表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/58

43 《矛盾領域:記憶の回廊》①

本章より《矛盾領域:記憶の回廊》編に入ります。





 人を模った黒い文字の塊がじわじわと動く。

 まるで決まった配置につくかのように。

 一瞬の静寂のあと。それは突然に


 ――動いた。


 足元の石畳を、蹴る。

 文字の塊が、意志を持った流れみたいに形を変え、

 人の輪郭をなぞるように、前へ出る。


「……ひっ!」

「ちょっと待って!何でこいつらこっちに…!」


 誰かの声に、別の誰かの息が詰まる。


 ただ、“近づくべき位置”に滑り込むように。

 ただ、それが当たり前とでもいうように。

 黒い人型が、集団を囲うように距離を詰める。


 それだけで、

 空間の逃げ道が、目に見えて削られていく。


「や、やば……」

「逃げろ逃げろ逃げろ!」


 誰かが後ずさり、別の誰かにぶつかる。

 人の流れが歪み、恐怖が連鎖する。


 修学旅行という集団が、

 今度こそ完全に、崩れかけた。


「動くな!」

「おい、押すなって……!」


 教師の声は上がる。

 だが、誰の耳にも届かない。


 逃げ場はない。


 前へ出れば黒い影。

 後ろへ下がれば人の壁。

 他は逃げる余地は、最初からなかった。


 まるで集団そのものが、

 動きを縛る檻になっている。


 その中心で、

 凛は一歩も動かなかった。


 視線だけが、静かに動く。


(……来る)


 敵意は、まだ曖昧だ。

 だが、配置ははっきりしている。


 これは――あの時と同じだ。

 図書室の扉の先に広がっていた、あの異常と同質。


 凛は、深く息を吸った。


 次の瞬間。

 彼女の右手を中心に、空気が歪む。


 何もないはずの場所から、

 “重さ”が生まれる。


 引き抜かれる感触。

 紙を裂く音にも似た、乾いた軋み。


 凛の手に、文字の塊が集まった。


 黒い。

 柄に相当する部分は細く長い。

 その先には大きく歪曲した刃の形をした何か。


 意味を持たないはずの記号が、

 ただ“切断するための形”として束ねられていく。


 それを、

 凛は迷いなく握った。


「……全員、動かないで」


 低く、はっきりとした声。


 恐怖に飲まれかけていた空気が、

 一瞬だけ、張りつめる。


「大丈夫。ここからは、私がやる」


 まっすぐに前を見つめ、宣言する。


 黒い文字の人型が、わずかに揺れる。


 凛は、踏み込む。

 集団を囲む人型の一体へと一気に距離を詰め、

 刃が振るわれた。


 触れた瞬間、

 文字の腕が、途中から“崩れる”。


 切れた、というより、

 最初からそこになかったみたいに。


 一体。

 また一体。


 凛の動きは速く、正確だった。

 余計な力も、無駄な軌道もない。


 黒い文字の人型は、

 確実に数を減らしていく。


「……消えた……?」

「東雲さん…何して…」


 誰かが、息を呑む。

 困惑と安堵を孕んだ声が、あちこちに波及する。


 だが、

 凛の視線は、すでに次を追っていた。


 ――おかしい。


 凛は、刃を振るいながら、わずかな違和感を拾った。


 倒したはずの位置とは別の方向で、

 黒い影が、集まり始めている。


 最初は、ただ自分から距離をとっているのだと思っていた。

 だが、それだけでは説明がつかない違和感。


 全体に散っていたはずの黒い人型が、

 ゆっくりと、しかし確実に、

 同じ方向へ流れている。


 走るわけでもなく、

 明確な意思を示すわけでもない。


 ただ、“引き寄せられる”みたいに。


(……これは)


 敵意じゃない。

 攻撃対象を選んでいる感じとも違う。


 まるで、

 空間そのものに、

 重心が生まれたみたいな動き。


 凛は、視線を走らせる。


 人の密度。

 足の止まり方。

 恐怖の波の広がり。


 複数の要素が、

 一点へと、静かに収束していく。


(……何だ、何に向かっている…?)


