50 《矛盾領域:記憶の回廊》⑧
黒い獣は、動かない。
倒れたわけではない。
崩れてもいない。
ただ、沈黙していた。
ただ、巨体の表面を覆う黒い文字が、ゆっくりと組み替えられていく。欠けた部分を埋め、削られた意味を補填し、形を保つためだけに再配置される。
――備えている。
その事実を理解した瞬間、凛の奥歯が強く噛み締められた。
(……こんな所で)
ここまで来た。
積み上げて、削って、追い詰めて。
やっと“届く”ところまで来たはずだった。
それなのに。
(……何で、ここまで来て邪魔をする……!)
胸の奥に、熱が走る。
焦りじゃない。恐怖でもない。
はっきりとした、悔しさ。
凛は鎌を下ろさない。
震えもない。
けれど、握る指にだけ、力がこもる。
守ってきた。
正しい判断で、正しい手順で。
誰も欠けさせず、ここまで来た。
――その「正しさ」を、また踏み潰すつもりか。
空気が、沈む。
音が消え、景色が一段近づく。
奥行きが歪み、戦場そのものが重くなる。
黒い獣の背後。
当たり前のように空中に浮かぶ、人型の影。
凛の喉が、わずかに鳴った。
(……もう、来ないで)
願いにも似た感情が、一瞬だけ浮かぶ。
だが、次の瞬間には切り捨てた。
感情に縋る暇はない。
ここは、どうやったって戦場だ。
背後の存在が、おもむろに空間へ手を伸ばす。
壁が生まれる。
凛のものではない。
意思のない構造。
だが、配置はあまりにも正確だった。
退路。
立ち位置。
守るべき線。
すべてを、同時に潰しに来ている。
「……っ!」
凛は鎌を振るい、獣の前脚を削りながら横へ跳ぶ。
だが、着地点はすでに塞がれていた。
(……ふざけるな)
凛の胸に、悔しさが焼き付く。
(ここまで来たのに……)
(まだ、足りないって言うの……!?)
それでも、足は止まらない。
視線は逸れない。
凛は鎖を伸ばし、空中に残る粒子へ接続する。
即席の足場を作り、強引に高度を取る。
地面が潰れる。
遅れて、空間そのものが圧縮される。
凛は空中で体勢を立て直し、空中に佇む存在を睨む。
あの時理不尽に選択を迫った、空虚の席。
保つことだけを是とした、黒の王。
それが再び、大きな壁として目の前に立ちはだかっている。
(……邪魔をするなら)
理解と同時に、怒りが静かに沈殿する。
――ただ、何度でも切断するだけ。
鎌を構え直す。
悔しさは、まだ消えない。
だがそれは、
凛の動きを鈍らせるものではなかった。
王は、頭上で沈黙を保っている。
凛は間合いを測ることすら面倒だと言わんばかりに、一直線に空中へ身を投げ出す。
身体を支える鎖が軋む。鎖に繋がれた壁が勢いに負け揺らぐ。
それすら意に解さぬまま、凛は最速で王に接近する。
――ただ、斬る。
新たな壁を出し、面を蹴る。
鎌が正確に軌道を描く。
ためらいのない初動だった。
最短距離で、最速の一閃。
凛の鎌が、いとも容易く王の胴を断ち切った。
確かな手応え。
刃は通り、黒い構造が裂け、王の輪郭が一瞬だけ崩れる。
だが。
王は、倒れなかった。
崩れたはずの断面が、そのまま“そこにある”。
繋がっているわけじゃない。
再生しているわけでもない。
ただ、斬られた状態のまま王という形が成立し続けている。
凛の奮闘を嘲笑うかのように、存在し続けている。
「……なん、で」
凛は即座に距離を取った。
鎖を伸ばし、壁に接続し、立体軌道へ移る。
だが背後から感じる圧が、消えない。
振り返る。
王は、変わらず頭上から凛を見下ろしている。
斬られた痕を抱えたまま。
崩れた構造を内包したまま。
まるで“そういう状態のまま存在する”ことが、
最初から決まっていたかのように。
(……違う。何かが、決定的に)
凛の胸に、冷たい感覚が落ちる。
獣を相手取っていた時には、感じなかった感覚。
凛の踏み出す足が、振り下ろす腕が、その一挙手一投足が、一つ一つ丁寧に潰されていく感覚。
これは、斬れないわけじゃない。
でも、斬ったところで終わらない。
凛は、はっきりと理解し始めていた。
目の前にいるのは、「倒されるための敵」じゃない。
斬撃を受け、破壊され、それでも成立し続ける――
“あの時の世界”そのものだ。
逃げ場がなく、手応えもなく、
何をしても変わらなかった感覚。
自分が何もできなかったと、
心の奥で確信してしまった、あの瞬間。
王は、その“完成した無力”を纏って立っているようだった。
あの時の恐怖を、苦しみを、もう一度味わせるために。
凛は、歯を食いしばった。
(……こんな、こんな理不尽に、どうやって…)
悔しさが、胸を締め付ける。
ここまで辿り着いた。
積み重ねてきた。間違っていなかった。
恐怖を押し殺し、どうにか戦えていた。
それなのに。
これは、“届かないかもしれない”という、
自らの拒絶に近い感情だった。
王は、相変わらず動かない。
だが、空間の配置だけは静かに凛を追い詰めていく。
立ち位置が削られる。
踏み込める距離が消える。
選択肢が、最初から用意されていない。
凛は、初めて理解した。
――これはもはや、戦いですらない。
“あの時の無力さ”を、もう一度なぞらされている。
手が震える。
もうその根元にあるのが恐怖なのか、怒りなのかも、判別がつかなくなっている。
それでも、凛は、鎌を下げなかった。
斬っても終わらないなら。
壊しても意味がないなら。
(……それなら、何を斬ればいい)
倒れない。まだ、倒れてやらない。
今ここで抗うのをやめたら、今までの全てを自ら否定することになる。
胸の奥の火は、まだ静かに燃えている。




