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36 修学旅行①





 集合場所には、まだ朝の空気が残っていた。


 空は明るいのに、気温だけが一段低くて、息を吸うと胸の奥が少し冷える。

 凛は肩に掛けたバッグの重さを確かめながら、周囲を見回した。


 同じ制服。

 同じ色のブレザー。

 足元だけが少しだけ違う。


 大きなリュックやキャリーケースを引く生徒もいれば、

 最低限の荷物だけで立っている生徒もいる。


 制服なのに、いつもと違う。

 その感じが、修学旅行なんだと教えてくる。


「ついにきた!修学旅行!」


 隣で、ルカが目を輝かせる。


 同じ制服。

 同じ距離。


 並んで立っていると、普段と変わらないはずなのに、

 今日は少しだけ、空気が違って感じられた。


「ちゃんと荷物持ってきた?」


「うん、コスメもコテも完璧!」


「そう」


 それだけの会話。

 特別な意味はない。


 少し離れたところで、沙耶香がこちらに気づいて手を振った。


「おはよー」


「おはよう」


 凛が返すと、ルカも自然に続く。


「おはよ」


 由布も一緒だった。

 時計を確認しながら、落ち着いた様子で立っている。


「集合まで、まだ少しあるね」


「早く来すぎたかも」


「遅れるよりはいいでしょ」


 会話は途切れない。

 無理に盛り上げようとしなくても、沈黙にもならない。


 少し後ろで、澪がスマホを片手にあくびを噛み殺しながら歩いてくる。


「朝から元気だね、ルカ」


「修学旅行だよ? 元気出すでしょ」


「私は無理」


「それでも来てるじゃん」


「それは義務」


 澪の言葉に、沙耶香が小さく笑う。


「でもさ」


 沙耶香は五人を見回して、軽く肩をすくめながら笑う。


「結局、いつメンで固まった感じだね」


 誰も否定しなかった。


「まあ、そうなるよね」


 由布が頷く。


「楽だし」


「だよね」


 ルカが即座に同意する。


 凛は、沙耶香と由布、それから澪の方をそれとなく見た。


 この三人は、凛に対して変に構えない。

 距離を測ったり、言葉を選んだりもしない。


 他のクラスメイトが、

 どう接すればいいか迷うようなところでも、

 この三人は、ただ普通に話しかけてくる。


 凛はそれを、少しだけありがたいと思っていた。


 理由を聞かれない。

 踏み込まれない。

 でも、遠ざけられている感じもしない。


 特別扱いされているわけでも、

 気を遣われているわけでもない。


 ただ、普通にここにいる。


 その感覚が、凛には心地よかった。


 やがて、担任の声が響く。


「はい、集合ー」


 生徒たちが一斉に顔を上げ、ざわめきが少しだけ落ち着く。

 担任は名簿を片手に、人数を確認し始めた。


「……よし、全員いるな」


 一度だけ顔を上げる。


「これからバス乗るぞ。

 途中でサービスエリア寄るから、トイレはその時に済ませろ」


 淡々とした口調。


「荷物は指示通り。

 席は班ごとでいい。

 騒ぎすぎるなよ」


 それだけ言って、担任は手を叩いた。


「じゃあ、移動する」


 凛はバッグの持ち手を握り直す。


 これから数日間。

 同じ制服のまま、学校とは違う場所へ行く。


 特別な期待はない。

 不安も、今のところはない。


 ただ――


 少しだけ、楽しみだと思っている自分がいた。







 バスに乗り込んで、座席に人が埋まっていくにつれて、車内が騒がしくなっていった。


 教室とは違う、閉じた空間。

 それだけで、声の大きさが一段上がる。


 通路を挟んで、前も後ろも同じ制服。

 座席に腰を下ろすたび、クッションが沈み、誰かの笑い声が跳ねる。


「酔うから静かにしろって言われたよね」

「まだ出発してないからセーフ」


「後ろの席うるさくない?」

「修学旅行だし、今だけでしょ」


 注意する声と、無視する声が入り混じる。

 担任は前方で名簿を閉じ、深くため息をついた。


 凛はバスの中ほど、窓側の席に座った。

 隣にはルカ。

 前には由布、沙耶香、その後ろに澪がいる。


 シートベルトを締める音が重なって、バスがゆっくりと動き出す。


「あ!見て、先生たち手振ってる」


 ルカが身を乗り出して手を振り返す。


「修学旅行って、こういうのがいいんだよね」


「何が」


「出発した感!」


 凛は短く息を吐く。


 前の席では、由布がしおりを開いていた。

 読み込むというより、工程を頭に入れている感じだ。


「最初の休憩、SAだよね」


「うん。二時間くらいって言ってた」


 沙耶香が前を向いたまま答える。


「トイレ混みそう」


「早めに行った方がいいかもね」


 現実的な会話。

 それが、逆に落ち着く。


 後ろから、澪の声が飛んでくる。


「ねえ、これ絶対渋滞するやつじゃん」


「また始まった」


 ルカが即座に返す。


「だってさ、修学旅行の日に限って事故とかあるんだよ」


「もう、縁起悪いこと言わないで」


「言ってるだけ」


 澪のトーンは変わらない。

 誰に対しても同じ距離感で、同じ調子。


 凛はそれを、少しだけ心地よく感じていた。


 バスは速度を上げ、市街地を抜けていく。

 信号の数が減り、建物の隙間が広がる。


 窓の外を流れる景色が、少しずつ変わっていく。


「ねえ凛」


 ルカが声を落とした。


「なに」


「修学旅行、楽しみ?」


 質問は軽い。

 答えを強要する感じはない。


 凛は少しだけ考えてから、頷いた。


「……まあまあ」


「ふふ、ウチも!凛と一緒に回るの、すっごい楽しみ!」


 答えを聞いて、ルカは満足そうに凛に少し身体を寄せる。


 車内のあちこちで、笑い声が上がる。

 スマホのシャッター音。

 動画の再生音。


 学年全体が、少し浮ついている。


 でも、それは悪い感じじゃない。

 むしろ、今しか許されない空気だった。


「ね、写真撮ろ」


 沙耶香がスマホを掲げる。


「今?」


「だって、今が一番元気じゃない?」


「それは確かに」


 由布が笑いながら身を寄せる。


「凛も!ほら!」


「……うん」


 ルカに促され、凛は少しだけ近づいた。 


「じゃ、いくよー」


 シャッター音が鳴る。

 画面の中には、同じ制服の五人が並んでいた。


「よし」


「いい感じ」


「修学旅行感ある」


 澪が画面を覗き込む。


「え、待って。全員目開いてるの、奇跡じゃない?」


「そこ?」


「そこ大事。だって沙耶香、いつも目閉じるじゃん」


「確かに、言えてる」


「もー、二人ともひどい!」

 

 穏やかな笑い声が広がる。

 凛は、そのやり取りを眺めながら、窓の外に視線を戻す。


 遠ざかっていく街。

 見慣れた風景が、少しずつ知らない色に変わっていく。


 不安はない。

 違和感も、今はない。


 ただ、ここからしばらく、

 同じ時間を、同じ場所で過ごす。


 それだけのことなのに、

 胸の奥が、少しだけ軽くなる。


 バスは、高速道路に入った。景色が足早に流れる。

 しばらくして前方で、担任がマイクを手に取った。


「はい、あと少しで最初の休憩入るからなー」


 その声を合図に、

 車内のざわめきが一段落する。


 凛は背もたれに身を預けた。


 今は、考えなくていい。


 この空気に、身を任せていればいい。


 そう思えること自体が、

 少しだけ、珍しかった。





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