39 修学旅行④
部屋に戻った瞬間、ふわりと湿った空気が残っているのが分かった。
誰かが先に上がっていて、ドライヤーの低い音が畳に反響している。
「おかえりー、いい湯だったねえ」
洗面台の前で、沙耶香が振り返って言った。髪をタオルで包んだまま、もうすっかり気の抜けた顔をしている。
「ただいま」
凛は短く返して、荷物を部屋の隅に置いた。
畳に腰を下ろした瞬間、思っていた以上に脚が重いことに気づく。昼間、どれだけ歩いたのかを、今になって身体が思い出したみたいだった。
「足、やばい」
澪が浴衣の裾を気にすることもなく、畳に座り込む。
「でしょ」
由布が当たり前みたいに返す。その声は静かで、でもよく通った。
「修学旅行って、楽しいけど普通に疲れるよね」
沙耶香がそう言って、鏡越しに笑う。
その言葉に、誰も反論しなかった。
凛が顔を上げると、ルカはすでに畳に転がっていた。
仰向けになって、天井を見つめながら、帯の端を指先でくるくると弄んでいる。
「ちょっとルカ…あなたまだ髪乾かしてないでしょ」
「ふふ、凛、なんかお母さんみたい」
即答だった。
「今はもう動けなーい」
そう言って、ルカは一度だけ凛の方を見て笑った。
その笑顔がやけに近く感じて、凛は視線を逸らす。
「今日さ」
ルカが、思い出したように言う。
「楽しかったよね」
「……うん」
短く返すと、ルカはそれだけで満足したみたいだった。
それ以上何かを求めてくることはない。ただ、同じ空間にいることを当然みたいに受け入れている。
由布は窓際に立って、外の暗さを確かめるようにカーテンを少しだけ動かした。
「もう外、静かだね」
「修学旅行の夜って、もっと騒がしいイメージあったけど」
澪が言うと、沙耶香が肩をすくめる。
「疲れきってうるさくできないヤツが約一名」
その言葉に、凛はルカの方をみて笑う。
この日常がずっと続けばいいと、凛は心から思っていた。
誰かに気を使いすぎることもなく、無理に盛り上げる必要もない。
ただ一緒にいて、疲れたと言って、笑っている。
それだけでいい夜だった。
凛は畳の感触を確かめるように、そっと手をついた。
今はもう、何も考えなくていい。
この日常の心地よさに、心を預けるように。
*
「じゃ、そろそろ布団敷こっか」
誰からともなくそんな声が上がって、部屋の隅に積まれていた布団に一斉に手が伸びた。
さっきまでの静けさが、少しだけ崩れる。
「え、これ……どうやって敷くのが正解?」
沙耶香が布団を抱えたまま立ち止まり、首を傾げる。
「まず布団カバーつけて」
由布が、ほとんど間を置かずに言った。
「え、どっちがどっち?」
「今持ってるのが敷布団!そっちが掛け布団!」
「厳し」
澪が笑いながら、自分の布団をさっさと広げる。
慣れた動きで、畳の目に沿って整えていく様子は、どこか生活感があった。
ルカはというと、布団を持ち上げたところまではよかったが、そのまま勢いよく畳に落とした。
「……それでいいの?」
凛が聞くと、ルカは悪びれもせずに答える。
「寝れれば勝ち」
「敷き方っていう概念は?」
「今日は休みだから」
「意味分からないんだけど」
澪のツッコミを軽く受け流しながら、ルカは凛の方を見た。
「はい、凛はこっちね!もう決まってるから!」
「……そうなの?」
ルカは迷いなく、自分の隣に布団を敷いた。
距離は近い。
でも、誰も何も言わなかった。
沙耶香がそれを見て、何も言わずに自分の布団を凛たちの向かいに敷く。
澪はその隣、由布は自然と端の位置に収まった。
布団がすべて並ぶ頃には、部屋の中に整った静けさが戻ってきていた。
さっきまで立ったり座ったりしていたせいか、全員が一度、その場に腰を下ろす。
「なんか……」
沙耶香が、畳に座ったままぽつりと言う。
「修学旅行って、こういう時間が一番それっぽくない?」
「分かる」
澪が仰向けになりながら即答する。
「観光してるときより、今」
「家じゃ絶対やらないもんね」
由布が静かに頷く。
凛は布団の上に正座したまま、周囲を見回した。
全員、同じ浴衣。
同じ部屋。
それだけで、昼間とは違う距離感が生まれている。
「明日、京都だよね」
沙耶香が言う。
「うん。移動がメインって書いてあった」
