27 空席の王①
白い廊下に、淡々とログが流れる。
《PARADOX FIELD:ACTIVE》
《IDENTIFIER:VACANT THRONE》
管理者は、その表示を一瞥し、わずかに――しかし確実に、口角を歪めた。
「空席の王……ですか」
乾いた声音。
そこにあるのは好奇心ではない。
軽蔑に近い、観測者の嘲笑だった。
「どこにも属さない領域で、王を名乗るとは」
短く、鼻で笑う。
ログが続く。
《FIELD STRUCTURE:SELF-CONTAINED》
《ADMINISTRATIVE TRACE:CONFIRMED》
《AUTHORITY CLASS:FORMER MANAGERIAL》
管理者は腕を組む。
かつて――
この存在は、管理者と同系統の権限を持っていた。
一帯の矛盾を管理し、配置し、均衡を保つ立場。
世界と矛盾の境界に立ち、処理と調整を行う側。
だが今は違う。
どの管理体系にも属さず、
世界にも回収されず、
矛盾領域そのものと、ほぼ同一化している。
「切り離された管理権限が、
自らを玉座に据えた……というわけですか」
わずかに、嘲るような間。
「管理されない管理者。
監督を失った権限が、
自分自身を正当化し続けた結果……」
管理者は、淡々と結論づける。
「それが《空席の王》」
ログの一部が、わずかに変調する。
《FIELD STABILITY:HIGH》
《HOSTILE RESPONSE:CONFIRMED》
《INTERFERENCE LEVEL:ELEVATING》
管理者は視線を戻す。
その先にあるのは、
現在進行形で展開されている矛盾領域。
王が座るための椅子など、どこにもない。
あるのは、
王そのものが空間として存在しているという事実だけだ。
「……滑稽ですね」
感情は揺れない。
だが、評価は明確だった。
「玉座が空席だから王を名乗る。
実に、矛盾らしい」
管理者は最終ログを確認する。
《INTERVENTION:WITHHELD》
《REASON:OBSERVATION》
「介入は行いません」
静かな断定。
「これは自然発生した事態ではない」
編集者が起点となり、
鍵が揃い、
条件が重なった結果。
「この矛盾領域が、
どのような結末を選ぶのか」
管理者は、白い廊下の奥を見据えた。
「――見届けましょう」
ログは無機質に更新され続ける。
空席の王。
かつて管理する側だった存在が、
管理から外れ、
なおも王を名乗る歪んだ残骸。
その領域で、
今まさに、取り返しのつかない衝突が始まろうとしていた。
*
空気が、ひとつ区切られた。
凛が一歩踏み出しただけで、この場所が“応えた”。
音もなく、圧だけが変わる。
前方。
黒く侵食された人型が、そこに立っていた。
人間よりわずかに大きい。
だが、威圧の正体は体格ではない。
姿勢。
視線。
そして――この空間そのものが、そいつを中心に組み上がっているという事実。
「……」
凛は息を整え、背後を意識する。
振り返らなくても分かる。
ルカは、そこにいる。
その一歩前に立つ。
庇うように、ではない。
自然と、そうなった。
「ほう」
低い声が響いた。
嘲りを隠そうともしない声音。
「また妙なものが来たものだ」
それは凛を見下ろしている。
だが、それは捕食者の視線ではない。
秤にかける目だ。
「完全な外ではない」
「だが、内でもない」
黒い視線が、凛の輪郭をなぞる。
「境界を踏み越えながら、属する先を持たぬ」
「中途半端だな」
凛は唇を噛み、視線を逸らさない。
「……あなたが、この空間の主ですね」
断定に近い声。
それは、鼻で笑った。
「主?」
「概ね正しい。我は"王"である」
一歩、前に出る。
それだけで、足元の地面がわずかに軋んだ。
「我は、ここに“在る”だけだ」
「在り続けてきた」
言葉に、誇りはない。
だが、揺るぎもない。
「お前は違う」
「踏み込んだが、在り方を定めていない」
視線が、凛の首元に落ちる。
整合タグ。
「歪みに触れられる」
「だが、こちら側に定着した存在ではない」
愉快そうに、口角が上がる。
「面白い」
「片足だけ、こちら側だ」
凛は一瞬、喉が詰まった感覚を覚えた。
否定できない。
自分は“入ってしまった”。
それでも。
「だから、止めます」
凛は言い切った。
