28 空席の王②
空間は、すでに戦闘の痕を残し始めていた。
王は、最初から空にいた。
地面から数メートル――いや、感覚的にはもっと高い位置だ。常に視界の上にあり、凛がどれだけ走っても、跳んでも、見上げる角度が変わらない。
王の周囲で、黒い記録が動いている。
それは「個」として立ち上がることはない。
人型にも、生物にもならない。
王の意志に従って集まり、組み替えられ、
腕となり、壁となり、槍となる。
地面に溜まっていた記録が引き寄せられ、
空中で絡み合い、巨大な構造へと再編されていく。
殴るための腕。
進路を塞ぐための壁。
逃げ道を消すための槍。
どれもが「攻撃」ではなく、
配置そのものが凛を制御するための部品だった。
王が何か動作をしたわけではない。
それでも、空間全体が王の判断に従って形を変えている。
凛は走る。
踏み込む。
鎌を振る。
黒い刃が、王の構造物を断ち切る。
腕が崩れ、壁が裂け、槍が粉砕される。
切れる。
壊せる。
だが、その瞬間には、別の場所で新たな構造が組み上がっている。
「っ……!」
凛は歯を食いしばった。
倒している感触が、ない。
削っている感覚はあるのに、前に進んでいる実感がない。
一歩踏み出せば、王の周囲で再構成された壁が立ち上がる。
跳び上がれば、空中に展開された腕が足場を消す。
横へ逃げれば、地面から槍が生えてくる。
閉じ込められているわけじゃない。
動けないわけでもない。
ただ、王との距離だけが、縮まらない。
凛は理解する。
これは、通常の戦闘じゃない。
相手は“数”でも“強さ”でもない。
王は、距離そのものを操作している。
王は自分の立ち位置を決め、
同時に、凛の立ち位置も定義している。
上へ行けない。
近づけない。
鎌を構え直し、凛は一瞬だけ呼吸を整えた。
斬れば斬るほど、はっきりする。
この空間は、王を中心に設計されている。
倒すべき存在が、
常に「届かない位置」に配置されている。
「……このままじゃ」
声には出さなかった。
出す必要もなかった。
王が作る構造を壊すことはできる。
空間を削ることもできる。
だが――王には触れられない。
凛は跳躍を試みる。
地面を強く蹴り、全身の力を込めて空へ跳ぶ。
一瞬、視界が王に近づく。
その刹那、王の周囲で記録が集束し、
空中に新たな壁が組み上がる。
視界が遮られ、
距離が、元に戻る。
着地。
衝撃が足に返る。
「……っ」
凛は舌打ちを飲み込んだ。
足りないのは、攻撃じゃない。
切断能力でもない。
足りないのは――
距離を越える手段。
鎌は「切る」ための武装だ。
届いたものを、断ち切る。
だが今、必要なのはそこじゃない。
どうやって、あそこまで行くか。
どうやって、同じ高さに立つか。
王は空中に浮かび続けたまま、
変わらぬ位置から凛を見下ろしている。
表情は変わらない。
嘲りも、焦りもない。
ただ、
凛がどこまで辿り着けるかを見ている。
凛は、鎌を握る手に力を込めた。
焦りはない。
恐怖もない。
代わりに、静かな苛立ちが胸に溜まっていく。
切れる。
壊せる。
――なのに、届かない。
その事実だけが、
はっきりと凛の中に残っていた。
*
距離が、埋まらない。
凛は再び地面を蹴り、横へ跳んだ。
着地した瞬間、足元の舗装が砕け、そこから黒い構造物がせり上がる。
腕。
否――腕の「形」をした、ただの機能部品。
関節も、筋もない。
黒い記録が絡まり合い、「掴む」という用途だけを与えられた構造。
凛は鎌を振る。
刃が通り、構造はあっさりと分断される。
だが、それで終わりではない。
王の周囲で、また記録が集まる。
破壊された分を補うように、より太く、より多く。
今度は、壁だ。
逃げ道を塞ぐように、凛の正面と側面に展開される。
凛は足を止めない。
躊躇なく踏み込み、鎌を横薙ぎに振る。
壁は裂ける。
裂けるが、その向こうには、もう次の構造が待っている。
「……っ」
呼吸が乱れる。
体力の問題じゃない。
これは、消耗戦でも、持久戦でもない。
王は、凛を削ろうとしていない。
王は――位置を、固定している。
凛がどこへ動こうと、
「ここまで」という線を引き、
それ以上先へ行かせない。
空間そのものが、王の支配下にある。
凛は鎌を構え直し、空を仰いだ。
王は、そこにいる。
最初から、ずっと。
上から見下ろす位置。
視線が合っているのかどうかも分からない距離。
