26 追いついた先
路地の途中まで来たところで、違和感ははっきりした。
長さがおかしい。
歩いている距離と、進んだ感覚が合わない。
「……やっぱり、変」
独り言は軽い。
でも、引き返そうとは思わなかった。
ここに来た理由は分からない。
ただ、足が止まらない。
ガラケーを握り直す。
じゃらじゃら鳴るストラップの音が、やけに近い。
圏外表示は変わらない。
それなのに、不安はなかった。
次の一歩を踏み出した瞬間。
――空気が、抜けた。
音が消えたわけじゃない。
ただ、距離がなくなった。
近いも遠いも、前も後ろも、曖昧になる。
視界が、ふっと横に広がる。
「……あ」
思わず声が漏れる。
路地だったはずの場所は、確かに続いている。
けれど、その“続き方”が違った。
左右の壁は、いつの間にか遠ざかっている。
頭上には、ちゃんと空がある。
ただ――
見慣れない。
青とも灰ともつかない色。
薄い膜のようなものが、空全体に張り付いている。
雲とは違う。天井とも言い切れない。
外を覆っている、というより、
内側から包まれている感じだった。
広い。
異様なほど。
街の一部みたいな構造物が、輪郭だけを保ったまま並んでいる。
ビルの影。
高架の名残。
遠くに見える道路の線。
全部、途中で止まっている。
完成していないのに、壊れてもいない。
何かが、途中で手を止めたまま残っている。
「……」
ルカは、ゆっくり息を吸う。
怖くはない。
むしろ、妙な納得があった。
――ああ、ここ。
言葉にはならない。
でも、胸の奥が静かに頷いている。
知っている。
来たことがある、という意味じゃない。
説明できる記憶があるわけでもない。
ただ、
この街の空気を、
この配置を、
この“途中で止まった感じ”を、
自分は知っている。
それだけが、確かだった。
ここが何なのかは分からない。
今いる街とどう違うのかも、考えない。
でも、
自分がここに立っていること自体は、不自然じゃない。
ルカは足元を見る。
地面は硬く、舗装の感触がある。
でも、どこか軽い。
踏みしめるたび、現実より一拍遅れて返ってくる。
「……そっか」
何に対する納得か、自分でも分からないまま呟く。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
ここは、“知らない場所”じゃない。
今いる世界とは違う。
でも、完全に切り離されてもいない。
ルカは、ゆっくりと歩き出す。
迷いはない。
知っている道でもない。
それなのに、足取りだけは自然だった。
この街を、
自分が知っている理由までは――
まだ、分からないまま。
*
歩き出して、すぐに分かった。
この街は、広い。
さっきまでの路地裏とは比べ物にならない。
視界が開けるたび、建物の輪郭が増えていく。
高層ビルの途中で切れた外壁。
ガラスが抜け落ちたままの窓枠。
広告看板の骨組みだけが残った交差点。
どれも、見覚えがある。
――いや。
“見たことがある”とは違う。
ルカは足を止め、ゆっくり周囲を見回した。
知っているのは、形じゃない。
名前でも、出来事でもない。
配置だ。
道と道のつながり方。
建物の間隔。
広場ができる位置。
「……ここ、抜けるとさ」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「多分、広いとこ出るよね」
一歩、二歩。
進む。
数秒後。
視界が一気に開けた。
舗装の剥げた広場。
中央に、噴水の名残のような円形の構造物。
周囲を囲むように、途中までしか立っていない建物群。
「……ほら」
思わず笑ってしまう。
合っている。
でも、どうして合っているのかは分からない。
予想したわけでもない。
記憶を辿ったわけでもない。
ただ、足が自然にそこへ向かった。
胸の奥が、静かにざわつく。
気持ち悪さはない。
怖さもない。
代わりにあるのは、奇妙な安心感だった。
――ここ、知ってる。
理由は不明。
でも、否定できない。
ルカは噴水跡の縁に腰掛け、ガラケーを取り出す。
画面は相変わらず圏外表示のまま。
なのに、ここではそれが気にならなかった。
むしろ、
電波が通らないことの方が、自然に感じる。
「……ふーん」
画面を閉じ、ストラップを弄ぶ。
じゃらじゃらと音が響く。
その音が、やけに遠くまで届く。
広場の奥。
半壊した高架の向こう。
途中で途切れた道路の先。