由布がしおりを確認する。
「自由行動は、まだ先かあ」
「四日目だっけ」
「それまで体力もつ?アタシは無理」
澪の言葉に、沙耶香が笑う。
「今日でこんなに疲れてるのにね」
「歩きすぎ」
「奈良広すぎ」
そんなやり取りの中で、ルカが布団に横になった。
「でもさ」
天井を見上げたまま言う。
「楽しいよね」
凛は少しだけ間を置いてから頷いた。
「……うん」
「よかった」
それだけ言って、ルカは目を閉じる。
凛の方を向くことも、何かを求めることもない。
その距離が、凛にはちょうどよかった。
誰かが欠伸をして、誰かが笑って、それが連鎖する。
会話は次第に途切れがちになり、代わりに静かな生活音が増えていく。
布団の擦れる音。
浴衣の袖が畳に触れる音。
窓の外から聞こえる、遠くの車の音。
凛は布団に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
*
「……ねえ、起きてる?」
部屋の電気を消した後、沙耶香が小さく声を出した。
「でた、修学旅行のお約束」
澪のその一言で、部屋の空気が少し緩む。
「修学旅行の夜に即寝るの、なんか負けた気しない?」
「それな」
ルカが布団の上で体勢を変えながら言い、沙耶香が同意する。
「声、小さめね」
由布が一応釘を刺すと、沙耶香は指で口元を押さえて頷く。
「了解であります、班長!」
「誰が班長よ」
由布が軽くツッコむ。
全員がそれぞれの布団に収まったまま、自然と会話は続く。
「てか今日さ」
沙耶香が思い出したように言う。
「鹿せんべい事件、見てた?」
「どれ」
「男子たちがさ、調子乗って鹿せんべい持ちすぎて」
「うん」
「完全に鹿に囲まれて、溺れてた」
「溺れるって何」
澪が即座に突っ込む。
「逃げ場なくなって、叫んでた」
「何それウケる」
「あれ、動画撮っとけばよかった。絶対バズってた」
凛は布団の上で横になったまま、その話を聞いていた。
確かに、見かけた気がする。騒ぎになっていた男子たちのことを。
「あとさ」
沙耶香が続ける。
「先生、さっきめっちゃビール持ってなかった?」
「持ってた」
澪が即答する。
「完全にこれから楽しむやつだった」
「ズルくない?」
「ウチらもコンビニ行く?」
「行ったら死ぬ」
澪の言葉に、くすっと笑いが起こる。
「隣の班もやばかったよ」
由布が静かに言った。
「自由時間で一人迷子出してた」
「修学旅行で迷子って逆に才能じゃない?」
「先生の顔、見た?」
「見た。能面みたいになってた」
部屋に静かな笑いが起きる。
そんな話をしているうちに、空気が自然と和らいでいく。
この部屋だけじゃない。今日一日、学年全体が同じテンションで動いていた。
「でもさ」
沙耶香が少しトーンを落とす。
「今日、クラス全体うるさくなかった?」
「前より、仲いい感じするよね」
澪が言う。
「修学旅行マジックじゃない?」
「それもあるけど」
由布が続ける。
「話しやすくなった気はする」
凛は何も言わずに聞いていた。
そう言われてみれば、今日一日は確かに、以前より自然にクラスの中にいた気がする。
「この班も、当たりだよね」
沙耶香が言う。
「分かる」
澪が頷く。
「無理しなくていいし」
「距離感が楽」
由布が短く言った。
「凛がいるからじゃない?」
沙耶香の言葉に、空気が一瞬だけ静まる。
凛は少しだけ体を強張らせた。
「私?」
「うん」
「なんかさ」
沙耶香は言葉を選びながら続ける。
「変に気使わなくていいっていうか」
「安心する」
由布が重ねる。
「距離、ちょうどいい」
凛は何と返せばいいか分からず、視線を落とした。
そのとき、隣の布団からルカが身を寄せてくる。
「私はねー」
小さい声だった。
「凛がいると安心する」
そう言いながら、ルカが隣の凛に抱きつく。
凛の胸が、少しだけ跳ねる。
「それ今日何回目」
澪が即座に突っ込む。
「いいじゃん」
ルカは気にせず笑う。
「本当のことだし」
その距離は近い。
でも、誰も茶化さなかった。
「……あ」
沙耶香が思い出したように声を出す。
「そういえばさ」
一瞬、間を置いてから。
「修学旅行といえば、告白イベント!」
「何そのイベント」
