40 修学旅行⑤
京都駅を出た瞬間、空気が少しだけ違う気がした。
湿度の混じった匂いと、人の多さ。
駅前に並ぶバスや観光客の声に、修学旅行だという実感がようやく追いついてくる。
「うわ、人多っ」
「さすが京都……」
班ごとにまとまって歩き出すと、自然と会話も弾み始めた。
沙耶香がスマホを構え、由布がそれに身を寄せ、澪が後ろから覗き込む。
「とりあえず駅前で一枚撮っとこ」
「え、もう? まだ何も見てないけど」
「記念は早い方がいいの」
その横で、ルカは落ち着きなく辺りを見回していた。
「ねえ凛、あれ見て。屋根、めっちゃ長くない?」
「駅だからね」
「京都ってさ、駅からもう“京都”なんだね」
「意味わかんないけど、まあ……そうかも」
凛は短く返しながら、班の輪の中を歩く。
以前よりも、こうして会話の中心に自然に混ざっている自分に、ふと気づいた。
周りのクラスメイトたちも、特別な距離感はない。
声をかけられれば返し、笑われれば一緒に笑う。
それだけの、当たり前の関係。
「今日って、最初どこだっけ」
「清水寺方面。歩くらしいよ」
「歩くの? 京都で?」
「修学旅行だからね」
澪が肩をすくめ、由布が苦笑する。
「まあ、食べ歩きできるなら歩くのもアリかな」
「それは自由行動の日でしょ」
そんなやりとりを聞きながら、凛は前を向く。
ルカは楽しそうに先を歩き、時々振り返っては手を振ってくる。
京都に来た。
それ以上でも、それ以下でもない。
今はただ、修学旅行の一日目が始まっただけだった。
*
バスを降りて少し歩くと、景色が一気に変わった。
低い建物が増え、道幅が少しだけ狭くなる。
土産物屋の看板が目につき始めて、修学旅行生らしい集団もちらほら見えるようになった。
「え、ここもう京都って感じしない?」
「さっきまで駅だったのにね」
沙耶香がきょろきょろと周囲を見回すと、由布が頷く。
「わかる。なんか急に“歴史”始まった感ある」
「歴史って言い方ざっくりすぎ」
澪が笑いながらツッコミを入れる。
ルカはというと、完全にテンションが上がっていた。
店先に並ぶ扇子や和柄の小物を指差しては、次々と声を上げる。
「ねえ凛、これ見て。渋すぎない?」
「高校生が持つものじゃないでしょ」
「逆に新しくない?」
「その理屈、全部に使えるやつだよ」
澪の一言に、沙耶香が吹き出す。
「でもさ、こういうとこ来るとさ」
「来ると?」
「修学旅行来たな〜って感じするよね」
「今さら?」
「いや、奈良は鹿だったから」
「鹿は鹿で印象強すぎたよ」
由布が苦笑しながら言うと、ルカが即座に反応した。
「鹿、再来あるかな」
「ない」
「京都に鹿いないでしょ」
「夢がないなあ」
そんな会話をしながら歩く五人の足取りは、自然と揃っていた。
誰かが先に行きすぎることもなく、誰かが遅れることもない。
凛は、その中心にいる。
声をかけられれば答え、
笑われれば一緒に笑って、
特別なことは何もしない。
それだけのことが、今は不思議なくらい自然だった。
「この先、坂らしいよ」
「坂?」
「ほら、あそこ」
澪が前方を指差す。
人の流れが、ゆるやかに上へ向かっているのが見えた。
観光地らしい賑わいの、その先。
清水坂に入った途端、景色が一気に観光地に切り替わった。
石畳の道の両脇に並ぶ土産物屋。
甘い匂いと、呼び込みの声と、行き交う観光客のざわめき。
さっきまでの駅前とは、空気の密度がまるで違う。
「うわ、修学旅行っぽ!」
「ルカ、それしか言ってない」
「鹿の次は坂かー」
ルカの言葉に由布が笑いながら声を上げると、澪がすぐに返す。
「奈良で歩いて、京都でも歩くって、足殺しに来てるよね」
「でも写真は映えそう」
沙耶香はそう言いながら、早くもスマホを構えていた。
ルカはというと、完全に観光客モードだった。
店先に並ぶ八つ橋や団子を見つけては、立ち止まりそうになる。
「ねえ、これ絶対おいしいやつじゃん」
「あとでね」
「“あとで”って言って、結局忘れるやつだよね?」
凛がそう言うと、ルカは一瞬考えてから笑った。
「じゃあ今?」
「雑すぎてウケる」
坂を登るにつれて、足元の感触が少しずつ変わっていく。
人の流れに合わせて進むしかなく、立ち止まるのも難しい。
「なんか、人に押されて進んでる感じ」
「流れに身を任せる観光ね」
澪の言葉に、沙耶香がうなずく。
「迷子にはならなさそうで安心」
「この人数で迷子になったら逆に才能だよ」
そんな軽口を叩きながら、五人は並んで歩く。
前を行くクラスメイトたちの背中も、後ろから聞こえる笑い声も、
すべてが“修学旅行”という一言でまとめられる光景だった。
凛は、その中にいる。
特別でもなく、浮いてもいない。
坂に入って、しばらくは何も変わらなかった。
足元の石畳は歩きづらいけれど、観光地ではよくある程度の感触だ。