どこまで行っても、人の気配はない。
でも、“空っぽ”という感じもしない。
街そのものが、息を潜めている。
ルカは立ち上がった。
分からないことは多い。
でも、一つだけ確信に近い感覚があった。
ここは、
誰かに見せるための場所じゃない。
記念でも、展示でもない。
ただ、残っている。
使われなかったわけじゃない。
完成しなかっただけでもない。
――途中で、止まった。
それだけ。
その“途中”が、今も続いている。
ルカは歩きながら、建物の壁に手を触れた。
冷たい。
でも、触れた瞬間、指先に微かな反応が返ってくる。
反発でも、拒絶でもない。
存在確認。
「……ここさ」
小さく、息を吐く。
「なんか、ウチのこと知ってる感じする」
冗談みたいな言い方。
でも、冗談じゃない。
街がこちらを見ている気配。
見張っているわけじゃない。
ただ、知っている。
ルカは立ち止まり、空を見上げた。
膜の向こう側。
見慣れない色。
それでも“空”として成立している広がり。
ここは別の世界だ。
それは分かる。
でも――
「今じゃない」わけじゃない。
昔でも、過去でもない。
懐かしさとも違う。
今、この瞬間に、
自分が立っている場所として、ちゃんと成立している。
だからこそ、違和感がない。
理解は、まだない。
でも、納得だけが、静かに積もっていく。
――この街を、ウチは知ってる。
――どうしてかは、まだ分からない。
それでいい、と直感が言っていた。
ルカは、さらに奥へ進む。
この先に何があるのか。
誰がいるのか。
それは分からない。
けれど――
ここで立ち止まる選択肢だけは、
最初から存在していなかった。
*
街の奥へ進むにつれて、空気が変わっていく。
音はある。
風も吹いている。
それなのに――
“意味のある音”だけが、少しずつ遠ざかっていく。
足音。
自分の呼吸。
それ以外は、街の奥に溶けていくみたいだった。
建物の並びが、わずかに整っていく。
雑多だったはずの配置が、意図を持ち始める。
ルカは、そこで思った。
――中心に近い。
理由は説明できない。
でも、そう感じた。
逃げ道じゃない。
集まるための構造。
道は自然と広場へ向かっている。
歩かされている感覚はない。
ただ、知っている道を進んでいるだけだった。
広場に近づくにつれて、
胸の奥が、静かに締まる。
怖さじゃない。
不安でもない。
ただ、
“分かってしまいそう”な予感。
「……まあ、いっか」
軽く呟く。
いつも通りの声。
でも、その響きは、この場所では妙に残った。
やがて、視界が開ける。
円を描くように配置された建物の残骸。
中央だけが、不自然なほど空いている。
何もない。
なのに、目を逸らせない。
ルカは、足を止めた。
ここだ。
何があるのかは分からない。
でも、“ここ”だという確信だけは、最初からあった。
そのとき。
背後の空気が、わずかに揺れた。
足音が近づいてくる。
でも、振り返る必要はなかった。
分かる。
ここまで来られる人は、
一人しかいない。
「……やっぱり来たんだね、凛」
自然に、そう口にしていた。
驚きはない。
来ない可能性を、最初から考えていなかった。
足音は止まらない。
一定の距離を保ったまま、こちらへ向かってくる。
ルカは前を向いたまま、続ける。
「うん、そうだよね。
ここまで来たら、来るよね」
説明はしない。
理由も言わない。
だって、
それを言葉にする必要がないと分かっていたから。
この場所は、
偶然辿り着く場所じゃない。
知っている人間が、
引き寄せられてしまう場所だ。
足音が、すぐ背後で止まった。
気配が、はっきりと“人の形”になる。
振り返れば、
顔が見える距離。
呼吸の音が、分かる距離。
ルカは、それを背中で受け止めたまま、静かに息を整える。
凛がここまで来たこと。
この街が“普通じゃない”こと。
その二つが、
同じ意味を持ち始めている。
でも、まだだ。
今はまだ、
全部を分かる必要はない。
ルカは、一歩、前に出た。
振り返れば、すぐそこに凛がいると分かったまま。
*
「ルカ…!!」
声が、空気を切った。
自分でも驚くほど強い声だった。
喉の奥が熱くなって、息が一瞬詰まる。
凛は、足を止めない。
止まれなかった。
視界の先にある背中。
少しだけ肩の力が抜けた立ち方。
街に溶けるはずだった金色の髪が、この場所では異様なほどはっきりと見える。
――間に合った。
その感覚が、胸を強く打つ。
