32 空洞の淵、ただ独り
皆さんこんばんは。本来はいつも通り20時の投稿予定だったんですが、うっかり更新してしまいましたw
領域が主人を失い、完全に崩れ始めた。
黒い文字列が空中で絡まり、ほどけ、意味を失って落ちていく。
音はない。
爆発も、衝撃もない。
ただ、
この空間を成立させていた「役割」だけが、
一つずつ静かに剥がされていく。
凛は、その場から動けなかった。
凛の視線は、自然と前を向く。
ほんの少し前まで、
確かに腕の中にあった温度。
抱き合い、
離れた、
その直後の位置。
そこには――
もう、誰もいなかった。
凛は名前を呼ばない。
分かっているからだ。
王を倒した。
領域を終わらせた。
それが意味することを、
凛は理解したうえで選んだ。
奪われたわけじゃない。
間に合わなかったわけでもない。
自分で、決めた。
(……私が、終わらせたんだ)
胸の奥で、
言葉にならない理解が沈む。
涙は出ない。
声も出ない。
ただ、身体の芯が冷えていく。
――空気が、歪む。
視界の端から、色が薄くなる。
距離感が狂い、音が遠のく。
凛は、遅れて気づいた。
出口が、縮んでいる。
世界とこの領域を繋いでいる、
唯一の接続点。
それが、
ゆっくりと、
しかし確実に閉じ始めていた。
押し出される力はない。
助ける意思もない。
ただ、
ここに留まれる時間が失われていくだけだ。
凛は、それでも動かなかった。
足が止まっているのではない。
判断を放棄しているわけでもない。
ただ、
この場所で立ち止まることが、
自分の選択を引き受ける唯一の時間だと
感じてしまっていた。
「……おい」
声が、遠くで聞こえた。
凛は振り向かない。
「おい、東雲!」
次の瞬間、
制服の袖を強く掴まれる。
思っていたよりも、乱暴な力だった。
凛の身体が、ぐらりと傾く。
「……っ」
足が、もつれる。
踏み出す意思より先に、
身体が引かれた。
「感傷に浸るのは、今じゃないだろ」
悠斗の声は低い。
いつもの軽さはない。
「佐倉…私…」
「止まってる場合じゃない。生きて受け止めろ」
凛は、抵抗しなかった。
掴まれた腕を振り払う気力も、
理由もなかった。
半歩遅れて、走り出す。
凛の視界が揺れる。
足元の感覚が薄れ、
地面が確かにあるのか分からない。
背後で、空間が軋む。
何かが閉じていく音。
言葉にできない圧迫感。
出口は、もう人一人分ほどしか残っていない。
「……もう、間に合わない」
凛の口から、ようやく声が落ちた。
悠斗は振り返らない。
「間に合わせる」
即答だった。
理屈も、保証もない。
それでも、迷いはない。
走る。
足が重い。
身体が言うことをきかない。
何度も躓きそうになる。
そのたびに、
悠斗が腕を引いて、無理やり前に進ませる。
背後で、
視界が暗転していく。
出口の輪郭が、
細く、歪み、震え始める。
凛は、最後に一度だけ振り返った。
そこには、
何もない。
崩れた構造も、
記録体も、
誰かの影も。
ただ、
終わりきった空間だけが残っている。
(……もう何も、残ってない)
その事実が、
胸の奥で静かに確定する。
「前見ろ!抜けるぞ!」
悠斗の声に引き戻される。
二人は、
ほとんど転がり込むように、
出口を抜けた。
次の瞬間。
空気が、変わる。
夕方の路地裏。
オレンジ色の光。
遠くの車の音、人の話し声。
世界は、
何事もなかったように存在していた。
背後で、
路地の奥が歪み、
そして――閉じる。
凛は、その場に立ち尽くした。
悠斗は息を整え、
短く周囲を見回す。
「…っ! はー、終わったな。危ない危ない」
凛は答えない。
自分の手を見る。
さっきまで、
確かに誰かを抱きしめていた手。
そこにはもう、何も残っていない。
(……私が、選んだ)
ただその事実だけが、
重く、確かに、凛の中に残っていた。
*
WSPO監視室に、警告音は鳴らなかった。
それが、異様だった。
通常であれば、異常発生、干渉反応、収束――
何らかの段階で必ずアラートが走る。
だが今回は、違った。
乱れていた数値が、
まるで最初から存在しなかったかのように、
静かに、自然に、平坦へと戻っていく。
観測モニターには、
過去数分のログがグラフとして表示されている。
鋭く跳ね上がっていた波形は、
時間を遡るように均され、
今は穏やかな直線を描いていた。
オペレーターが、声を落とす。
「……異常反応、消失を確認」
誰も安堵の息をつかない。
それが、この組織の空気だった。
局長は腕を組み、画面から目を離さない。
表示は、簡潔だ。
《EVENT STATUS:RESOLVED》
《OBSERVATION:NORMAL RANGE》
《AFTER-EFFECT:NONE DETECTED》
数字だけを見れば、完璧な“解決”だった。
だが、局長は分かっている。
数字は、常に現実より一歩遅れる。
「……現場は」
「待機中です。対象、二名確認済み」
「回収班を入れろ」
短い指示。
迷いはない。
*
