表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/58

57 《矛盾領域:記憶の回廊》⑮





 ――おかしい。


 悠斗は、まずそれだけを思った。


 派手な異変じゃない。

 理解不能な現象でもない。

 ただ、目の前の光景が、決定的に“噛み合っていない”。


 凛が、止まっている。


 さっきまで、あれだけ正確に動いていた。

 迷いも、焦りも、全部切り捨てたみたいな顔で、

 世界そのものに刃を突き立てていたはずなのに。


 今は。


 膝をつき、視線が落ち、武器を手放している。


 ありえない。


 倒されたわけじゃない。

 追い詰められたわけでもない。


 ――“止められている”。


 悠斗は、歯の奥に、じわりとした違和感を覚える。

 それは恐怖じゃない。

 焦りでもない。


 至極シンプルな、不快感。


 凛の前に立っている“それ”は、

 敵意を向けていない。

 攻撃もしていない。

 戦う素振りすらない。


 なのに。


 凛だけが、壊れかけている。


「……は?」


 思わず、声が漏れた。


 誰だ。

 あれは誰だ。


 知らない。

 記憶にない。

 見覚えもない。


 なのに、凛の反応だけが異様だった。


 悠斗の中で、何かが引っかかる。

 理屈じゃない。

 構造でもない。


 もっと単純なところだ。


 ――それ、ズルくない?


 戦ってない。

 ルールも守ってない。

 勝ち負けの土俵にすら立ってない。


 ただ、“そこにいる”だけで、

 凛の足を止めている。


 凛は、泣いている。


 泣き叫んでいるわけじゃない。

 感情をぶつけているわけでもない。


 ただ、壊れかけの機械みたいに、

 静かに、耐えきれなくなっている。


 それを見た瞬間。


 悠斗の中で、何かが“反転”した。


 守らなきゃ、じゃない。

 助けなきゃ、でもない。


 ――ふざけんな。


 ただ、それだけだった。


 今まで、どんな異変を見ても、

 どんな理不尽を前にしても、

 悠斗はどこかで「面白い」「興味深い」と思っていた。


 観ていた。

 距離を取っていた。


 でも、これは違う。


 これは、物語じゃない。

 演出でもない。


 明らかに、一線を踏み越えてる。


 悠斗は、視線を逸らさない。

 目の前の光景を、最後まで見続ける。


 凛が崩れる様を、

 世界が平然と選び取った“最適解”として、

 処理しようとしているのが、はっきり分かる。


 ……ああ。


 なるほど。


 ここで初めて、悠斗は理解する。


 世界は、凛を“主人公”として扱っていない。


 強い存在。

 便利な切断装置。

 異常処理のための駒。


 ――その程度だ。


 だから、壊していい。

 だから、心を折っていい。


 だから、“こういう手段”を使う。


 悠斗の奥歯が、ぎり、と鳴る。


「……いや」


 声は低い。

 誰に向けたものでもない。


「それは、ないわ」


 凛が戦ってきた意味を、

 凛が選び続けてきた判断を、

 そんな形で“処理”されるのは、


 どう考えても、面白くない。


 悠斗の中で、何かが決定的に変わり始めていた。

 悠斗は、静かにノートへ視線を落とした。





 凛が膝をつき、地面に手をついたまま、視線だけが宙を彷徨っている。


 さっきまで、世界そのものを否定する刃を振るっていた人間の姿じゃない。

 鎌は落ちたまま、拾おうともしない。

 指先が震えているのに、それを止めようとする気配もない。


 悠斗は、喉の奥で小さく息を吸った。


 まずい。

 これは、本当にまずい。


 声をかけるべきか。

 駆け寄るべきか。

 だが、そのどれもが“正解”にならないことだけは、直感でわかる。


 世界は、ここを狙っている。


 凛の前に立つ“それ”は、何もしない。

 攻撃も、威嚇も、支配もない。

 ただ、そこにいるだけだ。


 それが、致命的だった。


 凛の唇が、わずかに動く。


「……おかあ……さん……」


 声になっていない。

 音として崩れた呼気が、かろうじて言葉の形をなぞっただけだ。


 その瞬間、悠斗の視界が白く揺れた。


 違う。

 それは、見ちゃいけないやつだ。


 “それ”は、応えない。

 ただ、少しだけ距離を詰める。

 凛の視界から逃げ場を消す、最適な位置取り。


 優しい。

 あまりにも。


 凛の肩が、小さく上下する。

 呼吸が乱れているのに、涙は静かに流れている。

 声を上げることすらできず、ただ、崩れていく。


 ――何だよ、これ。


 悠斗の中で、はっきりと線が引かれる。


 敵を倒す場面じゃない。

 試練でもない。

 覚悟を問う局面でもない。


 “折るための工程”だ。


 凛が積み上げてきた判断。

 守るという選択。

 誰も欠けさせないというやり方。


 それらを、「無意味だったかもしれない」という形で突きつける。しかも、最も否定できない顔で。


 悠斗の指先が、無意識に強く握られる。


 ふざけるな。


 凛はこの空間で、確かに役割を果たしていた。

 主人公として、俺たちを守ろうと立ち続けていた。

 それなのに。


 凛の背中が、わずかに丸くなる。

 肩が落ち、視線が下がる。

 世界を睨んでいた目が、床を見ている。


 「…俺の主人公に、何してくれてんだよ」


 世界は、凛を殺す気はない。

 凛を“無力化”する気だ。


 戦えなくする。

 立てなくする。

 正しさを、選べなくする。


 悠斗の中で、静かに、しかし確実に何かが切れ始める。

 世界がそう処理するなら、それが最適解なのだと、理解できてしまう。


 ――できてしまう、ということが、

 もう、限界だった。


 凛は、助けを求めていない。

 救われようともしていない。

 正しさの中に戻ることを、拒んでいるわけでもない。


 その姿を物語の外側から見続けることが、悠斗には耐えられなかった。ここで何もしなければ、自分は、最後まで「見ていただけ」になる。


 こんな展開は、もはやシナリオとは呼べない。

 もはやネタバレどころの騒ぎではない。



 気に食わない。



 凛が崩れる様を、

 世界の都合で消費されるのが、

 どうしようもなく、気に食わない。


 悠斗は、ノートを見下ろす。


 まだ、書いていない。

 だが、もう“書かない理由”が存在していない。


 凛の前で、世界は、やってはいけないことをやった。

 俺の楽しみを台無しにした。


 それなら、もう。

 こんな世界は、なくなってしまえばいい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