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29 空席の王③

 戦闘の余韻が、空間に張り付いたまま動かなくなった。


 空中に生成されていた記録体由来の腕も、槍も、壁も。

 すべてが、次の命令を待つみたいに静止している。


 音がない。

 風もない。

 時間そのものが、ほんの一拍だけ止められたような感覚だった。


 凛は、鎌を構えたまま息を詰める。


 ――来る。


 そう思った瞬間だった。


 低く、抑揚のない声が落ちる。


「――まつろわぬ我が子よ――」


 凛は、その言葉を即座に理解できなかった。


 誰に向けられた呼びかけなのか。

 それすら、最初は分からない。


 だが――


 王の視線が、わずかに動いた。


 見下ろす位置は変わらない。

 それでも、意識の焦点だけが、確かに一箇所へ定まる。


 凛の横。


 ルカのいる方向。


 その瞬間、遅れて言葉が追いつく。


 …これは自分に対してではない。背後にいる――


 理解した途端、背筋に冷たいものが走った。


「お前は、過去の異物でありながら」

「外界と、あまりにも強く接続している」


 王は続ける。

 問いかけでも、非難でもない。


 ただ、確定事項を読み上げるように。


「この領域が生成した副産物でありながら……」

「人の形をとり、世界に触れている」


 凛は、息を呑む。


 意味は、まだ分からない。

 単語同士が、頭の中で噛み合わない。


 それでも。


 この言葉が、

 “評価”であることだけは、直感で理解してしまった。


「歪みだ」


 王の声は、変わらない。


「だが――」


 一拍。


「完成された歪みでもある」


 凛は、反射的に身構えた。


 歪み。

 異質。

 副産物。


 排除される。

 壊される。

 そういう言葉が、次に続くはずだと思った。


 だが。


 王は、何もしない。


 攻撃命令も出さない。

 記録体も、再び動かない。


 ただ、静止した空間の中で、言葉だけが落ちる。


「ゆえに、我は――干渉しない」


 凛の思考が、一瞬止まる。


「歪みは、是正されるものではない」

「完成しているならば、なおさらだ」


 王の声には、明確な意思があった。


「固定する」

「変えない」

「触れない」


「それこそが、保存である」


 凛の胸の奥が、嫌な音を立てる。


 守る、とも違う。

 許す、でもない。


 ただ――

 このまま在らせる。


 それが、この存在の選択。


 凛は、理解できないまま、理解してしまう。


 これは、

 優しさでも、慈悲でもない。


 もっと冷たくて、

 もっと動かしがたい思想だ。


 そして。


 その思想の中心に、

 今、ルカが置かれている。


 それだけは、はっきりと分かった。





 王の言葉が途切れても、空間は動かなかった。


 記録体の腕も、槍も、壁も。

 すべてが“そのまま”の位置で停止している。


 まるで、この場にいる全員が、

 次に何を選ぶかを待たされているみたいだった。


 凛は、ルカを見る。


 けれど、ルカは――すぐには視線を合わせなかった。


 一拍、遅れて。

 ほんの一瞬だけ、ルカの視線が凛に向く。


 そして。


 笑った。


 それは、いつもの明るい笑顔じゃない。

 冗談めいた軽さもない。


 何かを理解した者だけが浮かべる、

 静かで、どこか諦めにも似た微笑みだった。


 すぐに、視線は逸らされる。

 その表情も、最初から存在しなかったかのように消える。


 凛の胸が、きゅっと締まる。


「……ルカ?」


 名前を呼ぶ。

 それだけの声。


 返事はない。


 否定もしない。

 肯定もしない。


 王の言葉を、遮らない。


 それが、凛には一番引っかかった。


 いつもなら。

 声をかけられたら、すぐに反応する。

 何も分からなくても、笑ってごまかす。


 そういう子だった。


 なのに。


 今のルカは、黙ったままだ。


 怯えているわけでも、怒っているわけでもない。


 ただ――

 決めてしまった人間の顔だった。


