38 修学旅行③
バスのドアが開いた瞬間、空気が変わった。
窓越しに見えていた景色が、いきなり“匂い”になって押し寄せてくる。
少し湿った土の匂い。草の匂い。観光地特有の、どこか甘い匂い。
「うわ、鹿いる!」
誰かの叫びに、学年全体の視線が一斉にそっちへ向いた。
団体バスの降車場所から少し先、歩道の脇をのそのそ歩く鹿の背中が見える。観光客の足元をすり抜けるようにして、当たり前みたいにそこにいた。
「見た!? 今の!」
ルカの声が、凛の横で弾ける。
次の瞬間、凛の袖が引かれた。
「ちょ、待っ――」
「待たない! 修学旅行だよ!」
「理屈が……!」
言い返す暇もない。
ルカは凛の手首を掴んで、半歩前へ引きずるみたいに歩き出す。
「おーい、まだ固まってろー。 点呼終わるまで動くなー。」
担任の声が後ろから飛んできた。
でも声の調子は、怒鳴るというより“いつもの注意”に近い。
学年のざわめきに混ざって、すぐに薄まっていく。
点呼が始まる。
名前が呼ばれて、返事が返って、また別の班が笑っている。
「凛、あれ! あれ買える!」
ルカが指さした先に、小さな屋台があった。
“鹿せんべい”の文字。
「……買うの?」
「買う」
即答。
そして、凛が止めるより早く、ルカはふらっと屋台に向かう。
「ちょ、ルカ――!」
呼んだ声は、ざわめきに吸われる。
止まる気配はない。
沙耶香がくすっと笑いながら、スマホを構えた。
「やると思った」
「撮るな」
澪が即座に突っ込む。
「いや撮るでしょ。修学旅行だし」
沙耶香はもう動画モードだ。
由布は小さく笑ったまま、凛の横で静かに見ている。
凛は、どうしていいか分からず、ため息を一つ吐いた。
数十秒後。
「買えたー!」
ルカが誇らしげに戻ってきた。手にはせんべいの束。
戻ってくるなり、彼女は一枚を高く掲げる。
「はいっ、鹿さん! ごはんだよー!」
反応は早かった。
遠目に見えていた鹿が、匂いに釣られたみたいに近寄ってくる。最初は一頭。次に二頭。気づけば、周囲の鹿まで“集まる側”に回っていた。
「ちょ、来た来た来た!」
沙耶香が笑いながら後ずさる。
「ほら、ルカ、今の撮ってる! めっちゃ映える!」
「映えるとか言ってる場合か」
澪が言いながらも、半分笑っている。
ルカは怖がるどころか、むしろテンションが上がっていた。
「ねえ凛! 凛もやろ! ほら!」
「いや私は――」
「はい、持って」
断る前に、せんべいが凛の手に押し付けられる。
「え、ちょ、待っ」
鹿が一歩、凛に近づく。
目が合った。
その瞬間、凛は反射で背筋を伸ばした。
怖いというより、“距離”が近い。
「……きてる」
凛が小さく呟いたのを聞いて、ルカが笑う。
「くるよ。だってごはんだもん」
「落ち着け、凛。せんべいは持つな。持つなら、出せ」
澪が妙に冷静に言う。
「なんで慣れてんの」
「奈良はこういう場所」
凛は半分言われるがまま、せんべいを差し出した。
鹿の鼻先が触れる。湿った感触。
次の瞬間、せんべいが消えた。
「……食べた」
凛が思わず呟くと、ルカが大げさに拍手した。
「すごい! 凛、初鹿せんべい成功!」
「成功って何……」
沙耶香が笑いながら、凛の横顔を撮る。
「今の顔、めっちゃレアだよ」
「撮らないで」
「撮る」
そのやり取りが続く中で、担任の声がまた飛んできた。
「おーい! そこ! まだ自由行動じゃない! せんべいは後だ、後!」
「すみませーん!」
ルカが軽く手を上げる。悪びれない。
でも一応、せんべいの束を背中に隠した。
担任はため息をついて、言い添える。
「はぐれるなよー。ちゃんと固まって歩けー」
怒られたのに、空気は壊れない。
むしろ、周囲の笑い声が少しだけ増える。
点呼が終わり、学年が動き出す。
