42 修学旅行⑦
清水寺へ向かう最後の坂は、思っていたよりも長かった。
石畳は整備されているはずなのに、足を置くたびにわずかな凹凸が残り、登るにつれて太ももにじわじわと重さが溜まっていく。前を歩く生徒の背中が、少しずつ近づいたり離れたりするのも、疲労のせいだろう。
「はぁ……まだあんの、これ」
澪がぼそっと零すと、前を歩いていたルカが振り返った。
「えー、もうちょいじゃない? ほら、上、見えてきたし」
「それ、さっきも聞いた」
「気のせい気のせい!」
軽口が飛び交う。沙耶香が笑って、由布が無言で水筒を差し出す。どこからどう見ても、修学旅行の一場面だった。
凛も、同じように坂を登っていた。
息は少し上がっている。脚も重い。周囲の音も、匂いも、人の多さも、すべて現実の京都そのものだ。異常はない。何も起きていない。
――なのに。
一歩、踏み出した瞬間。
凛の足が、ほんのわずかに、躊躇った。
止まったわけじゃない。転びそうになったわけでもない。ただ、次にどこへ足を置くかを考える前に、身体のほうが「分かっていた」。
この先、ほんの少しだけ傾斜がきつくなる。
右足から出したほうが楽だ。
次の数歩で、自然と呼吸が乱れる。
そういう“順番”が、頭ではなく、身体の奥から先に出てくる。
凛は、すぐにそれを打ち消した。
気のせいだ。
ただの疲れだ。
観光地の坂なんて、どこも似たようなものだ。
そう思おうとして――思えなかった。
視線を上げる。
坂の先に見えるのは、観光客の背中と、木造の建物と、土産物屋の軒先。見慣れたはずの風景。
それでも、距離感だけが、噛み合わない。
あと何歩で、どこに着くか。
どこで一度息を整えるか。
どこを過ぎたら、自然と足が軽くなるか。
全部、知っている。
凛は、無意識のうちに歩調を落としそうになり、すぐに前の由布に合わせ直した。
「凛、だいじょぶ?」
ルカが横から顔を覗き込んでくる。
「うん。平気」
声は、普通に出た。
自分でも驚くくらい、いつも通りだった。
坂を登る。
また一歩。
また一歩。
そのたびに、身体の感覚だけが、少しずつ確信に近づいていく。
――違う。
これは、清水寺への坂じゃない。
そう断定するより先に、感覚のほうが先に“重なり”を拾った。
まずは、呼吸の乱れ方。
次に、足裏が石畳を捉える位置。
そして、ここで一度だけ歩幅が自然に小さくなる――その癖。
凛は、何かを思い出したわけじゃない。
ただ、身体が勝手に「次」を知っている。
視線を上げても、そこにあるのは観光地の坂だ。
人の背中が連なり、土産物屋の軒先が続き、どこかで誰かが笑っている。
それなのに、距離だけがずれている。
あと何歩で、頂点に触れるか。
どこで一度だけ息が止まり、どこで胸が軽くなるか。
――知っている。
もう少しだけ登れば、
視界が開ける。
その先に“何かの入口”がある。
その確信が、言葉を伴わずに胸の奥へ落ちた。
そして最後に、遅れて記憶が追いつく。
小さな頃の、朝の空気。
同じ時間に同じ坂を登ることが当たり前だった感覚。
背中に重さがあって、手には何かを握っていて――
そこまで来て、凛はようやく「学校」という単語に触れかけた。
ここを登り切ったら、
校門があって、
チャイムが鳴って――
言葉にしたら、決定的になる。
誰かに伝えた瞬間、この感覚が「正しく」なってしまう。
そう理解できてしまうほど、これははっきりしていた。
だから、凛は何も言わない。
表情も変えない。
歩みも止めない。
ただ、坂を登り続ける。
学年全体が、同じ速度で、同じ方向へ進んでいた。
時間も、行動も、視線の先も、すべてが揃っている。