澪がツッコみ、沙耶香は話し続ける。
「えーだって、こういう時って、大体そういうのあるじゃん。しかも、好きな人の浴衣姿まで見れちゃうんだよ」
「確かに他の班で、誰が見てもいい感じな二人いたよね」
由布が同調し、ルカがそれに続く。
「もしかしたら、今もう誰かが告白してたりして……」
一拍。
「「「キャーーーー!!」」」
声にならない悲鳴が、一斉に上がる。
布団に顔を埋めたり、肩を叩いたり、必死に笑いをこらえる。
「静かにしなって」
澪が呆れて制止する。
「でもそれ、ありそう」
「修学旅行だし」
「今日の夜とか」
沙耶香が小声で続ける。
凛は、笑いながらも騒がなかった。
否定もせず、想像もしない。ただ、その輪の中にいた。
「見る側が楽しいやつだよね」
由布が言って、話題を戻す。
「まあ、明日になったら分かるでしょ」
「だね」
誰かが欠伸をして、空気が自然と落ち着いていく。
「……そろそろ寝る?」
「うん」
「おやすみ」
電気が消え、部屋が暗くなる。
しばらくは、布団の擦れる音と、静かな呼吸だけが続いた。
暗闇の中で、ルカが凛に小さく囁く。
「凛」
「なに」
「明日も一緒だよね」
「……当たり前でしょ」
「よかった」
それだけ言って、ルカは静かになった。遅れて、呼吸音だけが聞こえてくる。
凛は目を閉じたまま、隣の気配を感じていた。
今日は、何も起きない。
何も起きなくていい夜だった。
*
目を覚ましたとき、部屋の中はすでに少し明るかった。
障子越しの光が畳に落ちていて、夜とは違う輪郭を作っている。
「……うぅ、もう朝?」
誰かの小さな声に、別の誰かが身じろぎする。
布団が擦れる音が続いて、順番に意識が浮かび上がっていく。
「早い……」
澪が寝返りを打ちながら呟く。
由布はもう起きていて、静かに浴衣を畳んでいた。
凛は上体を起こして、隣を見る。
ルカは布団に完全に埋もれたままで、動く気配がない。寝返りを打った拍子に浴衣の合わせが少し崩れていて、帯も緩みかけていた。
「……起きるよ、ルカ」
凛が小声で呼びかける。
「……あと五分」
くぐもった返事が返ってくる。
「五分前も言ってた」
「…世界が厳しい」
そう言いながらも、ルカは布団から出てこない。
凛はため息をついて、そっと浴衣の合わせを整えてやる。
「ほら、朝食間に合わなくなるよ」
「……凛、完全にお母さん」
目を閉じたままの返事だった。
「起きないと置いてくよ」
「うぅ、それは困る」
ようやく布団の中で動きがあり、ルカが半分だけ起き上がる。
髪は寝癖であちこち向いていて、目はほとんど開いていない。
「…ルカ、ほんとに朝弱い」
「夜型だから」
「言い訳」
澪の声に、沙耶香が笑う。
「分かるけど、今は修学旅行だよ、集団行動」
由布が淡々と補足する。
何とか身支度を整えて、全員で廊下に出る。
同じような制服姿の生徒たちが、同じ方向に流れていく。
昨日までの非日常が、少しずつ日常に戻っていく感覚。
朝食の会場は広く、すでにあちこちで声が上がっていた。
和食の匂いが立ち込めていて、眠気を引きずったままでも食欲が刺激される。
「量、多くない?」
「修学旅行仕様でしょ」
沙耶香が箸を手に取り、由布が苦笑する。
澪は黙々と食べ始めていた。
ルカはしばらくぼんやりしていたが、一口食べてからようやく目が覚めたらしい。
「……美味しい、目覚めた」
「うん、おはよう」
「ウチ、完全復活!」
ルカの目がパッと開き、朝食をかき込んでいく。
凛はその姿に少し笑う。
朝食後、玄関で集合し、点呼が行われる。
昨日よりも静かな学年全体の空気が、朝らしかった。
「次は京都だね」
バスに乗り込みながら、沙耶香が言う。
「今日は移動多めだっけ」
「うん。自由行動はまだ先」
「体力温存しないと、死ぬ」
そんな会話をしながら、席に着く。
エンジンがかかり、バスがゆっくりと動き出す。
窓の外で、奈良の街並みが少しずつ遠ざかっていく。
ルカがカーテンを少しだけ閉めて、凛の方を見る。
「……やっぱりまだ眠い」
「寝ていいよ」
「じゃあ、少しだけ。ありがと凛」
そう言って、ルカは凛の肩に自然に頭を乗せた。
バスは、京都へ向かって走り出す。
修学旅行の二日目が、静かに始まっていた。