 凛の胸の奥に、嫌な感触が広がる。


 分からない。

 何を、どこまで、ルカが理解しているのか。


 けれど。


 “知らないまま黙っている”沈黙じゃない。


 “分かったうえで、言わない”沈黙だ。


 そう感じてしまった瞬間、

 凛の中で、何かがずれる。


 いつも一緒にいた距離感。

 隣を歩いていたはずの感覚。


 それが、ほんの一歩ぶんだけ、離れた。


 王の声が、再び落ちる。


「沈黙は、否定ではない」

「肯定でもない」


 淡々とした声。


「理解した者だけが選ぶ、停止だ」


 凛は、王を睨む。


「……分かったふり、しないでください」


 声は、思ったより低く出た。


 王は、凛を見下ろしたまま答える。


「分かっていないのは、お前だ」


 凛は、言い返せなかった。


 確かに、そうだ。


 ルカが何者なのか。

 王が何を“保存”しようとしているのか。


 言葉の意味は、まだ霧の中だ。


 それでも。


 あの一瞬の微笑みが、

 すべてを語っている気がした。


 この沈黙が、

 この場の分断線になっていることだけは、

 はっきりと分かってしまった。


 凛と、ルカ。

 同じ場所に立っているのに、

 同じところを見ていない。


 その事実が、胸に刺さる。


 凛は、無意識に一歩、ルカのほうへ踏み出した。


 距離を埋めようとする動き。


 けれど、ルカは振り返らない。


 その背中が、

 今までで一番、遠く見えた。





 地下施設を抜けた瞬間、悠斗はほとんど立ち止まらなかった。


 白い空間の余韻が消える前に、

 身体が勝手に外へ向かっていた。


「……始まってるよな、これ」


 理由ははっきりしている。


 あの路地裏。

 あのガラケー。

 そして、何より――


「絶対、面白いやつだろ」


 イベントが起きている気配だけは、確信があった。


 校舎を抜ける。

 人の流れを横目に、駅前とは逆方向へ。


 考えるより先に、足が速くなる。


「俺がいない間にクライマックスとか、

 マジでやめてほしいんだけど」


 笑いながら呟いて、走る。


 商店街を突っ切る。

 夕方の喧騒が一瞬だけ視界を流れて、

 そのまま、あの曲がり角へ。


 路地が見えた瞬間、

 空気が、はっきり変わった。


「――あ」


 ここだ。


 理由も説明もいらない。

 身体が、そう判断している。


 周囲の音が、薄くなる。

 視界が、少しだけ歪む。


「やっぱりな」


 迷いはなかった。


 一歩、踏み込む。


 次の一歩で、世界の感触が変わる。


 地面が、現実よりも軽い。

 壁の距離感が、微妙に狂っている。


 空はある。

 けれど、透明な膜が張っていて、

 奥行きが嘘みたいに浅い。


「はは……」


 口元が緩む。


「これ、完全に当たりだろ」


 戻ろうと思えば、戻れる。

 そう思えたのは、最初だけだった。


 進むほどに、

 背後の出口が、現実感を失っていく。


 路地は、もう路地じゃない。

 奥行きが引き延ばされ、

 先が見えない。


「……乗り遅れるとこだったな」


 小さく息を吐いて、

 悠斗はさらに踏み込む。


 境界を越える感覚が、

 はっきりと足元を掴んだ。


 ここは、もう現実じゃない。


 それでも――


「最高じゃん」


 悠斗は、笑っていた。


 イベントの中心に、

 間に合ったと確信して。





 王は、空中から見下ろしている。


 黒い文字で組み上げられた構造体を従え、

 静止したまま、最後の言葉を吐き終える。


 沈黙。


 それは、思考の間ではなかった。


 ――攻撃開始の合図だ。


 次の瞬間、周囲に展開されていた構造体が一斉に動いた。


 空中で再構成される記録体。

 巨大な腕が、今度は明確な速度をもって振り下ろされる。


「っ――!」


 凛は跳んだ。


 地面を蹴った、のではない。

 左腕から伸びた黒い鎖が、空中の構造体に噛みつく。


 文字で構成された鎖が、

 金属でも生物でもない感触を伝えてくる。


 引く。


 鎖が張り、

 凛の身体が空中へと引き上げられる。