夜の路地裏は、静まり返っていた。
数分前まで、
ここで“何か”が起きていた痕跡はない。
崩れた地形も、
異様な光も、
空気の歪みすら残っていない。
ただ、湿ったアスファルトと、
古い壁の染みだけがある。
回収班――精鋭部隊が、
無言のまま散開する。
足音は最小限。
無線も使わない。
「周囲、異常なし」
「路地奥まで確認。反応なし」
「保護対象を確認」
ライトが、路地の奥を照らす。
その光の中に、二人がいた。
一人は、地面に座り込んだ少女。
毛布を肩までかけられ、
虚ろな目で、何もない空間を見つめている。
東雲凛。
もう一人は、少し離れた位置に立つ少年。
「……あ」
佐倉悠斗は、
回収班員の手元を見て、思わず声を漏らした。
掌に収まる、小型の端末。
無駄のない黒いフレーム。
淡く光る表示部。
(……出た、デバイス。あの時の二人とおんなじ感じか)
回収班員が、事務的に告げる。
「一般人保護対象、異常なしを確認」
回収班の職員は、そっと距離を詰める。
「大丈夫ですか」
「立てます?」
声は落ち着いていて、
事務的すぎるほどでもない。
保護対象に向ける、
慣れた調子。
悠斗は一瞬きょとんとしたあと、素直に頷いた。
「あ、はい。全然、なんともないっす」
職員は小さく安堵したように息を吐き、
肩にかけていた小型端末へ視線を落とす。
画面上で、数値が静かに更新されていく。
路地の奥。
空気の密度。
光量。
騒音レベル。
それらが、ゆっくりと“普通”に戻っていく。
誰かに何かをする動きじゃない。
この場所そのものを、撫で直しているような手つき。
悠斗は、その様子を一歩引いた位置から眺めていた。
(あー)
(今まで、こうやって収まってたのか)
説明されなくても、なんとなく分かる。
さっきまで、確かに“あった”異常が、
何事もなかった顔で消えていく。
でも――
(普通の人、これ覚えてねえんだろうな)
悠斗は、ちらりと自分の手を見る。
震えていない。
視界もはっきりしている。
記憶も、全部そのままだ。
金髪のギャル。
凛の戦い。
歪んだ空間。
どれも、くっきり残っている。
(いや、冷静に考えて)
(これ、めちゃくちゃおもしれえだろ)
世界が勝手に帳尻を合わせていく横で、
自分だけが全部見ている。
それを、
消されもしない。
悠斗は、思わず口元を緩めた。
(世界、マジで本気出すのやめてほしい)
職員が、ちらりとこちらを見る。
「寒くありませんか」
「救護班を呼びます?」
「あ、大丈夫っす」
「ちょっと面白いだけなんで」
職員は一瞬だけ困ったような顔をしたが、
深く突っ込むことはなかった。
それでいい。
彼らにとって、悠斗はただの一般人だ。
――守るべき対象であって、
理解する必要のない存在。
そのズレに、
悠斗は気づいていない。
ただ、
この夜が“なかったこと”にされていくのを、
楽しそうに眺めていただけだった。
*
凛は、路地の端に座らされていた。
背中を壁に預け、
膝を立て、
ぼんやりと前を見ている。
戦闘の直後だというのに、
呼吸は安定していた。
「脈拍、問題なし」
「外傷も……目立つものはありません」
回収班の女性職員が、
端末を確認しながら淡々と告げる。
別の職員がしゃがみ込み、
凛の手首にそっと触れた。
「指、動かせます?」
「しびれは?」
凛は一拍遅れて、
ゆっくりと指を握り、開いた。
「……大丈夫です」
声は小さく、
どこか乾いている。
職員はそれ以上踏み込まない。
この沈黙は、
“異常”ではないからだ。
端末の画面には、
凛の数値が静かに並ぶ。
《VITAL:STABLE》
《INTERFERENCE RESPONSE:NORMAL》
《ANOMALY TRACE:RESIDUAL》
最後の項目で、
職員の視線が一瞬止まる。
だが、
何も言わずに画面を切り替えた。
ここで説明する必要はない。
この現場では、
“問題が起きていない”ことになっている。
「今は、少し休みましょう」
声は柔らかい。
指示というより、
気遣いに近い。
凛は小さく頷いた。
だが、
視線は上がらない。
自分の手のひらを、
じっと見つめている。
――さっきまで、
ここに、温度があった。
思い出そうとした瞬間、
胸の奥が、軋んだ。
凛は、唇を噛む。
泣くわけにはいかない。
ここは、現場だ。
職員の一人が、
凛の肩にブランケットをかける。
「寒くありませんか?」
「……平気です」
本当かどうかは、
誰も確かめない。
それが、
この組織のやり方だった。
凛は目を閉じる。
世界は、静かだ。
あまりにも、
何事もなかったように。
その静けさが、
凛には、
ひどく重たかった。
職員は、一度凛に視線を移したあと、報告を続ける。
脈拍。
呼吸。
意識反応。
すべて、基準値内。
「候補生、問題ありません」
報告が入る。
通信越しに、
局長は短く頷いた。
「帰投させろ」
*
収束の少し後。WSPO監視室は、いつも通り静かだった。
壁一面に並ぶモニター。
