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37 修学旅行②





 バスが動き出した瞬間、車内の空気が一段跳ねた。


「うお、出た出た」

「マジで始まったな、修学旅行」


 誰かがそう言っただけで、あちこちから笑いが起きる。

 意味なんてない。ただ、その言葉自体がスイッチだった。


 悠斗は後方寄りの席で、シートに体を預けながらその騒がしさを受け止めていた。


 スマホを回す手。

 通路越しに飛んでくる声。

 前の席から振り返ってくる顔。


「なあ悠斗、昼のSAどこだっけ」

「知らん。どうせソフトクリームある」

「それ何の説明にもなってねえ」


 笑いながら返事をする。

 考えなくていい会話。

 深読みしなくていい空気。


 ――ああ、こういう日だ。


 悠斗はぼんやりそう思った。


 授業も、テストも、地下施設もない。

 管理者の声も聞こえない。

 今日はただの修学旅行、まさしくイベントだ。


 窓の外に、見慣れた街並みが流れていく。

 霧ヶ丘市。


 その「外」に向かって、バスは進んでいる。


「……なんかさ」


 悠斗は小さく呟いて、バッグの中に手を伸ばした。

 指先に触れる、硬い感触。


 黒いノート。


 最近は開いていなかった。

 忙しかったとか、警戒していたとか、そういう理由じゃない。

 ただ、気分じゃなかっただけだ。


 でも、今は違う。


 修学旅行。

 非日常。

 イベント。


「こういう時こそ、趣味も忘れずに、っと」


 誰に許可を取るわけでもなく、ノートを膝の上に置く。

 揺れるバスの中で、表紙が少しずれる。


「何してんの?」

「設定書いてる」

「またかよ、好きだなーそれ」


「旅行だから」


「意味わかんねえ」


 笑い声が重なる。

 その中で、悠斗も笑った。


 深く考えていない。

 世界が変わるかどうかも考えていない。


 ただ――

 今日は、勢いで書いていい日な気がした。


 ペンを取る。

 ページを開く。


 普段なら書かない内容が、ふっと頭に浮かんだ。


 理由はない。

 修学旅行のテンション、それだけだ。


 ペン先が紙に触れる。





 「霧ヶ丘市の外は、異世界と繋がっている。」





 書き終えて、悠斗は一瞬だけページを見つめた。


「……はは、ありえねー。でも、設定としては100点」


 満足してノートを閉じる。

 何も起きない。

 バスは走り続け、騒がしさも変わらない。


「おい、次トランプやるぞ」

「はいはい」


 悠斗はノートをバッグに戻し、またクラスメイトの方を向いた。


 今日は修学旅行だ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 ただ高揚感だけは、いつもと違った。









 白い廊下は、いつも通り静かだった。


 影のない壁。

 均一な光。

 流れる水色のライン。


 地下施設は、いつも通りに稼働している。


 管理者は、表示窓の前に立っていた。

 金髪。

 人間と見分けのつかない横顔。

 視線だけが、複数のログを追っている。


「……追記、検出」


 淡々とした声。


 表示窓に、新しいログが浮かぶ。


 《EDITOR INPUT DETECTED》

 《CONTENT:SETTINGS ADDITION》


 管理者は、わずかに視線を動かした。


「即時反映……なし」


 領域顕現ログは発生していない。

 干渉検知もない。

 保存判断も走っていない。


 想定通りだ。


 次のログ階層が、静かに可視化される。


 《EXECUTION CODE STATUS》

 《STATE:QUEUED》

 《CONDITIONS:UNMET》


「……実行コードのみ、先行」


 管理者は、それを“操作”しない。

 ただ、状態を読み取る。


 保存可能状態ではない。

 よって、世界は結果を返さない。


 しかし――


 別のログが、自動的に更新されていく。


 《WORLD INTERNAL PROCESS》

 《REINTERPRETATION:IN PROGRESS》


 編集は拒否されない。

 否定もされない。


 世界の枠内で、

 成立可能な概念へと翻訳され始めている。


「……翻訳処理、確認」


 管理者は、ただそれを観測する。


 これは逸脱ではない。

 違反でもない。


 編集入力が存在し、

 世界がそれを受理した。


 それだけのことだ。


「条件成立時、即時実行」



 地下施設は、何事もなかったように静まり返る。


 外界では、修学旅行のバスが走っている。

 笑い声が響き、非日常が続いている。


 そのすべてと切り離された場所で、

 管理者だけが把握していた。


 この追記は――

 すでに、世界に到達している。


 ただし、まだ起動していないだけ。

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