ルカは、振り返らなかった。
けれど、凛が来たことを疑っていない背中だった。
「……やっぱり来たんだね」
静かな声。
責めるでもなく、驚くでもなく。
それが、凛の足をさらに速めた。
「当たり前でしょ!」
思わず、語気が強くなる。
「……いないと思ったら、こんなとこにいて」
「今日だけ、どこ探しても会えなくて――」
言いながら、息が乱れる。
胸が苦しいのは走ったせいだけじゃない。
ルカのすぐ後ろまで来て、凛はようやく足を止めた。
近い。
伸ばせば、触れられる距離。
でも――触れなかった。
この場所で、軽々しく触れていい気がしなかった。
ルカは、やっと振り返る。
笑っていた。
でも、いつもの笑顔とは少し違う。
「ごめんね」
軽い調子。
けれど、目だけが静かだった。
「なんかさ、呼ばれた気がして」
「……呼ばれた?」
「うん。理由は分かんないけど」
ルカは、周囲を一度だけ見回す。
円を描く建物。
不自然に空いた中央。
空の向こうに張り付いた、薄い膜みたいな違和感。
「この街、知ってるんだよね」
ぽつりと、言う。
「来たことがある、っていうより……」
「知ってる、が近い」
凛は息を飲む。
その言い方が、あまりにも自然で。
なのに、致命的に噛み合っていない。
「……ルカ」
名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられる。
「ここ、普通じゃない」
「街の形も、空気も……」
凛は、首元に指を添えた。
整合タグ。
冷たい金属が、今ははっきりと“主張”している。
熱ではない。
圧迫感。
存在そのものが、押し付けられてくる感覚。
「……ねえ、凛」
ルカの声が、少しだけ低くなる。
「ここ、変だよね」
「でも、嫌じゃない」
凛は、はっと顔を上げる。
「嫌じゃない、って……」
「うん」
ルカは、あっさり頷いた。
「むしろ、落ち着く」
「変なのに」
その瞬間。
凛の整合タグが、激しく反応した。
「……っ!!」
息が、止まる。
首元を掴む。
視界が一瞬、白く弾ける。
痛み。
いや、違う。
“合わない”という感覚そのものが、直接押し込まれてくる。
「凛!?」
ルカが、一歩近づく。
「ちょ、どうしたの――」
「……大丈夫」
凛は息を掠らせて言った。
大丈夫じゃない。
でも、今ここでルカに余計なものを背負わせたくなかった。
「少し、待って」
整合タグが、今までにない反応を示している。
沈黙していたはずのそれが、限界まで引き伸ばされている。
空間が、軋む。
音が、歪む。
凛は歯を食いしばり、必死に呼吸を整えた。
「……ここは」
声が震える。
「ここは、まだ“完全に”繋がってない」
「だから……今なら、戻れる」
何に、とは言わない。
言えなかった。
ルカは、少しだけ目を細めた。
「……戻る、って」
問い返す声は、穏やかだった。
「どこに?」
その一言で、凛は言葉を失った。
そうだ。
戻る場所。
ルカにとっての“戻る”とは、何だ。
ルカは、凛の迷いを見て、ふっと笑う。
「大丈夫だよ、凛」
断言に近い声音。
「分かんないけどさ」
「ここで何かが起きるのは、もう決まってる気がする」
軽い言い方。
いつもと同じ。
それが、逆に怖かった。
「……ルカ」
凛は、声を低くする。
「ここで起きることは、たぶん――」
その先を、言わせてもらえなかった。
空気が、沈んだ。
広場の中央。
何もなかったはずの場所に、影が落ちる。
輪郭は、人型に近い。
けれど、人間の立ち方じゃない。
黒い。
異様に黒い。
身体の周囲を、無数の文字が這っている。
意味を持たない記号。
文章になりきれなかった断片。
それらが、王冠のように、鎖のように、その存在を縛っている。
凛は、一瞬で理解した。
――これが、この場所の“主”。
整合タグが、悲鳴を上げる。
呼吸が、できない。
胸を内側から押し潰される感覚。
凛は、一歩、前に出た。
無意識だった。
考える前に、身体が動いていた。
ルカを、背中に庇う形。
「……下がって」
声は低く、しかし揺れていない。
「これは……あなたが向き合うものじゃない」
影が、ゆっくりと頭を上げる。
顔らしき部分に、感情はない。
けれど、確かな知性が宿っている。
その視線が、ルカを捉え――
次に、凛を見る。
そして、低く、重い声が響いた。
「――まつろわぬ、我が子よ」
その瞬間。
ルカの胸の奥で、
何かが、確信に変わった。