王は、攻撃を振るわない。
代わりに、環境を「組み替え続けている」。
凛は気づく。
これは、戦っているようで、
戦わせてもらえていない。
王にとって、凛は排除対象ですらない。
ただ、試されている。
――どこまで来られるか。
凛は歯を噛み締める。
鎌は、よく切れる。
以前より、ずっと扱いやすい。
力の流し方も、
刃の振り抜きも、
すべてが噛み合っている。
前回の戦闘で、
身体の奥に残った感覚が、まだ生きている。
矛盾に触れた記憶。
空間と接続した回路。
それが、今も凛の中で脈打っている。
――なのに。
「……届かない」
声が、自然と漏れた。
切る力はある。
壊す力もある。
でも、
「行く」ための力が、ない。
凛は一瞬だけ、背後を振り返る。
少し離れた場所に、ルカがいる。
王の構造物が届かない位置。
凛が意識的に、そう保ってきた距離。
「……動かないで」
小さく、呟く。
聞こえるはずがない。
それでも、言わずにはいられなかった。
凛は、再び王を見る。
王は変わらず空中に浮かび、
その周囲で、記録を組み上げ続けている。
凛は理解する。
このままでは、
どれだけ斬っても、状況は変わらない。
必要なのは、
新しい力じゃない。
――使い方だ。
凛は鎌を握りしめた。
自分は、切ることしかできないのか?
本当に、それだけなのか?
記憶が、ふと掠める。
残響の中で見た光景。
鎖に縛られ、固定されていた存在。
――鎖。
ふいに、その形が脳裏をよぎった。
意識して思い出したわけじゃない。
ただ、行き詰まった思考の隙間に、自然と浮かび上がった。
歪な空間。
音のない場所。
天井の高い、あの都市。
残響の中で見た光景。
吊るされていた、先生。
文字で構成された鎖に絡め取られ、宙に固定されていた姿。
凛は、思わず瞬きをした。
あの鎖は、ただ縛るためのものじゃなかった。
逃がさないためでも、
痛めつけるためでもない。
――固定するためのものだった。
存在を、その場所に。
動かないようにするのではなく、
「動けない位置」を定義する。
あの空間そのものが、
そういうやり方で人を扱っていた。
凛は、無意識に自分の腕を見た。
あのとき、
自分は鎖を断った。
鎖を「切るもの」としてしか、認識していなかった。
でも。
鎖は、本来――
繋ぐものでもある。
縛るだけじゃない。
引き寄せる。
固定する。
位置関係を、決める。
凛は、はっと息を吸う。
刃は、距離を縮めない。
切ることはできても、そこへ行くことはできない。
だから、届かない。
王が上にいる限り、
どれだけ斬っても、追いつけない。
なら――。
凛は、心臓の奥が熱を持つのを感じた。
あの日から、凛の中に記憶は存在し続けている。
終わったのは、事象だけだ。
自分の中には、
まだあの空間との接続が残っている。
矛盾に触れた記憶。
世界の「意味」に触れた感覚。
鎖は、あの都市が編み出した記録の概念。
なら、それを見て、
触れて、
断ち切った自分の中に――
何も残っていないはずが、ない。
凛は、ぎゅっと鎌を握りしめた。
今はまだ、この力のことを何も分かっていない。
使い方も、理解していない。
けれど。
「切る」だけじゃ足りないことだけは、
はっきりと理解していた。
凛は、王を見上げる。
距離は、変わらない。
王は、まだ高い位置にいる。
それでも。
凛の中で、
何かが、確かに芽生え始めていた。
*
王は、変わらず空にいた。
高く、遠く、凛を見下ろす位置。
その周囲で、黒い文字が渦を巻いている。
意味を削がれた記録体が、機能だけを残して再構成されていく。
次の瞬間。
地面が盛り上がり、巨大な腕が生えた。
叩き潰すための腕。
殴るための拳。
凛は反射で跳ぶ。
腕が叩きつけられ、地面が砕け散る。
破片が舞う。
風圧が、身体を押し戻す。
凛は着地し、即座に鎌を振るった。
刃が黒い腕を断ち、文字の塊が崩れ落ちる。
だが、それで終わらない。
崩れた文字は地面に落ちきる前に引き寄せられ、再び形を取る。
今度は槍だ。
無数の黒い槍が、凛を中心にして地面から突き上がる。
逃げ場を消す配置。
意図が、はっきりしている。
凛は歯を食いしばり、隙間を縫って走った。
鎌で叩き落とし、蹴り、跳ぶ。
身体は、よく動く。
前よりも、確実に。
(……分かってる)
凛は走りながら、理解していた。
自分は以前よりも、概念武装を“扱えている”。