そこに映し出されているのは、映像ではない。
淡々と流れる数値とログ。
世界が「何も起きていない」ことを示す、無機質な証拠群。
《INTERFERENCE:TERMINATED》
《FIELD STATUS:NULL》
《RESIDUAL PARADOX:UNOBSERVED》
表示はすべて、正常。
異常数値は消失。
残留反応なし。
観測不能な揺らぎも検出されていない。
回収班の報告が端末に追加される。
「――回収完了。現地に特記事項なし」
「整合処理、最低限で終了しています」
局長は、それを一瞥しただけで頷いた。
「十分だ。過剰な整合は必要ない」
誰も異を唱えない。
このレベルであれば、処理としては“優秀”だ。
世界は壊れていない。
少なくとも、数値上は。
モニターの端。
一つだけ、表示が遅延しているログがあった。
《INTERFERENCE TRACE:UNSTABLE》
《SUBJECT:SHINONOME RIN》
《RESPONSE HISTORY:PARTIAL LOSS》
担当オペレーターが眉をひそめる。
「……また、彼女です」
その言葉に、室内の空気がわずかに沈む。
「反応履歴が、途中で切れています」
「過剰反応のあと、急激に沈黙」
「整合タグも……反応なし」
「消えたわけじゃない」
別の職員が言う。
「あるんです。あるけど、繋がらない」
局長は、ゆっくりと椅子にもたれた。
「異常か?」
一瞬の沈黙。
「……判定は、グレーです」
「明確な違反はありません」
「介入も、越権も、確認できない」
ただ。
綺麗すぎる。
まるで、
“何かがあった痕跡だけが、綺麗に削られている”ようなログ。
「処分は?」
局長の問いに、誰も即答できなかった。
拘束する理由はない。
切るには惜しい。
かといって、安心して使える駒でもない。
「……様子見、ですね」
誰かがそう言った。
局長は、短く息を吐く。
「保留だ」
「東雲凛は、引き続き観測対象」
「だが、手は出すな」
決定は淡々と下される。
監視室のログは更新され、
案件は「終了」として分類された。
世界は、正常。
矛盾は、消失。
異常事象は、解決。
そういうことになった。
ただ一つだけ。
誰も口にしなかった違和感が、室内に残っていた。
――本当に、終わったのか?
その問いは、ログには残らない。
最後に、局長はモニター越しに凛を見る。
毛布に包まれ、
静かに目を閉じている少女。
危うい存在。
扱いづらい存在。
それでも――
「……無事でいろ」
誰にも聞こえない、小さな声。
世界は、何事もなかった顔をする。
だが確かに、
この夜、何かが保存された。
この世界の確定的な変化を、まだ、誰も知らない。
*
街は、静かだった。
夕方の光が伸び、
帰り道のざわめきが、いつも通り流れている。
異常はない。
事件は終わった。
――そういう顔を、世界はしている。
凛は歩きながら、
何度も同じ名前を、胸の中でなぞる。
(……ルカ)
忘れていない。
薄れてもいない。
あの声も、
距離の近さも、
最後に掴んだ手の感触も。
全部、はっきり残っている。
だからこそ。
今ここに、
いないという事実が、痛い。
凛は、無意識に視線を彷徨わせる。
人混みの中に、
金色の髪を探してしまう。
いるはずがないと、
分かっているのに。
(……バカだな)
あれだけ泣いた。
あれだけ別れを惜しんだ。
「もうどこにも行かないで」と叫んで、
それでも、手放した。
覚悟したはずだった。
それでも。
胸の奥が、
ぽっかり空いている。
整合タグは沈黙している。
警告も、修正もない。
凛は理解している。
この世界では、
「九条ルカ」という存在は、
最初から“いなかった”ことになっている。
事件は収束し、
矛盾は消え、
記録は整理された。
帳尻合わせは、完璧だ。
――完璧すぎる。
(……違う)
凛は、はっきり分かっている。
ルカは消えた。あの領域と一緒に。
でも世界は、それすら無かったことにする。
自分だけが、
そのズレを自覚できている。
自分だけが、
「失った」という感情を、
そのまま持ち続けている。
それが、余計に苦しい。
誰にも共有できない。
説明もできない。
「大切な人がいなくなった」と言えば、
世界は首を傾げる。
そんな人、最初からいなかったでしょう、と。
凛は、
拳を強く握る。
悔しい。
寂しい。
胸が締めつけられる。
それでも――
(この未来を選んだのは、自分だ)
あの選択を、
間違いだとは思わない。
自分の手で、
答えを掴んだ。
ルカの覚悟を、
受け取った。
だからこそ、
この寂しさは、
逃げずに抱えるしかない。
凛は歩き続ける。
世界と同じ速さで。
ただし――
世界が否定した存在を、
胸の中に確かに残したまま。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
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