45 《矛盾領域:記憶の回廊》③
黒い文字の人型が、明確に動き始めた。
壁に阻まれることを理解したうえで、
生徒たちの間合いを物量で詰めにきているようだった。
「……っ」
誰かの腕が掴まれる。
別の場所で、男子生徒が押し倒される。
悲鳴が上がり、
連鎖的に人の流れが崩れ、
将棋倒しになりかけた瞬間――
凛は、即座に踏み込んだ。
考えるよりも先に、
視線が“空白”を捉える。
人と人の間。
記録体が入り込む直前の距離。
守るべき位置。
そこに。
黒い壁が、立ち上がった。
黒い文字の粒子が、空中で絡まり合い、
ただ「拒絶する」ための面として固定される。
厚みはない。
堅牢でもない。
だがそれは確かに、
“通れない”という性質だけを成立させていた。
「うわ、何だこれ……!」
誰かが叫ぶ。
だが凛は、振り返らない。
次だ。
凛の右手が振れる。
一閃。
切断。
最前列の記録体が鎌の軌跡に触れた瞬間、
文字が崩れ、霧散する。
――間に合う。
そう判断した直後、
壁が、砕けた。
黒い壁が、圧に耐えきれずに崩れ去る。
凛の生み出す壁は、数秒しか持たない。
だが、それでいい。
凛は左手に意識を集中し、同じ場所に、もう一枚壁を出した。
別の方向にも、さらにもう一つ。
守る。
切る。
また守る。
生徒たちの前に、
凛は無意識に“線”を引いていく。
壁は、完全な防御じゃない。
記録体は、力で押し切ろうとする。
だからこそ――
凛は、それを前提に使う。
壁が割れる瞬間。
その隙間から踏み込む記録体。
そこへ、鎌が入る。
切断。
切断。
切断。
黒い文字が次々に崩れていく。
だが、数は減らない。
いや、正確には――
(……寄ってきてる)
凛は、気づいた。
無差別じゃない。
だが、意思でもない。
記録体は、どうやら“集まりやすい場所”へ流れている。
泣いている生徒。
動けない生徒。
誰かを支えている生徒。
人が、人を支えようとする場所へ。
だが、それでも。
――減っている。
凛は、確信した。
切断した記録体は、確実にその場から消えている。
一体。
二体。
さらに一体。
数を数える余裕はない。
だが、空間内の“密度”が、明らかに変わり始めていた。
最初は、どこを見ても黒かった。
視界の端から端まで、文字の塊が滲んでいた。
それが今は、
切断した方向から、少しずつ“空白”が広がっている。
壁が立つ。
数秒で砕ける。
その瞬間に、鎌が入る。
切断。
崩壊。
消失。
同じ手順を、何度も繰り返す。
雑音のようだった悲鳴が、
少しずつ、間隔を取り始める。
記録体が、押し返されている。
(……これなら、いける)
凛の判断は、冷静だった。
相手は、まるで機械のように同じ行動を繰り返す。
配置は単純。連携も、戦術もない。
ただ数だけが脅威だった。
だが今、その“数”が削れている。
壁は、完全な防御じゃない。
だがそれでも、足を止めるには十分だった。
凛は、自分が持っているものを、
すべて、正しい位置に置いている。
切断した直後、
視界の隅で、文字の粒子が残る。
ほんの数秒。
凛は、その“残り時間”を無視しない。
壁を出す。
残滓が絡み、
面として成立する。
そこへ、別の記録体がぶつかる。
動きが止まる。
切断が入る。
消える。
また一体。
また一体。
凛の呼吸は、荒れていない。
脚も、まだ動く。
状況は確実に、変わり始めている。
*
凛が鎌を振るたび、
黒い文字の塊は確実に崩れ、
数は、目に見えて減っている。
だが。
(……それでも、遅い)
だが、記録体は散っているようで、
空間そのものを使って迫ってくる。
一体を切れば、
別の一体が、別の位置から迫っている。
二体を処理すれば、
三体目が、視線の外から近づく。
「……っ」
凛は、一瞬だけ息を詰めた。
――視界が、足りない。
人型に包囲されたままでは、
視界も、間合いも、制限される。
凛はおもむろに、左手を前に伸ばした。
空間が、軋む。
切断後に残っていた、
黒い文字の粒子――
消えきる前の“残滓”が、
その場に留まる。
次の瞬間。
文字の層が、空中で固まった。
壁。
地面でも、
正面でもない。
空中に、固定されたの“面”が生まれる。
凛は、そこに迷わず踏み込んだ。
足裏に、確かな抵抗が返る。
(……立てる)
次の瞬間、凛のもう左手がさらに振り抜かれる。
その手にあるのは、鎖。
黒い文字の束が、空間を裂くように伸びる。
凛は鎖をさらにその先――
別の位置に生まれかけていた第二の壁へと接続する。
鎖を引き、身体を無理やりに空中に投げる。
視界が、一段上がる。
人型の目を持たぬ顔がこちらを向き、
地上を進んでいた塊が凛の位置を追って、向きを変える。
だが――遅い。
凛はさらに空中の壁を蹴り、
鎖を軸に身体を回転させた。
立体的な軌道。
地上では取れなかった角度。
鎌が、斜め下へ走る。
――切断。
一体、崩壊。
壁が、軋む。
文字の層にひびが入る。
(……長くは持たない)
凛は理解していた。
壁はどうやら、一度出した場所から動かせない。
そして、何度も衝撃を受ければ、脆く崩れる。
だからこそ。
凛は、次の壁を出す。
位置も高さもバラバラに配置された複数の壁。
空中に、凛のためだけの舞台が作り上げられる。
鎖を、再び伸ばす。
二つの壁が鎖で結ばれる。
凛の動線が空間に“線”として引かれる。
さらに、地上にまた新たな壁。
人型を包囲するように配置された壁が、明確に人型の移動を拒絶する。
その一瞬で、凛は鎖を引き身体を投げ出す。
鎌が、閃く。
切断。
切断。
切断。
人型の崩壊を確認するまでもなく、次の方向へ身を投げ出す。
鎖が軋む。
腕に重さが乗る。
また一体。
また一体。
数が、確実に減っていく。
黒が、視界から削れていく。
そして――
最後に残ったのは一体だけだった。
空間の中央、そこに佇む明らかに大きな体躯。
それは静寂の中で、何かを待っているようだった。
そして、最後の人型が、譫言のように呟く。
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