 右手の鎌を振る。


 刃が、迫ってきた腕を切断する。

 文字の塊が霧散し、ばらける。


 だが――


 切断された部分が、そのまま別の形へと組み替わる。


 今度は、無数の槍。


 上から、横から、

 空間を縫うように射出される。


 凛は鎖を打ち直す。


 別の構造体へ。

 さらにその先へ。


 鎖を撃ち、引き、放し、

 空中を跳び渡る。


 地面に戻る選択肢はなかった。


 降りた瞬間、

 囲われる。


 王は、それを理解している。


 だからこそ、攻撃はすべて「空」を埋める形で来る。


 凛は歯を噛み締めた。


 身体は動く。

 鎌も、鎖も、思った通りに使えている。


 以前より――確実に。


 残響都市での戦い。

 あのとき、矛盾に触れ、

 引きずり、

 切断した感覚。


 あの“回路”が、まだ身体に残っている。


 だから、動ける。


 だが。


 王は、削れない。


 切断しても、

 避けても、

 位置を奪っても。


 王そのものは、

 一切、揺らがない。


 構造体は破壊できる。

 けれど、それはすぐに再構成される。


 排除ではない。

 再生でもない。


 配置の更新。


 保存。


 凛は、空中で体勢を立て直しながら、

 一瞬だけ視線を走らせた。


 ルカ。


 離れた位置にいるその姿は、

 まだ王の直接的な攻撃には晒されていない。


 だが――


 このままでは、

 空間そのものが、

 逃げ場を消していく。


「……ルカ……」


 小さく、名を呼ぶ。


 返事はない。


 次の瞬間、

 王の周囲に、さらに巨大な壁が形成された。


 閉じるための壁。

 守るためではない。


 凛は理解する。


 これは、戦いではない。


 ここにあるのは、

 終わらせないための処理。


 それでも――


 凛は、鎌を構え直し、

 左手の鎖を、再び撃ち出した。


 退く、という選択肢は、

 最初から存在していなかった。






「半端者よ」


 戦闘の最中、王は問いかける。

 低く、響く声。


 凛は、鎖を張ったまま、

 空中で身構えた。


 次の攻撃が来る。

 そう思った。


 だが、来ない。


「お前は、

 あの存在を守りたがっている」


 凛の背中が、わずかに強張る。


 王の視線は、確かに凛を捉えている。

 だが、その言葉の向こう側にあるのは――


 別の“何か”。


「だが――」


 王の声が、少しだけ重くなる。


「お前は、

 あれがどのような存在か、

 理解しているのか?」


 凛は、答えられなかった。


 即答できない。

 考えが浮かばない。


 理解していない。

 それだけは、はっきりしている。


 凛は歯を噛み締める。


「……関係ない」


 絞り出すように言った。


「どういう存在かなんて、

 そんなの……」


 言い切れない。


 言葉が、途中で止まる。


 王は、その沈黙を待っていたかのように、

 続けた。


「あの存在は、

 この空間そのものと言っていい」


 凛の思考が、わずかに遅れる。


 意味が、すぐには繋がらない。


「世界から切り離された過去が、

 人の形を取り、

 人のように振る舞っているだけの――」


 一拍。


「ただの、副産物だ」


 その言葉が、

 凛の中に、重く落ちる。


 理解は、まだできない。


 論理も、因果も、

 頭の中で形にならない。


 けれど。


 構図だけは、

 嫌になるほど、はっきりしてしまった。


 ――今、自分がしていることは。


 凛は、息を呑む。


 この戦い。

 この切断。

 この干渉。


 それは――

 あの子にとって、

 どういう意味を持つのか。


 答えは出ない。

 出るはずがない。


 ただ、

 胸の奥で、

 何かが噛み合っていない感覚だけが広がる。


 凛は、視線を走らせる。


 ルカ。


 少し離れた場所にいる、その姿。


 いつも通りに立っている。

 笑ってもいないし、怯えてもいない。


 それが、余計に分からなかった。


 ――自分は、

 この子の何を守ろうとしている?