「あなたが原因なら」
「あなたを止めれば、この空間は終わる」
それは、声を立てずに笑った。
「終わる?」
「終わらせる、か」
その視線が、凛の背後へ――ほんの一瞬だけ、流れる。
だが、何も言わない。
説明もしない。
凛は、その意味に気づかない。
「勘違いするな」
声が、少しだけ低くなる。
「我は破壊者ではない」
「破壊をするのは、お前の方であろう」
空間が、わずかに歪む。
壁だったはずの建造物が、意味のない配置で重なり合う。
「それでも、我は在り続ける」
「この場所が、そうであったからだ」
凛は拳を握った。
理解は追いつかない。
だが、確信はある。
この存在は、ここに留まり続ける。
放っておけば、広がる。
「……だったら」
凛は、半歩前に出た。
「踏み込んだ者として、止めます」
それは、その言葉を待っていたかのように頷いた。
「よかろう」
嘲笑が、はっきりと形を持つ。
「ならば示せ」
「中途半端な侵入者よ」
周囲の空間が、静かに応答する。
まだ攻撃はない。
だが――
ここが、そいつの支配下にあることだけは、疑いようもなかった。
*
警告音は鳴っていなかった。
だが、それが異常ではないという意味にはならない。
監視室の中央モニターには、通常とは明らかに異なるログが積み重なっていた。
数値は振れている。
反応は継続している。
にもかかわらず、発生源が特定できない。
「……また、か」
低く呟いたのは、上位職員だった。
担当職員が画面を切り替える。
「異常反応、継続中です」
「分類不能。既存のパターンと一致しません」
「位置は?」
「……不明です」
「まるで――」
担当職員が言いかけて、言葉を切った。
「……何だ」
「いえ。何かが“広がっている”ように見えて」
上位職員は、視線をログに戻したまま黙った。
ログの一角に、別の表示が重なる。
《CANDIDATE TRACKING:RIN SHINONOME》
《POSITION:UNCONFIRMED》
《SIGNAL:INTERMITTENT》
座標ロスト。
ただし、完全消失ではない。
「東雲か」
声には、驚きはなかった。
「先日の件以降、数値が安定していない」
「今回も、その延長線上だと?」
「断定はできません」
「ただ……」
担当職員は一瞬だけ迷い、それから続けた。
「こうも立て続けに起きるのは、偶然とは考えにくいかと」
上位職員は、ゆっくりと息を吐いた。
「世界は、何も起きていない顔をしている」
「だが、ログは正直だ」
指先で、机を軽く叩く。
「……準備だけは進めろ」
担当職員が顔を上げる。
「…わかりました。回収班へ通達します」
「正式投入はまだだ」
「だが、動ける人員を洗い出せ」
即応体制。
命令というより、前提条件の確認だった。
「座標が確定した瞬間に動けるように」
「今回は……遅れられない」
「了解しました」
担当職員は短く答え、端末を操作し始める。
監視室に、キーボードの音が戻る。
ログは流れ続けている。
異常値は、消えない。
誰も口には出さない。
だが、この場にいる全員が理解していた。
――また、現場で何かが起きている。
それは確かに、
次の事態が近いことを示していた。
*
対話が、終わった。
宣言はなかった。
戦闘開始を告げる言葉もない。
ただ、王が――
ふわりと、宙へ浮かび上がった。
床から切り離され、
影だけを引きずるように上昇し、
ある高さで静止する。
高い。
意図的に選ばれた位置。
地上に立つ存在を、常に見下ろすための高さだった。
凛は、その動きを目で追う。
首元が熱を持つ。
整合タグが、沈黙したまま主張してくる。
――来る。
直感が告げた瞬間、空気が変わった。
周囲の空間が、ざわつく。
床。
壁。
崩れかけた建物の影。
そこから、文字が滲み出した。
黒い文字。
輪郭を持たない、意味だけの残骸。
通常記録体。
ひとつ、ふたつではない。
数える意味がないほどの量が、同時に発生する。
人型に近いもの。
形を持たない塊。
腕だけ、脚だけ、輪郭だけ。
それらは呻きも声も発さない。
ただ、“存在する”という情報だけを持って、その場に立ち上がる。
凛は、はっとして振り返った。
視線の先。
少し離れた場所にいる、金色の影。
「……ルカ!」
叫ぶより早く、凛は一歩踏み出す。
「ここから離れて!