列になって、ぞろぞろと歩き始める。
鹿はまだそこにいる。
観光客も、他校の生徒も、同じように歩いている。
ルカは凛の隣に戻ってきて、肩をぶつけるみたいに笑った。
「ね、もう最高じゃない?」
「…まだ、着いたばっかり」
「だから最高なんだよ」
凛は返事をしながら、歩き出す。
奈良公園の中を抜けて、東大寺の方へ。
修学旅行の一日目が、早くも始まっていた。
*
(Block2:学習工程〜東大寺)
奈良公園の中を抜けると、人の流れが一段太くなった。
修学旅行生。
観光客。
外国語の会話。
道の先に、大きな門が見えてくる。
東大寺の南大門だった。
「でっか……」
ルカが素直に声を漏らす。
凛も、同じ方向を見上げていた。
写真で見たことはある。
教科書にも載っている。
それでも、実物は別物だった。
「これ、門だよね?」
「門だな」
「門ってレベルじゃなくない?」
「今さら?」
澪の即答に、沙耶香が笑う。
由布は少し離れた位置から、全体を眺めるように歩いていた。
ガイドの説明が始まる。
年号や、建立の経緯や、文化財としての価値。
凛は、全部を聞いてはいなかった。
聞き流しているわけでもない。
ただ、視線は別のところに向いていた。
「ねえ凛、あそこ!」
ルカがまた、凛の袖を引く。
南大門の奥。
人の流れの向こうに、大仏殿が見える。
「近くで見ると、ほんとに建物って感じだね」
「建物でしょ」
「いや、もっとこう……世界遺産って感じ?」
よく分からない言い方をしながら、ルカは前に出る。
自然と、凛もその横に並んでいた。
人混みの中を、五人で固まって歩く。
誰かが立ち止まれば、誰かが待つ。
写真を撮る。
また歩く。
修学旅行の集団行動そのものだった。
「写真撮ろ、ここ」
「さっきも撮ってた」
「いいの! 違う角度だから!」
ルカがスマホを差し出してくる。
凛は断りきれず、並ぶ。
シャッター音。
すぐにもう一枚。
「はい、次は真面目な顔」
「今も真面目だと思うけど」
「思ってないでしょ」
澪が横から突っ込む。
沙耶香はすでに、別角度から撮っている。
由布が小さく言った。
「後ろ、人来てる」
「あ、やば」
「ごめんなさーい」
そんなやり取りをしながら、場所を譲る。
また歩き出す。
大仏殿の前に立ったとき、全員が一瞬、黙った。
「……」
「……でかい」
今度は、誰も突っ込まなかった。
凛は、ゆっくりと息を吸う。
目の前の建物を、ただ見ていた。
説明が始まる。
中に入る。
大仏を見る。
凛は、すべてを覚えてはいない。
でも、印象だけは、ちゃんと残った。
世界は広い。
人がいて、歴史があって、観光地があって。
「ねえ凛」
隣で、ルカが小さく言う。
「こういうとこさ、普通に来れてるの、なんかいいよね」
凛は少し考えてから、頷いた。
「……うん」
特別な意味はない。
ただの感想だ。
でも、それで十分だった。
五人で並んで、また歩き出す。
次の場所へ。
次の説明へ。
ルカの満足そうな表情に、凛も自然と笑みがこぼれた。
*
昼食の時間になり、学年は東大寺の近くにある団体向けの食事処へと流れ込んだ。
広い座敷。
長机がずらりと並び、すでにいくつかの学校が食事を始めている。
どこを見ても制服姿で、修学旅行特有のざわめきが満ちていた。
「うわ、修学旅行って感じ」
沙耶香が素直に言う。
「逆に修学旅行じゃなかったら何なんだよ」
澪が箸袋を開けながら突っ込む。
五人は、指示された席に並んで座った。
机の上には、すでに同じ内容の昼食が用意されている。
「これ、奈良っぽい?」
「奈良っぽいかどうかは分かんないけど、和食だね」
「鹿じゃなくてよかった」
沙耶香の一言に、澪が即座に反応する。
「それはさすがに怒られる」
