46 《矛盾領域:記憶の回廊》④
清水寺の境内と、その奥に重なった都市の輪郭は、もう「異常」という言葉では片づけられない段階に入っていた。
悲鳴は途切れない。
誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが意味のない指示を飛ばしている。
教師の声も聞こえるが、統率というにはあまりに遅く、あまりに弱い。明らかに、崩れ始めている。
――にもかかわらず。
俺は、この空間を楽しんでいた。
逃げようとも、誰かを助けようとも思っていない。
足がすくんでいるわけでもない。
ただ、少し離れた位置から、この光景を見ている。
自分でもはっきり分かる。
今の俺は、この場の当事者じゃない。
怖い、はずだ。
あんなものが現れて、平気でいられる理由なんてない。
なのに、身体の奥が妙に静かだった。
それどころか、この光景を前に胸が高まっている。
視線の先で、東雲凛が動く。
黒い文字の人型が、確かに「敵」として存在している。
それを、凛は一体ずつ、正確に処理していく。
近づく前に。
触れられる前に。
配置される前に。
刃が走る。
黒が崩れる。
意味を失った文字列が、空間に散って、消えていく。
――早い。
単純な速度じゃない。
判断が、異様に早い。
距離を測る。
数を読む。
次に来る動きを切り捨てる。
一連の流れに、無駄が一切ない。
「……いや」
思わず、本心から突っ込んでいた。
「人間の動きじゃなくね?」
必死さは見て取れる。
でも、焦りも迷いも、躊躇もない。
あるのは、“処理”だ。
戦っているというより、正しい順番で片づけているような。
そうとしか見えなかった。
周囲では、生徒たちが混乱し続けている。
泣き叫ぶ声。
腰を抜かして動けないやつ。
スマホを握ったまま固まっているやつ。
それらすべてを視界の端に押しやりながら、凛は動く。
俺は、それを見ている。
客席だ。
完全に。
「はは、いやいや……」
自分でも呆れるくらい、軽い感想が浮かんだ。
「アイツ、主人公すぎだろ。その設定は流石にチートだって」
凛の動きには、演出がある。
狙っているわけじゃないのはわかっている。
でも自然にそう見えてしまう。
無駄なカットが一切ない。
次の一手が、もう決まっている。
その完成度が、俺のテンションを上げ続けている。
俺は、ふとノートの存在を意識した。
バッグの中。
手を伸ばせば、すぐ触れる距離。
さすがに、もうこのノートが普通のノートじゃないってなんとなくわかっている。
書こうと思えば、この状況を止める一文だって用意できる気がする。
でも。
「……それは、今じゃないな」
はっきり、そう思った。
助けるべきなのは分かっている。
多分、正しい選択ではないだろう。
それでも。
「今、ここで書いたらさ」
凛の戦闘を、もう一度見る。
完璧な距離感。
正確すぎる判断。
世界を相手にしているみたいな立ち回り。
「この展開、ネタバレじゃん」
口に出さなかったが、内心では笑っていた。
俺は今、俺じゃない誰かがつくったこの展開を、純粋に楽しんでいる。それに口を挟むのは、設定書きとして失格だ。
「はは、東雲、お前まじですげえわ」
こんな光景、滅多に見られるもんじゃない。
どんな漫画や映画より、俺の心を震わせていた。
東雲が俺たちの周りを囲んでいた最後の人型を切り伏せる。
途端に、あたりに静寂が訪れる。
だが、この場の緊張はまだ解れていない。
嫌な予感、というより、もはや“お約束”に近い感覚。
その時、低く、歪んだ声が静かに響いた。
「――矛盾は、保存される」
どこか、聞き覚えのある言葉が聞こえた。
毎度お馴染みのこのパターン。
「やっぱそう来るよね。ボス戦」
目の前に佇む大きな黒い影を見てもなお、悠斗の口角は上がったままだった。
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