今すぐ――!」
言葉は、空気に吸われるように消えた。
距離の問題じゃない。
この空間そのものが、声を通さない。
ルカは、こちらを見ている。
確かに見ているはずなのに、反応がない。
凛は歯を噛みしめ、前を向き直った。
今は、王から目を離せない。
王が、片腕を動かした。
――引き寄せる。
合図は、それだけだった。
周囲に散らばっていた記録体が、一斉に引き寄せられる。
吸い込まれるように、空中へ。
文字が、絡み合う。
重なり、組み替えられ、意味を失ったまま再配置される。
次の瞬間。
それは、“腕”になっていた。
巨大な腕。
人の形をしているが、生物感はない。
関節の数も、構造も、どこか歪だ。
黒い文字で構成されたそれが、
宙から、ゆっくりと振り下ろされる。
凛は即座に跳んだ。
衝撃。
地面が砕け、
粉塵が舞い上がる。
さっきまで凛が立っていた場所は、
原形を留めていなかった。
「……っ!」
着地する間もなく、二本目。
今度は横薙ぎ。
凛は身を低くして滑り込み、辛うじて回避する。
背後で、建物の壁がまとめて削り取られた。
破壊音は、遅れてやってくる。
凛は呼吸を整えながら、鎌を構え直した。
刃は、応えている。
以前よりも、はっきりと。
思考と動作のズレがない。
振りたい方向に、迷いなく振れる。
凛は地を蹴り、腕の付け根を狙って斬り上げた。
黒い軌跡。
文字の集合体が、確かに裂ける。
だが――
裂けた先から、また文字が補填される。
腕は形を保ったまま、動きを止めない。
凛は理解した。
壊しても意味がない。
これは“個体”ではない。
部品だ。
機能として配置された、ただの構造物。
王は、淡々と次の手を選ぶ。
引き寄せ。
今度は、別の形。
集められた記録体が、
細長く、鋭利に再構成されていく。
――槍。
無数の槍。
空中に整列し、
一斉に、凛を向く。
凛は、息を呑んだ。
次の瞬間。
雨のように、降り注いだ。
凛は走る。
跳ぶ。
転がる。
床に突き立つ槍。
建物を貫く槍。
地面から突き出す槍。
逃げ場を削るように、
徐々に、動線が潰されていく。
凛は鎌で弾く。
叩き落とす。
斬り払う。
それでも、数が多すぎる。
息が上がる。
視線を上げる。
王は、動かない。
位置を変えない。
ただ、上から見ている。
全てが、想定通りだと言わんばかりに。
凛は、唇を噛んだ。
強い。
確かに強い。
だが、それ以上に――合理的だ。
無駄がない。
感情がない。
倒すためではなく、
“制圧する”ための戦い方。
凛は、再び跳んだ。
限界まで踏み込み、
鎌を振り上げる。
届かない。
分かっている。
それでも、振る。
刃先は、宙の影に届かない。
凛は着地し、膝をついた。
荒い呼吸。
視界の端で、また文字が集まり始めている。
次は、何だ。
巨大な壁か。
檻か。
それとも、地形そのものか。
凛は、鎌を握り直した。
負けてはいない。
折れてもいない。
ただ――
「……どうしても、届かない…!」
答えは、まだ見えない。
だが、このままでは、
確実に、削り切られる。
戦場は、完全に王のものだった。




