30 空席の王④
王の攻撃が、わずかに緩んだ。
凛の鎌が振るわれ、空中に展開された構造体の一部が切断される。
だが、次の攻撃が重ならない。
王は距離を取り、黒い文字列を纏ったまま、空中で静止する。
戦闘が止まったわけじゃない。
ただ――間が、空いた。
「……?」
凛は息を整えながら、違和感を覚える。
王が、こちらを見ていない。
正確には。
視線が、凛の“向こう”を見ていた。
足音が聞こえる。
凛は反射的に振り返った。
制服姿の少年が、路地の奥から姿を現す。
場違いなくらい軽い足取り。
だが――見覚えがある。
「……佐倉!」
思わず名前が出た。
「お、久しぶり」
「元気そうじゃん」
その声色に、緊張感はない。
この空間に対する畏れも、戸惑いも。
凛は一瞬、言葉を失う。
(……なんで、ここに)
(どうして、この状況で――)
問いが、口に出る前に溶けた。
王が、彼を“見た”からだ。
「…編集者か」
その呼び名に、凛の背筋がわずかに強張る。
編集者。
聞き慣れない単語。
けれど、その言葉が“重要な何か”であることだけは分かる。
「お前の追記により、
この領域は現実側から参照可能となった」
「え、いや、俺はノートに書いただけで、そこまで大げさなことは――」
「意図は問わぬ」
王の言葉は即座に遮られる。
「定義は、
書かれた瞬間に世界の一部となる」
王の周囲で、黒い文字列が静かに蠢いた。
凛は、そのやり取りを聞きながら、
完全に置き去りにされている感覚を覚える。
(……追記? 定義?)
(何の話をしている)
戦っているはずだった。
命を賭けて、王と向き合っていたはずだった。
なのに。
突然、別の会話が始まっている。
自分を通り越して。
「お前は、
この空間に“意味”を与えた」
凛は、王と悠斗を交互に見る。
意味。
その言葉が、ひどく遠い。
理解しようとした瞬間、
言葉の輪郭が崩れて、指の隙間から落ちていく。
王は視線を移す。
凛を、見下ろす。
「半端者」
その一言に、凛の胸が軋む。
名前ではない。
評価だ。
「お前は、
この領域に属さぬ」
「だが、
触れることができる」
(……触れる?)
(それって、どういう――)
問いは、続かなかった。
次に、王は悠斗を見る。
「お前は、
この領域に触れぬ」
「だが、
定義することができる」
凛の中で、何かが噛み合わない。
触れられない。
定義できる。
触れられる。
定義できない。
その差が、致命的なものだということだけが、
嫌なほどはっきり伝わってくる。
最後に。
王の視線が、わずかに横へ流れる。
ルカの立つ位置へ。
「そして――」
「ここにあるものは、
外界と接続された“点”だ」
凛の喉が鳴った。
外界。
接続。
点。
単語は聞こえている。
音としては、理解できている。
けれど、意味が追いつかない。
頭の中で、言葉だけが浮いている。
(……待って)
(今、何の話をしてるの)
(誰のことを――)
凛はルカを見る。
ルカは、何も言わない。
いつものように、笑いもしない。
ただ、静かに立っている。
それが、
ひどく怖かった。
「世界は、
矛盾を放置しない」
王の声は、淡々としている。
「触れる者」
「定義する者」
「繋がる点」
「それらが同一の局面に揃えば、
世界は判断を迫られる」
凛は、唇を噛んだ。
分からない。
本当に、分からない。
でも。
これは
「聞き流していい話」じゃない。
この場で交わされている言葉が、
この戦いよりも、
もっと取り返しのつかない何かを
決めようとしている。
そんな気配だけが、
胸の奥に沈んでいく。
王は、再び凛を見る。
「続けよう、半端者」
空気が、張り詰める。
王の周囲で、
再び記録体が集積を始めた。
戦闘は、さらに激化する。
だが凛の胸に残った違和感は、
消えなかった。
(……この戦い)
(ただ、倒せば終わる話じゃない)
理解はできない。
それでも、嫌な予感だけが、
異様な解像度で胸に刺さっていた。
*
王の言葉が、終わる。
それは宣告でも、命令でもなかった。
ただ、そうであると告げただけの声音。
次の瞬間。
空間が、裂けた。
凛の視界の端で、黒い文字列が一斉に収束する。
それは生物の動きではない。