由布が小さく笑った。
凛は、その様子を眺めながら箸を取る。
特別な話題があるわけじゃない。
誰かが主導しているわけでもない。
でも、会話は自然に続いていた。
「今日さ、すでにめっちゃ歩いたよね」
「まだ一日目だけど」
「足やばいんだけど」
「それ、明日もっと来るやつ」
由布の断言に、澪が嫌そうな顔をする。
「やめて、未来の話しないで。いま筋肉痛くる」
ルカはというと、料理を前にして妙に真剣だった。
「ねえ凛、これさ」
「なに」
「後で写真撮る?」
「今じゃなくて?」
「今は食べる」
「食べたら撮れないけど…」
優先順位がはっきりしている。
凛は思わず、少しだけ口元を緩めた。
凛は、三人の様子を改めて見る。
由布は、思ったことをそのまま言う。
遠慮がなくて、場の空気を軽くする。
澪は、遠慮がないけど、ちゃんと周りを見ている。
突っ込み役に見えて、流れを整えている。
沙耶香は、あまり多くを話さない。
でも、誰かが話すときは必ず聞いていて、必要なときだけ言葉を足す。
凛に対しても、同じだった。
距離を詰めようとしない。
でも、避けもしない。
それが、凛には心地よかった。
「凛、食べないの?」
ルカが声をかける。
「食べてる」
「ほんと?」
「ほんと」
箸を動かすと、ルカは満足そうに頷いた。
クラスのざわめきが、天井に反響している。
笑い声。
椅子の音。
先生の注意。
その全部が、今は遠く感じられた。
五人で机を囲んでいる、この時間が、妙に落ち着く。
「午後も歩くんだよね」
「うへー」
「写真、ちゃんと整理しないと」
「もう整理するほど撮ってるの?」
澪の言葉に、沙耶香が笑う。
凛は、湯のみを手に取りながら思う。
こういう時間を、前にも過ごしていた気がする。
でも、はっきりと思い出せるわけじゃない。
ただ、今ここにいることが、自然だった。
「ごちそうさまでしたー」
誰かの声をきっかけに、食事は終わりに向かう。
机の上が片付けられ、また立ち上がる準備が始まる。
*
昼食を終え、学年は再び奈良公園へと戻った。
午後の陽射しはやや柔らかく、観光客の数もさらに増えている。
鹿は相変わらずそこかしこにいて、今度は人の流れを完全に把握した様子で、要領よく人のそばをうろついていた。
「――鹿、再来!」
突然、ルカが声を上げる。
「何それ」
澪が即座に突っ込む。
「第二波ってこと?」
沙耶香が笑いながら聞く。
「違う。これは“リベンジ”」
ルカは真剣な顔で言った。
「さっきさ、せんべい途中で奪われたでしょ」
「まあ、あれは完全に油断してたね」
「だから今度は、ちゃんと撮る」
そう言って、ルカはスマホを構えた。
凛は一歩引いた位置から、その様子を見ている。
鹿せんべいの売り場に近づくたび、先生の視線がちらりと飛んでくるのが分かる。
「ルカ、ほどほどに」
「大丈夫大丈夫」
全然大丈夫そうじゃない返事だった。
案の定、鹿が一斉に寄ってくる。
「うわ、近っ」
「来すぎ来すぎ」
「囲まれてるんだけど!」
沙耶香が半笑いで後ずさる。
由布は少し離れた位置で、その様子を静かに眺めていた。
「……すごいね」
「ね」
凛は短く返す。
ルカはというと、完全に楽しんでいた。
「見て凛!」
「見てる」
「この子、めっちゃ積極的」
鹿がルカの制服の裾をくいっと引っ張る。
その瞬間、少し離れたところから先生の声が飛んだ。
「こらー、鹿せんべいは順番に!」
「あっ、はーい」
素直に返事はするが、反省している様子はない。
ルカはせんべいを片付けると、満足そうに息をついた。
「よし」
「よし、じゃない」
澪が呆れた声を出す。
「でもまあ、写真は撮れたし」
「それが目的だったんだ」
「うん」
スマホの画面を覗くと、鹿と一緒に写ったルカの写真が何枚も並んでいた。