その事実だけが、妙に重く、確かなものとして残っていた。
この先にある、確かな綻びを待つように。
*
坂を登り切った、その瞬間だった。
音が、変わった。
消えたわけじゃない。
ざわめきも、足音も、誰かの笑い声も、確かにそこにある。
ただ――空気だけが、均一になった気がした。
近くも遠くもなく、すべてが同じ厚みで耳に届く。
まるで世界全体が、一段階だけ平らに押し潰されたみたいだった。
「……え?」
誰かが声を上げた。
それは凛の班の誰かじゃない。前のほうを歩いていた別のクラスの生徒だ。
次の瞬間、ざわつきが広がる。
「ちょっと待って」
「なに、ここ……」
「先生?」
人の流れが止まる。
修学旅行という“集団”が、初めて足並みを揃えて立ち止まった。
凛は、自分の違和感の正体を確信した。
――あの時と、同じ。
視界の端で、何かが“書き換わる”。
坂の先にあったはずの清水寺の境内は、そのまま残っている。
朱色の柱も、石畳も、手すりも、何一つ欠けていない。
それなのに。
その奥に、あってはいけないものが、当たり前の顔で重なっていた。
廃れたビル。
コンクリートの外壁。
無機質な窓の列。
十年前のまま、止まった高層建築群。
寺社仏閣の屋根の向こうに、
都市の輪郭が、歪まず、堂々と立っている。
「……は?」
「え、ちょっと待って、あれ何?」
「CG? プロジェクション?」
否定の言葉が、次々に飛ぶ。
誰もが“異常だ”と認識しているのに、
誰一人、夢や錯覚だとは言えなくなっていた。
――全員が、見ている。
時間。
行動。
移動。
修学旅行という工程が、学年全体を一つの流れに固定した。
その結果、この場にいる全員が、同時に“観測者”になっている。
逃げ場はない。
無視もできない。
忘れるには、まだ早すぎる。
「先生!」
「これって、どういう――」
教師の声が上がるより先に、
空気が、もう一段階沈んだ。
地面が揺れたわけじゃない。
光が歪んだわけでもない。
ただ、“黒”が落ちた。
寺の回廊の影から、
文字が、滲み出す。
黒い。
インクを固めたような、輪郭を持たない塊。
恐怖と憎悪を抽出した文字の塊が、揺らぐ。
「……なに、あれ」
誰かが、震えた声で言った。
それを合図にしたみたいに、
抑え込まれていた空気が、一気に弾ける。
「ちょ、待って待って待って」
「無理無理無理、あれ何!?」
「先生! 先生どこ!?」
誰かが後ずさり、誰かにぶつかり、
将棋倒しになりそうな気配が走る。
「嘘でしょ……」
「CGじゃないよね?」
「映画の撮影!? ねえ、そうだよね!?」
否定の言葉ばかりが重なっていく。
誰も、肯定も理解もできない。
泣き出す声。
笑って誤魔化そうとする声。
スマホを取り出して、震える手で構えようとする生徒。
――だが、画面には何も映らない。
「は? なんで……」
「え、ちょっと、撮れない……!」
その瞬間、
黒い“それ”が、明確な形を持った。
文字が、蠢く。
意味を持たないはずの記号が、集まり、絡まり、
人の形を“作ってしまう”。
「……ひっ」
喉が鳴る音。
誰かが転び、
誰かが引きずられ、
誰かが叫ぼうとして、声にならなかった。
「やだ……やだやだやだ……!」
逃げようとしても、足が動かない。
どこへ行けばいいのか、分からない。
世界が壊れたわけじゃない。
ただ、“逃げ場”という選択肢だけが、消えていた。
その中心で。
ただ一人、
凛だけが、動かなかった。
人型の黒い文字。
意味を持たないはずの文字列が、意味だけを主張する存在。
数は、一体じゃない。
三体、四体、五体――
視界に入るだけで、十を超えている。
その中心で。
ひときわ“濃い”黒が、立ち上がった。