意思のある攻撃でもない。
ただの構造。
ただの機能。
王の周囲に集積していた記録体が、
一気に再構成される。
巨大な腕。
無数の槍。
壁とも檻ともつかない塊。
それらが、同時に展開された。
「――っ!」
凛は反射で跳んだ。
左手から伸びる鎖が空を掴み、
引き寄せられるように身体が持ち上がる。
次の瞬間、
さっきまで立っていた地面が、
巨大な文字の腕に叩き潰される。
轟音。
空気が歪み、
瓦礫のように崩れた記録が舞い上がる。
(……速い)
思考が追いつかない。
王は、動いていない。
空中に浮かび、
ただ構造を組み替えているだけだ。
凛は鎌を振る。
黒い刃が文字の束を断ち切る。
確かに、切れている。
切断は成立している。
だが――
切ったそばから、
次の構造が組み上がる。
「……っ、キリが……!」
声に出した瞬間、
背後から圧が来た。
振り向く暇はない。
鎖を撃ち、身体を引き上げる。
空中に逃れた直後、
地面から無数の槍が突き上がった。
凛の頬を掠め、
髪が一房、宙を舞う。
心臓が早鐘を打つ。
(……集中しろ)
(今は、戦うだけだ)
自分に言い聞かせる。
王を倒す。
この空間を終わらせる。
それだけを考えればいい。
――そう、思おうとした。
けれど。
視界の端に、
ルカの姿が入る。
攻撃の外側。
構造体の隙間。
巻き込まれてはいない。
けれど、安全とも言い切れない位置。
(……っ)
一瞬、意識がそちらに流れる。
それだけで、致命的だった。
凛の足元に、
文字の壁が出現する。
避けきれない。
鎌を振る。
切断は間に合う。
だが、その反動で、
体勢が大きく崩れた。
空中で、身体が流れる。
次の瞬間、
横合いから巨大な腕が迫った。
避ける判断が、半拍遅れる。
鎖を撃つ。
間に合わない。
「――っ!!」
衝撃。
凛の身体が、空中で叩き落とされる。
視界が反転し、
地面が急速に近づく。
直前で鎖を地面に突き立て、
勢いを殺す。
それでも、
着地は乱暴になった。
膝に痛みが走る。
息が詰まる。
凛は立ち上がろうとして、
一瞬、躊躇した。
(……今)
(私、何考えてた)
戦闘中だ。
考えるべきは、王だけだ。
なのに。
頭の片隅に、
さっきの言葉が引っかかっている。
外界。
接続。
点。
意味は分からない。
分からないままなのに、
無視できない。
王は、凛を見下ろしている。
その視線に、感情はない。
あるのは評価と、
状況の把握だけ。
凛は歯を食いしばり、
鎌を握り直す。
(……ダメだ)
(このままじゃ)
攻撃は捌けている。
回避もできている。
でも、押し切れない。
王の構造は、
「倒されること」を前提にしていない。
削るほどに、
固定されていく。
凛の胸に、
焦りが滲む。
そして、その焦りは、
確実に判断を鈍らせていた。
鎌が一瞬、遅れる。
鎖の射出角が、わずかにズレる。
その隙を、
王は逃さない。
空中に展開された構造体が、
一斉に向きを変えた。
狙いは、凛。
だが――
凛の視線は、
一瞬だけ、
またルカのほうを見てしまう。
(……大丈夫)
(まだ、あそこにいる)
そう思った瞬間。
王の構造が、
さらに密度を増した。
逃げ場が、削られていく。
凛は気づく。
自分は今、
戦っている相手だけを
見ていない。
守りたいものが、
思考を引っ張っている。
それが、
この戦場では致命的だった。
王の攻撃が、
次の段階に移行する。
構造体が組み替えられ、
空間そのものを押し潰す形へ。
凛の呼吸が、浅くなる。
(……このままじゃ)
結論は出ない。
答えも見えない。
それでも一つだけ、
はっきりしていることがあった。
この戦いは、
「技量」や「力」だけの話じゃない。
頭の中に、
余計なものがある限り。
凛は、
確実に押されていく。
*
王が、再び空中で手を広げた。
それだけで、周囲の空気が変わる。
凛は即座に地を蹴った。
左手の鎖が伸び、空中に生成された黒い腕へと絡みつく。
引き、跳び、位置を変える。
判断は正確だった。
遅れも、迷いもない。
右手の鎌が閃き、迫ってくる槍を切断する。
砕けた記録体が文字片となって散る。
――いける。
一瞬、そう思った。
考えた瞬間、
視界の端に別の像が滲んだ。