どれも、妙に楽しそうだ。
「凛も一緒に撮ればよかったのに」
沙耶香が言う。
「私はいい」
「そう言うと思った」
でも、言いながら沙耶香は不満そうではなかった。
それも含めて、凛だと分かっている。
しばらくして、再集合の合図がかかる。
「次、どこだっけ?」
「別のお寺だってー」
「また寺?」
澪の言葉に、沙耶香が笑う。
五人は人の流れに混じりながら歩き出した。
鹿の気配が少しずつ遠ざかり、代わりに寺の屋根が見えてくる。
ルカは歩きながら、凛の袖を軽く引いた。
「ね」
「なに」
「楽しいね」
一瞬、返事に迷う。
「……うん」
短い言葉だったけれど、ルカはそれで満足したらしく、すぐ前を向いた。
*
いくつかの寺院を回った後、バスは旅館に到着した。
旅館は、思っていたよりも大きかった。
「え、ここ全部使うの?」
バスを降りた瞬間、誰かがそう言って、周囲から小さなどよめきが起こる。
木造の外観に、広めの玄関。修学旅行生の受け入れに慣れているのが一目で分かる造りだった。日が落ち、ライトがつき始めた旅館周辺には、凛も非日常を感じずにはいられなかった。
「靴そろえてー。部屋割りはあとで言うからな」
先生の声に促されて、凛たちは玄関を上がる。
畳の匂いが、ふっと鼻に届いた。
「旅館って、いいよね」
ルカが小声で言う。
「落ち着く」
「テンション上がってる人の言葉じゃない」
澪が即座に返すと、沙耶香が笑った。
「でも分かる。ホテルより旅館のほうが修学旅行っぽい」
由布は静かに周囲を見回している。
知らない場所なのに、不思議と緊張していない表情だった。
夕食の後部屋に案内されると、そこは想像以上に広かった。
大きめの和室。壁際にはすでに布団が積まれている。
「うわ、ここで寝るの?」
「全員一緒?」
「修学旅行って感じするー!」
ルカが真っ先に畳に座り込み、ころんと転がる。
「ちょっと、まだ布団敷いてない」
凛が言うと、ルカは顔だけこちらに向けた。
「あとであとで。今は畳」
「意味分からない……」
そう言いながらも、凛はルカを引き起こさなかった。
しばらくして、浴衣の説明があり、それぞれサイズを選ぶ時間になる。
色や柄はほぼ同じ。細かい違いだけ。
「どっちがいいと思う?」
ルカが藍色とピンクの浴衣を二つ持って、凛に並ぶ。
「……こっち」
「即答だ」
「ルカはピンクが似合うと思う」
それだけ言うと、ルカは満足そうに笑った。
「じゃ、これにする」
「凛はねー、絶対これ!これにして!」
ルカは有無を言わさず、凛に白地に花が描かれた浴衣を渡す。
着替え終わって部屋に戻ると、他の3人もちょうど着替え終えていた。制服とは違う、少しだけ非日常の距離感。
「おー、いいじゃん」
澪が腕を組んで評価する。
「凛もルカも、めっちゃ似合ってる!」
沙耶香が言い、由布も小さく頷いた。
「へへーん、でしょ!凛、やっぱりその色が一番。ウチの目に狂いなーし!」
「……ありがとう」
褒められることに慣れていないわけじゃない。
でも、今日は少しだけ、照れが先に来た。
「ね、写真撮ろ」
沙耶香が言って、全員が自然に集まる。
ルカは迷いなく凛の隣に来て、距離が近い。
シャッター音が鳴る。
画面に映った五人は、ただの修学旅行生だった。
特別な何かは、そこにはない。
「このあとお風呂だよね」
「先に行く?」
「あとででいいんじゃない?」
「今行かないと入れなくなるでしょ」
そんな会話が、畳の上に転がっていく。
凛はその様子を眺めながら、静かに息を吐いた。
今日は、何も考えなくていい。
そう思えたこと自体が、少し久しぶりだった。
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