鎌は、ただ振るうものではない。
どこを切れば構造が崩れるか、感覚で分かる。
残っている。
あの戦いで繋がった回路が。
それでも――。
凛は跳躍し、瓦礫を蹴って空中へ身を投げ出す。
王の位置を見据え、鎌を振るう。
刃は、空を切った。
距離だ。
王は避けていない。
ただ、そこに届かない。
凛は着地し、息を吐いた。
王の周囲で、再び文字が集まり始める。
今度は壁だ。
凛と王の間に、巨大な黒い壁がせり上がる。
遮断。
分断。
凛は立ち止まり、鎌を下ろした。
(……違う)
焦りではない。
諦めでもない。
ただ、はっきりとした認識。
鎌では、届かない。
切れるが、近づけない。
王の全能性ではない。
単純な、物理的距離。
凛は、王を見上げた。
その瞬間、胸の奥が、わずかに疼いた。
さっき見ていた光景が、脳裏をかすめる。
白い空間。
鎖。
固定されていた存在。
凛は、無意識に左手を前に出していた。
狙いはない。
命令もない。
ただ、伸ばす。
(……同じ場所に)
声にならない思考が、胸の奥で形を取る。
(……立ちたい)
その瞬間。
左手の指先が、ひどく冷たくなった。
皮膚の内側を、何かが流れ始める感覚。
血流とは違う。
もっと、情報に近いもの。
凛は、目を見開いた。
指先から、黒い文字が滲み出している。
最初は一文字。
次に二文字。
それは、地面に落ちることなく、空中に留まり――
細く、長く、連なっていく。
凛は、息を呑んだ。
これは、鎌じゃない。
切るための形ではない。
けれど。
確かに、知っている。
凛は、左手を強く握った。
文字が、応えるように軋んだ。
*
凛は、もう一度左手を見る。
さっき、確かに“感じた”。
あの感覚は、気のせいじゃない。
凛は、意識的に左手を前に出した。
構えではない。
狙いもない。
ただ、伸ばす。
その瞬間。
指先から、黒い文字が滲み出した。
皮膚を破るわけでもなく、
痛みもない。
ただ、内側から溢れ出すみたいに。
文字は空中で絡まり、連なり、細く長い形を作っていく。
凛は、はっと息を呑んだ。
それは、刃じゃない。
切断のための形じゃない。
――繋ぐための形だ。
次の瞬間、王が動いた。
文字の集合体が一斉に形を変え、
巨大な壁が凛の正面に展開される。
凛は考えるより先に、左手を振った。
文字の連なりが伸びる。
鎖だ。
黒い文字で構成された鎖が、空を裂いて飛び、
腕の一部に絡みついた。
「……っ!」
凛は反射で引く。
重い。
だが、手応えがある。
腕の構造が、引きずられるように歪んだ。
王の配置が、初めて乱れる。
凛は歯を食いしばり、鎖を引き続けた。
鎖は切れない。
ほどけない。
記録体を素材にした構造体に、直接“接続”している。
凛は、理解した。
次の瞬間、凛は鎖を軸に身体を引き上げた。
地面を蹴る。
鎖を巻き取る。
凛の身体が、空中へ引き上げられる。
王の視線が、わずかに動いた。
初めて、凛を“正面から見る”位置になる。
凛は空中で鎖を解放し、
別の構造体へと打ち込む。
文字が絡み、固定される。
凛はそれを足場に、再び跳んだ。
空を使える。
完全じゃない。
自由飛行でもない。
それでも――
王だけが持っていた制空権の一部を、
凛は確実に奪っていた。
王は、無数の槍を生成する。
空間を埋め尽くすように、凛を狙って放たれる。
凛は鎖を引き、軌道を変え、
鎌で槍を弾き、切り落とす。
鎖を伸ばし、引き、解き、繋ぎ直す。
空中で、凛と王の距離が縮まる。
だが――
王は完全には崩れない。
構造体を捨て、組み直し、
距離を取り直す。
凛も、息が荒くなっていた。
鎖は便利だ。
だが、負荷が大きい。
左腕が、じん、と痺れている。
凛は着地し、鎖を一度、解除した。
王は再び高く浮かび直す。
凛は地面に立つ。
距離は、最初より近い。
だが、決定打には届かない。
戦況は、五分。
均衡。
凛は鎌を構え直し、左手を軽く握った。
鎖は、まだ応えている。
消えていない。
凛は、王を見上げる。
(……どうすれば)
王を倒せば、この空間は終わる。
それは、直感的に分かる。
だが――
その先に何があるのかは、
まだ、見えていなかった。
*
王は、凛から視線を外した。
それは敗走でも、油断でもない。
戦況を俯瞰する者が、
次に見るべきものを選び直しただけの動きだった。
宙に浮いたまま、
王はゆっくりと首を巡らせる。
