56 《矛盾領域:記憶の回廊》⑭
懐かしい声がした。
世界が、突如として静寂に包まれる。
あれほどまでに世界を押し潰していた圧が、嘘のように引いている。
風はない。瓦礫も落ちない。
凛の荒い呼吸だけが、場違いな音として残っていた。
人型は、沈黙している。当然のようにその場に立っている。
だが、おかしい。先程までの攻勢がまるで嘘だったかのように動かない。ただ、凛を一点に見つめているようだった。
違和感。世界が次の手を選ぶ前の、不自然な“間”。
凛は鎌を振りかぶったまま、動けずにいた。
浮遊する刃も消えていない。
それでも、踏み込めない。
嫌な予感が、背中から這い上がってくる。
「凛」
その声は、あまりにも自然だった。
凛は、その声にゆっくりと振り返る。
崩れた建物の影から、人影が現れる。
母だった。
エプロン姿で、少し困ったように笑っている。
買い物袋を持ったままの、いつもの姿。
夕方の台所から、そのまま歩いてきたみたいに。
「こんなところにいたら、危ないでしょ」
叱るでもなく、焦るでもなく。
ただ、日常の延長として。
凛の喉が、ひくりと鳴る。
あり得ない。あり得てはいけない。
凛の大切なものは、あの日に全て、一度失ったのだから。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
「……おかあ……さん」
名前を呼んだ瞬間、
胸の奥が強く締めつけられた。
母は、ほっとしたように息をつく。
「見つかってよかった。もう、心配したのよ?」
心配。
その言葉が、刃みたいに刺さる。
凛は、一歩、後ずさる。
足元がおぼつかない。理解が追いつかない。
頭はこの現実をちゃんと拒んでいるのに、心がさらにそれを否定する。
「来ちゃ……だめ……」
声が、情けないほど弱い。
「どうして?」
母は、首を傾げる。
「凛が帰ってこないから、迎えに来たんじゃない」
その答えが、あまりにも、あの日と同じだった。
凛の視界の端で、
もう一つの影が動く。
「まったく……」
ため息まじりの声。
父だった。
少し猫背で、くたびれた上着。
仕事帰りに、そのまま来たような格好。
「凛、母さんをあまり困らせるなよ」
叱る声なのに、どこか優しい。
凛が一番よく知っている声。
もう、耐えられなかった。
凛の膝が、重心を支えきれずにがくりと落ちた。
地面に、片膝をつく。
力が抜ける。
鎌が、指先から滑り落ち、
乾いた音を立てて地面に転がる。
「……っ」
息が、詰まる。
視界が揺れる。
焦点が合わない。
母が、慌てたように近づく。
「ほら、凛。そろそろ帰りましょう?」
その距離が、耐えられない。
凛は、顔を覆う。
指の隙間から、涙が溢れ出た。
止められない。
止まらない。
「……ちが……」
言葉が、崩れる。
「……ちがう……」
父が、しゃがみ込む。
「何が違うんだ」
優しい声。
問い詰める気配は、欠片もない。
「子供は帰る時間だぞ、凛」
その言葉で、
凛の中の何かが、決定的に折れた。
ここにいる。
いてはいけないのに。
いるはずがないのに。
完璧だ。
すべてが。
匂いも、間も、言い回しも。
あの日の記憶の中のまま。
自分の目の前で消え去った、最初からなかったことにされた、優しい思い出の姿。
「……わたし……」
声が、震える。
「わたし…ごめんなさい……」
ずっと蓋をしていた記憶が、洪水のように思い出される。
優しい母の表情、少し厳しい父の声、そして、あまりにも無力で、見ていることしかできなかった自分自身。
「あの時、わたしが…」
母が、そっと凛の背中に手を置く。
「いいえ、凛」
その温もりが、現実すぎて。
「凛は、頑張ったわ」
父も、静かに頷く。
「十分だ」
一拍。
「もう、戦わなくていい」
その瞬間。
凛の戦意が、
音もなく崩れ落ちた。
剣を振るう理由。
立ち続ける理由。
守るという選択。
全部、否定されたわけじゃない。
“終わったこと”にされた。
凛の視線が、虚ろに彷徨う。
浮遊していた刃が、力を失い、
一つ、また一つと消えていく。
膝をついたまま、
凛は立ち上がれない。
涙が、止まらない。
声も、呼吸も、ぐちゃぐちゃだ。
頭ではわかっている。こんなことはあり得ない。これは、あの日起こり得なかった未来だ。
それがわかっていてなお、抗えない。縋ってしまいたい、甘えてしまいたい。
――ここにいたら。
――ここに、甘えたら。
凛は、本当に折れる。
それが、分かってしまった。
凛は、震える声で言う。
「……ごめん……」
誰に向けた言葉か、
自分でも分からない。
母は、少し驚いた顔をして、
それから、安心したように微笑んだ。
「どうしたの凛?今日は何だか泣き虫さんね」
その無邪気さが、最後の一線だった。
凛は、ゆっくりと顔を上げる。
涙に濡れた視界の向こうで、
二人は“家族の顔”をして立っている。
その光景を見て、凛ははっきり理解した。
世界が、最も優しい形を選んだ結果だ。
でも、これはあまりにも。
あまりにも、悪趣味すぎる。
これは救済ではない。冒涜だ。
凛の「守る理由」を根こそぎ奪うためだけに存在している。
凛の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ始める。
恐怖も安堵も怒りも侮蔑も、何もかもがぐちゃぐちゃになる。
ただ、これは許してはいけないと思った。
ただ、この光景を受け入れてしまおうとする自分に、ひどく腹が立った。
あの日と同じ声音で、あの日と同じ表情で、両親は優しく凛を待っている。
それが、何よりも許せなかった。
「私の一番大切な記憶を…お前は、どこまで弄ぶ」
凛の心が、急激に冷える。
黒い人型は、今なおそこに立っている。
まるで凛の反応を引き出し、観察しているようだった。
「…お前は、ここに存在してはいけない。存在するべきではない」
凛の動きを止めるためだけに、最もやってはいけないことをした。この光景の全てが、凛の心を逆撫でする。
許さない。許してはいけない。
あの日の記憶は、自分だけのものだ。
こんな奴に冒涜されるべきものではない。
なのに、心の奥で、この光景に溺れてしまいたいと思う自分がいる。凛は、立ち上がれずにいた。鎌を掴めずにいた。