体長が異様に大きく、
文字が重なりすぎて、輪郭が歪んでいる。
人の形をしているのに、
どこか“容れ物”として未完成な印象。
それは、凛の方を向き、口らしき部分を震わせた。
「……矛盾は……」
音にならない声。
だが次の瞬間、
はっきりとした言葉が、空間に落ちた。
「――矛盾は、保存される」
ざわめきが、悲鳴に変わる。
凛は、一歩前に出た。
迷いはなかった。
ここは、今までと同じだ。
構造も、手順も、やるべきことも。
学年全員が、矛盾領域の内側にいる。
だからこそ。
「……全員、動かないで」
凛の声は、低く、はっきりとしていた。
「大丈夫。ここからは、私がやる」
それは、祈りでも命令でもない。
“いつも通り”の宣言だった。
*
悲鳴と混乱は、収まらない。
それどころか、恐怖の波はさらに広がっていく。
黒い文字の人型が、確かにそこに“立っている”。
逃げ場のない参道の中で、
それは数を増やしながら、静かに配置されていく。
「おい!やめろ、来るな!」
「近づくなって言ってんだろ!」
誰かが叫び、
誰かが後ろへ引きずられ、
誰かが腰を抜かして、その場に座り込む。
――動けば、ぶつかる。
――止まれば、囲まれる。
集団は、まるでそれ自体が楔のように、生徒たちの動きを縛り付ける。
その中心に、
凛は立っていた。
呼吸は乱れていない。
視線だけが、速く、正確に動いている。
(数は……多い)
敵意は、まだ明確じゃない。
だが、配置は明らかに“戦闘のそれ”だった。
(全員、この空間を認識してる)
(誰も、夢だと思ってない)
本来なら――
今の凛なら、即座に切断に入れる。
最短で、最小の手数で、
この異常を収束させる手順は、もう頭の中にある。
過去二回の異常との対峙が、明らかに凛の適応を加速させていた。
だが。
凛の視界には、
泣いている生徒がいる。
足が震えて動けない生徒がいる。
腰を抜かしたまま、必死に誰かの袖を掴んでいる生徒がいる。
そして、何よりも
ルカがいる。
一度失ってしまった存在。
そして、出会ってしまった存在。
周囲を見回しながら、
それでも、凛のすぐ隣から離れない。
「……凛」
名前を呼ぶ声は、震えていなかった。
ただ大切な人を心配してる、まっすぐな瞳。
凛は、一歩も前に出なかった。
いや、出られなかった。
凛はすでに知ってしまっている。
失う空虚を。繋がった重みを。
(この距離、この人数じゃ、まともに動けない…!)
刃を振るえば、
必ず誰かが巻き込まれる。
あの力のことを、凛は何一つわかっていない。
ただ、使えてしまっただけ。
だからこそ、それが何にどう影響を及ぼすか、
測りかねている。
(…それでも、誰一人傷つけさせない)
その判断が、
即座に、凛自身の行動を締め上げる。
それでも。
「動かないで!」
声は、張った。
命令に近い、鋭い声。
「全員、その場で止まって!」
一瞬、
ざわめきが止まる。
理由は分からなくても、
“今は従った方がいい”と、
身体が理解してしまう声だった。
黒い文字の人型が、
じり、と距離を詰める。
凛は、
自分が“不利な立場”に立ったことを、
正確に理解していた。
――これは、いつも通りの戦闘じゃない。
――これは、守りながら勝たなきゃいけない局面だ。
それでも、
凛は迷わなかった。
(大丈夫)
(私には――断てる)
頭は冷静さを強いてくる。
それでも、凛の頬を一筋の汗が伝う。
凛は、深く息を吸った。
自らが背負うことになってしまったものの重みを、確かに感じながら。
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