 拭いきれない違和感。増え続ける人型。

 胸の奥が、ひやりと冷えた。


 距離がある。

 人数が多い。

 動けない生徒が、確実に増えている。


 切断は、正しく通っている。

 手順も、判断も、間違っていない。


 それでも――


 “守りきれない可能性”が、

 初めて、現実味を帯びて立ち上がる。


 凛は己の迷いを振り払うように、刃を強く握り直した。


 まだ、戦えている。

 まだ、断てる。


 だが、この戦場が、

 これまでと同じじゃないことだけは、

 はっきりと分かり始めていた。






 凛が一体、また一体と人型を切り伏せる。

 その背後で、

 悲鳴が唐突に、明確に“質”を変えた。


 黒い文字の人型が、

 目と鼻の先まで迫った瞬間、

 集団は完全に制御を失い始めた。


「やだ! 来ないで!」

「離せって、ちょっ……!」


 伸びた腕に、女子生徒の腕が掴まれる。

 引き剥がそうとした別の生徒が体勢を崩し、

 後ろから押されて、男子生徒が石畳に倒れ込む。


 誰かを助けようとした動きが、

 別の誰かを押し倒し、

 その連鎖が、恐怖だけを増幅させていく。


 ――逃げ場がない。


 空間自体は広い。だが、人の密度が高すぎる。

 人型が集団を包囲し、混乱と恐怖が枷となる。

 動けばぶつかり、止まれば囲まれる。


 凛の思考に、一瞬だけ“最悪の未来”が浮かぶ。


 刃を振るう。

 記録体を切断する。

 だが、その軌道の先に――

 人がいる。


 間に合わない。

 巻き込むかもしれない。

 誰かが、傷つく。

 自分が、傷つける。


 その可能性が、

 はっきりとした像を結ぶ。


「……っ」


 凛は、歯を食いしばる。


 その時。

 視界の端に、見慣れた姿がまとめて飛び込んでくる。


 ルカが、前に出ていた。

 恐怖に足がすくんだ生徒たちの前に立ち、

 無意識に、盾になる位置を取っている。


 その横で、

 由布が必死に声を張り上げ、

 周囲のクラスメイトを落ち着かせようとしている。


「大丈夫、落ち着いて! 今は動かないで!」


 澪はその後ろ。

 どうにか冷静さを保ち、周囲を見渡し、

 状況を把握しようとしていた。


 そして沙耶香。

 泣き叫びかけているクラスメイトに肩を貸し、

 震える背中を抱えるようにして、必死に宥めている。


「平気、大丈夫だから……ね、深呼吸しよ」


 その声は震えている。

 それでも、離れない。


 凛の視線がそこに向かう。

 

 その瞬間。


 黒い文字の人型が、

 明確に向きを変えた。


 意思があるようには見えない。

 狙っている、とも言い切れない。


 ただ――


 人が集まり、感情が渦巻き、

 恐怖と混乱と統制が、最も濃い場所へ。


 記録体たちが、引き寄せられている“ように”見えた。


(……まさか)


 凛は、歯を食いしばった。


 ――間に合わない。


 その感覚が、

 初めて、はっきりと形を持った。


 切れる。届く。

 判断も、速度も、間違っていない。


 それでも。


 一瞬、意識を外しただけで、

 別の場所が崩れる。


 一人を助けたその直後に、

 別の誰かが悲鳴を上げる。


 守るべきものが、同時に存在しすぎている。


 視界の端に、

 見慣れた顔が、次々に映る。


 前に立つ背中。

 必死に声をかける姿。

 震えながらも周囲を見る横顔。

 誰かの肩を支える腕。


 守りたい人たちが、

 同じ場所にいる。


 同じ時間に。

 同じ恐怖の中に。


(全部を、守るなんて…)


 頭が、そう結論づける。


 それは逃げでも諦めでもなく、

 ただの事実だった。


 刃を振るえば、

 誰かが巻き込まれる。


 距離を詰めれば、

 別の誰かが置き去りになる。


 選択するたびに、

 失う可能性が増えていく。


 凛の呼吸が、

 わずかに、浅くなる。


 焦り。

 不安。


 それは、

 自分が傷つくことへの恐怖じゃない。


 ――この手から、

 また大切なものをが、零れ落ちるかもしれない。


 その未来が、

 具体的な重さを持って、

 胸を締め付けてくる。


(……そんなの嫌)


 声にならない拒絶が、

 喉の奥に溜まる。


(……これ以上、何かを失うなんて)


 願いは、単純だった。

 正しさも、勝ちも、いらない。


 ただ、

 この場にいる全員を、

 今ここで、

 無事なまま留めておきたい。


 だが、現実は、

 その願いを許さない形で動いている。


 黒い影が、さらに密度を増す。

 流れが意図を持ったかのように、一点へと傾き始める。


 凛は、

 その流れを目で追いながら、

 はっきりと理解してしまった。


 ――切るだけじゃ、足りない。


 凛は、動きながら考え続ける。


 速く。

 必死に。


 切断は、正しい。

 判断も、手順も、間違っていない。


 それでも。


(手段が、足りない…!)


 視界の端で、

 誰かが転び、

 誰かが悲鳴を上げる。


 間に合わない。

 届かない。


 全員を守るには、

 刃だけでは足りない。


(どうする)

(どうやって――)


 凛の思考は、

 「勝つ」でも

 「終わらせる」でもなく、

 ひたすら一点へと絞られていく。


(守らなきゃ、私が…!)


 その瞬間だった。


 たった今切断された記録体の“痕”が、

 ふと、目に入った。


 黒い文字が崩れ、意味を失い、

 粒子のように解けていく、その途中。


 今までなら、見えていなかったはずのもの。

 見ようともしなかったもの。


 消えるまでの、ほんのわずかな時間。

 空間に、黒い微粒子が静かに留まっている。


 (…何、これ)


 疑問は、言葉になる前に消えた。

 考えるより先に、身体が反応する。


 凛の左手が、

 無意識に、その方向へ伸びた。


 触れるつもりでも、

 掴むつもりでもなかった。

 ただ、そこに“ある”ものへ。


 次の瞬間。


 消えるはずだった黒い残滓が、

 その場に留まり始めた。


 風にも流されず、

 重力にも従わず、

 凛の手の動きに合わせるように、

 ゆっくりと集まっていく。


 視線の先には、

 今まさに、守らなければならない人。


(今は――)


(今だけは、あの人たちをどうか…!)


 その思考に呼応するように、

 左手にわずかな感触が伝わる。


 まだ何の形にもなっていない黒い塊。

 それが逆に、唯一の希望にすら見えた。


 黒い人型は、ルカたちのすぐ前まで迫っている。

 これ以上考えている時間はない。

 

(…何でもいい。あの人型を遮る何かさえあれば…!)


 その時だった。

 残滓が重なり、手のひらの黒い塊が密度を増していく。

 凛の“遮る”という思考が、明確な意味を与え始める。


 凛の左手をおもむろに離れたそれが。

 視界の先にいる大切な人たちの前に。




 ――黒い「壁」として、立ち塞がった。

 

ここまで読んでくださってありがとうございます!

この章は、凛にとっても、世界にとっても「戻れない地点」です。

物語の温度と構図が大きく変わっていくので、よければブックマークして、続きを見届けてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