が、無意識に強く握られる。
ふざけるな。
凛はこの空間で、確かに役割を果たしていた。
主人公として、俺たちを守ろうと立ち続けていた。
それなのに。
凛の背中が、わずかに丸くなる。
肩が落ち、視線が下がる。
世界を睨んでいた目が、床を見ている。
「…俺の主人公に、何してくれてんだよ」
世界は、凛を殺す気はない。
凛を“無力化”する気だ。
戦えなくする。
立てなくする。
正しさを、選べなくする。
悠斗の中で、静かに、しかし確実に何かが切れ始める。
世界がそう処理するなら、それが最適解なのだと、理解できてしまう。
――できてしまう、ということが、
もう、限界だった。
凛は、助けを求めていない。
救われようともしていない。
正しさの中に戻ることを、拒んでいるわけでもない。
その姿を物語の外側から見続けることが、悠斗には耐えられなかった。ここで何もしなければ、自分は、最後まで「見ていただけ」になる。
こんな展開は、もはやシナリオとは呼べない。
もはやネタバレどころの騒ぎではない。
気に食わない。
凛が崩れる様を、
世界の都合で消費されるのが、
どうしようもなく、気に食わない。
悠斗は、ノートを見下ろす。
まだ、書いていない。
だが、もう“書かない理由”が存在していない。
凛の前で、世界は、やってはいけないことをやった。
俺の楽しみを台無しにした。
それなら、もう。
こんな世界は、なくなってしまえばいい。