人の流れに押されるように進み、立ち止まる隙もない。
「ちょっと疲れてきた」
「まだ半分も行ってないでしょ」
澪と沙耶香の声が前の方から聞こえる。
由布は遅れないように歩幅を合わせ、ルカは少し先で振り返って手を振った。
「凛、平気?」
「うん」
そう答えながら、凛は足を進める。
坂の途中で、道幅がわずかに狭くなった。
すれ違う人の肩が近くなり、自然と視線が前に集まる。
その瞬間。
凛は、ほんの一拍だけ、呼吸のタイミングを間違えた。
――あれ。
勾配。
この傾き。
きつすぎず、楽でもない。
足の裏に溜まっていく疲れの感じが、妙に馴染んでいる。
前を見る。
少し先で、坂がわずかに折れている。
今は見えないけれど、その先が開けていることを、身体が先に知っている。
理由はわからない。
思い出すものも、浮かぶ情景もない。
ただ、
――この坂、知ってる。
そんな感覚だけが、胸の奥をかすめた。
凛は立ち止まらない。
足取りも、速度も変えない。
「人多いねー」
「写真撮るなら上かな」
前から聞こえる会話に、違和感は混ざらない。
誰も、何も感じていない。
凛は一度だけ、視線を落とした。
石畳を見て、次にまた前を見る。
さっきの感覚は、もう掴めなかった。
――気のせいだ。
そう判断して、凛は歩き続ける。
坂は、まだ続いていた。
坂を登り続けていると、足の疲れよりも先に、視界の感覚が変わってきた。
人の流れは変わらない。
観光客の声も、店先の呼び込みも、ずっと続いている。
それなのに、凛の中でだけ、距離の測り方がずれていく。
――もうすぐ、だ。
理由はない。
そう思った瞬間に、凛は小さく眉をひそめた。
何が“もうすぐ”なのか、分からない。
見えているのは、坂の先と、折れた参道の角だけだ。
けれど、身体のどこかが理解している。
この坂を登り切った先に、何かがあると。
少し前を歩くルカが振り返った。
「凛、もうちょいだよ」
「……うん」
ルカの言葉は、観光地としての意味しか持っていない。
それなのに、凛の胸の奥が、わずかにざわついた。
坂の終わりが近づくにつれて、周囲の建物が低くなる。
一瞬だけ、視界が遮られる。
その向こう側。
凛は、無意識に足を踏み出しかけて、止めた。
――ここを越えたら。
何かがある。
そう“知っている”感覚だけが、はっきりと残る。
思い出そうとすると、何も浮かばない。
名前も、景色も、感情もない。
ただ、位置関係だけが一致している。
凛は深く息を吸って、吐いた。
足元に意識を戻す。
石畳。
観光地。
修学旅行。
全部、間違っていない。
「写真、上で撮ろうよ」
「いいね、並んで撮ろ」
沙耶香と由布の声が重なり、澪が笑いながら頷く。
そのやり取りは、いつも通りだった。
凛は、もう一度だけ前を見る。
さっきまであった感覚は、薄れていた。
掴もうとしなければ、消えてしまう程度のもの。
――今は考えない。
そう決めて、凛は歩き出す。
坂の先で、清水寺が待っている。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう言い聞かせながら、歩き続けた。
坂を登り切ると、視界が一気に開けた。
「着いたー!」
「やっとだ……」
誰かの声に合わせて、周囲が少しだけざわつく。
清水寺の境内に広がる空気は、さっきまでの参道とはまったく違っていた。
広い。
人は多いのに、妙に落ち着いている。
「うわ、すご……」
「写真撮ろ、ここ」
ルカが真っ先にスマホを取り出し、由布がその隣に並ぶ。
澪は少し離れた位置から全体を見渡し、沙耶香が手を振った。
「凛、早く来て」
呼ばれて、凛は一歩踏み出す。
境内の石畳は平らで、足元の感触も安定している。
さっきまで感じていた、あの妙な距離感は、もうなかった。
――気のせい。
凛は、もう一度そう判断した。
観光客の声、案内の看板、先生の指示。
どれも現実的で、当たり前のものばかりだ。
「ここ、有名なんだよね」
「修学旅行来たら絶対来るとこ」
そんな会話を聞きながら、凛は周囲を見渡す。
そこにあるのは、歴史ある寺院と、修学旅行生たちの姿だけだった。
違和感は、表に出てこない。
問い詰めなければ、存在しなかったことにもできる。
凛はそれ以上、考えなかった。
今は、修学旅行の途中だ。
楽しまなければいけない時間でもある。
「次、どこ行くんだっけ」
「このあと説明聞いて、自由時間ちょっとあるらしいよ」
澪の言葉に、ルカが嬉しそうに頷く。
「やった。お土産見る時間あるじゃん」
凛は、その様子を横目で見て、静かに息を吐いた。
何も起きていない。
何も壊れていない。
今日という一日は、まだ続いている。
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