 問いは、形にならない。


 だが、

 このまま斬り続ければ、

 何かが“戻れなくなる”気がした。


 凛の中で、

 まだ言葉にならない違和感が、

 初めてはっきりと輪郭を持ち始める。


 王の声が、重く落ちる。


「選べ」


 ただ冷酷に告げる。

 躊躇も、間もない。


 王の声は、冷たく、平坦だった。


「世界か」

「それとも、あの存在か」


 問いではない。

 確認でもない。


 それは命令だった。





 王の言葉が、空間に沈んだまま消えない。


 選べ。

 世界か。

 あの存在か。


 意味は、まだ理解できない。

 けれど、凛の胸の奥で、確実に何かが軋んでいた。


 視線の先。

 ルカは、そこに立っている。


 逃げない。

 震えてもいない。


 ただ、何かを決めてしまったような、

 静かな表情で、こちらを見ていた。


 ――やめて。


 喉まで出かかった言葉は、音にならなかった。


 王の周囲で、

 黒い構造体が、再び動き出す。


 記録体が軋み合い、

 壁が組み上がり、

 空間そのものが、ゆっくりと形を変えていく。


 このままでは、

 何かが終わる。


 その直感だけが、異様な解像度で迫っていた。


 そのとき――。


 空間の奥。

 路地の“さらに向こう”。


 歪みの層を押し分けるように、

 誰かが、強引に踏み込んでくる気配があった。


 空気が、揺れる。


 構造体の一部が、きしりと音を立ててずれる。


 王の視線が、一瞬だけそちらに向いた。


 凛も、反射的に振り向く。


 白い靴底が、地面を蹴る音。

 息を切らした足取り。


 そして――


「……っ、やっぱり、始まってるじゃん」


 聞き覚えのある、軽い声。


 場違いなくらい、

 緊張感を削ぐ調子。


 空間の裂け目から、

 一人の少年が、滑り込むように現れた。


 制服。

 乱れた呼吸。

 それでも、目だけは妙に楽しそうに光っている。


「間に合った、よな?」


 佐倉悠斗だった。


 彼は、周囲を一瞥し、

 宙に浮かぶ王と、

 凛と、

 そして――ルカを見て、口角を上げる。


「いやー……」

「これ、想像してたより派手じゃん」


 状況を理解しているようで、

 していないような声。


 けれど。


 その足は、

 迷いなく、この空間の“中心”へと向かっていた。


 王と、凛と、ルカ。

 三者が対峙する、そのただ中へ。


 凛は、思わず叫びかける。


「佐倉……!」


 名前を呼ぶ声は、

 警告にも、安堵にもなりきらなかった。


 悠斗は、振り返らない。


 ただ、肩越しに軽く手を振る。


「大丈夫大丈夫」

「なんかさ――」


 一歩、また一歩。


 彼は、

 矛盾領域の中心部へと踏み込んでいく。


「めっちゃ、面白そうなとこに来ちゃった感じするから」


 その言葉と同時に、

 空間が、わずかに軋んだ。


 まるで、

 新たな“起点”を迎え入れたかのように。


 凛は、理解する。


 これはもう、

 自分一人の戦いじゃない。


 そして同時に――

 もっと取り返しのつかない段階へ、

 踏み込んでしまったのだと。


 王が、再び口を開く。


 その声は、

 今度は、確かに――


 佐倉悠斗にも、向けられていた。

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