笑う顔。
距離の近い声。
(……ルカ)
一拍。
ほんの一拍、
判断が遅れる。
その隙を、
王は逃さない。
空中に生成された槍が、
凛の進路を完全に断つ。
凛は鎖を引き、
無理やり方向を変える。
空中で体勢を崩し、
着地もできないまま、
構造体に囲まれる。
鎌を振る。
切れる。
確かに、切れている。
だが――
王の中心は、
一切揺らがない。
凛の胸に、
焦りが広がる。
(王を倒せば、
終わるはずなのに)
なのに。
刃を振るうたび、
頭の奥に別の問いが浮かぶ。
(……この一撃は、
あの子にとって何なんだ)
凛の呼吸が乱れる。
王の攻撃は、
淡々としている。
感情も、
怒りもない。
ただ、
配置して、
固定する。
凛は、分かってしまう。
この相手は、
“押し切れば勝てる敵”じゃない。
迷った瞬間、
負ける相手だ。
構造体が、
さらに密度を増す。
凛は鎖を撃つが、
今度は引き切れない。
距離が、
詰まらない。
それどころか、
押し返されている。
(……違う)
(考えるな)
そう思うほど、
思考が絡みつく。
ルカの顔が、
何度も浮かぶ。
王の言葉が、
胸の奥で反響する。
――副産物。
――歪み。
否定したいのに、
振り払えない。
凛の動きが、
確実に、鈍る。
次の瞬間。
地形が、更新された。
凛の視界の端で、崩れていたはずの構造体が
“既に存在していたかのように”立ち上がる。
壁。
檻。
そして、さらに上から覆いかぶさるように降りてくる巨大な腕。
「……っ!」
鎌を振る。
切れる。確かに切れる。
だが、切った先から、同じ形が組み直される。
速い。
早すぎる。
王は動いていない。
ただ、そこにあるだけだ。
凛は歯を食いしばり、鎖を引いた。
別の腕へ接続し、強引に高度を上げる。
――上を取る。
戦術としては正解だった。
だが。
王の“定位置”は、さらにその上にあった。
見下ろされる。
その瞬間、凛の背後で空間が沈んだ。
反応が一拍遅れる。
横殴りに伸びた巨大な構造体が、
凛の身体を捉えた。
「――っ!!」
衝撃。
空気が肺から叩き出され、視界が白く弾ける。
鎖が外れ、身体が宙に放り出された。
落下。
受け身を取ろうとするが、間に合わない。
次の構造体が、下から突き上げてくる。
腹部に、鈍い衝撃。
――音が、遅れてきた。
骨が軋む感覚。
内臓がずれる感覚。
凛は咳き込み、赤いものを吐いた。
「……っ、ぐ……」
意識が、遠のきかける。
視界の端で、王が見える。
相変わらず、上から。
感情はない。
評価だけが、そこにある。
このままでは、殺される。
理屈では分かっていた。
だが、身体が動かない。
鎌を握る指に、力が入らない。
――まずい。
そう思った瞬間。
声がした。
*
「……凛」
振り向かなくても分かる。
ルカだ。
凛は、視線を逸らしたまま叫ぶ。
「来るな!」
叫びは、
拒絶じゃない。
恐怖だ。
これ以上、
この子を巻き込みたくない。
ルカは、
一瞬だけ黙った。
それから――
「凛さ」
声は、驚くほど穏やかだった。
「凛が、助けようとしてくれてるの、分かってるよ」
凛の喉が、詰まる。
「でもね」
ルカは続ける。
「凛が止まったら、凛じゃないでしょ?」
凛の背中に、暖かく、冷たい感覚が走る。
優しく。
容赦なく。
「ウチはさ」
ルカの声は、少しだけ笑っていた。
「凛を助けたいんだよ」
「それだけ」
凛は、理解してしまう。
王の言葉が、意味が、繋がってしまった。
この子は、分かっている。
自分が何者かを。
この場所がどうなるかを。
それでも、ここに立っている。
鎌を握る手が震える。
自然と涙が零れる。
王を倒すということは、
この空間を終わらせること。
それはつまり、ルカの存在も――
ルカは、凛を見ている。
逃げずに。
泣かずに。
だとしたら、
「友達」の覚悟を無視することは、凛にはできない。
凛は、息を吸った。
鎖が張り、
凛の身体が固定される。
鎌を構える。
もう、視線は逸らさない。
決意も揺らがない。
王を見据える。
この選択が、
正しいかどうかは分からない。
それでも。
今の自分ができる、
唯一の最善。
――王を倒す。
凛は、自分の手で、
その決断を下した。