視線が、戦場の外縁をなぞる。
そして――止まる。
そこに立っている少女を、
王は初めて“正面から”見た。
凛ではない。
けれど、この空間にとって、
決して無関係ではない存在。
王の口元が、わずかに歪む。
「……なるほど」
それだけを呟いてから、
王は言葉を続けた。
「まつろわぬ我が子よ――」
*
放課後。
悠斗は、特に深い理由もなく地下施設へ降りていた。
この前の路地裏。
拾って、落として、逃げたガラケー。
それを思い出した、というほどでもない。
ただ、頭の片隅に引っかかっているだけだ。
白い廊下は、いつも通りだった。
均一な光。
影のない壁。
足音だけが、遅れて返ってくる。
「よっす」
軽い声で言う。
管理者は、いつもの位置に立っていた。
悠斗は、そのまま近づいて――
ふと、空中に浮かぶログに気づく。
《PARADOX FIELD:ACTIVE》
《IDENTIFIER:VACANT THRONE》
《FIELD STATUS:EXPANDING》
「……へえ」
興味深そうに、首を傾げる。
「なにこれ」
管理者は、淡々と告げた。
「新たな矛盾領域が発生しています」
「現在、進行中です」
「おー」
あっさりした反応。
「どんな感じの?」
管理者は、必要最低限の情報だけを続ける。
「過去に沈殿した記録が核となり」
「自律的に形成された領域です」
「現在、内部で衝突が発生しています」
悠斗は目を瞬かせた。
「衝突?」
「はい」
「誰と誰が?」
一拍。
「干渉者と」
「当該領域の管理的存在です」
悠斗は、その言葉を咀嚼する。
「……管理的存在?」
「管理者、みたいな?」
「同系統です」
「ただし、体系から逸脱しています」
そこで、別のログが重なる。
《INTERFERENCE DETECTED》
《SUBJECT:RIN-SHINONOME》
悠斗は、ぴたりと動きを止めた。
「……東雲?」
管理者は頷く。
「既に、領域内に侵入しています」
数秒。
沈黙。
そして。
「え、なにそれ」
悠斗は、次の瞬間には笑っていた。
「絶対、面白いやつじゃん」
管理者は否定しない。
「事態は進行中です」
「へえ……」
悠斗はログを眺めながら、少し楽しそうに言う。
「で、その“管理的存在”って何?」
「空席の王と名乗っています」
その瞬間、悠斗の口角が上がる。
「名前、カッコよ」
管理者は、わずかに皮肉を含めて返す。
「どこにも属さない領域で、王を名乗るとは」
「不適切です」
「そりゃそうでしょ」
悠斗は肩をすくめる。
「でもさ」
「王とか出てくるなら、イベント感強くない?」
管理者は、静かにログを更新する。
《EDITOR INVOLVEMENT:CONFIRMED》
「編集の影響も、確認されています」
「お、俺の?」
「あなたの過去の追記が、起点の一つです」
「マジで?」
悠斗は、ログから視線を外して管理者を見る。
軽い調子のまま、指で空中を指した。
「それ、どこで起きてんの?」
管理者は、即座に答える。
「霧ヶ丘市内」
「路地裏です」
一瞬。
悠斗の動きが、ぴたりと止まった。
「……あー」
次の瞬間、肩を落とす。
「それは、俺が書いたやつだわ」
管理者は首を傾げる。
「該当する追記がありますか」
「あるある」
悠斗は、指で自分のこめかみを軽く叩いた。
「拾われたガラケーがさ」
「霧ヶ丘の路地に関係ある、ってやつ」
管理者は即座に照合する。
《EDITORIAL NOTE:MATCH FOUND》
《TRIGGER OBJECT:FEATURE PHONE》
《LOCATION TAG:BACK ALLEY》
「……確認しました」
淡々とした声。
「当該追記が、座標固定の一因です」
「だよね」
悠斗は、どこか納得したように笑った。
「いやー、趣味設定のつもりだったんだけど」
「思ったより、世界ノリノリじゃん」
管理者は、いつもの声音で返す。
「結果として、現在の事態が発生しています」
「うん、まあ」
悠斗は軽く手を振る。
「場所わかったなら、行くしかないっしょ」
管理者の声が背中にかかる。
「介入は、暫定Ownerの判断に委ねます」
悠斗は振り返らずに答えた。
「知ってる」
「でもさ」
少しだけ声が弾む。
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