24 当たり前の日常
最初は、偶然だった。
駅前で目が合って。
ルカが手を振って。
凛が、足を止める。
「凛ー! 今日ヒマ?」
あっけらかんとした声が、雑踏に混ざっても沈まない。
相変わらず距離が近い。相変わらず、勢いがある。
「……ヒマじゃない」
「じゃあ、ヒマ作ろ!」
そんなの、断る隙がない。
凛は言いかけて、やめた。
否定の言葉を探す前に、もう歩き出している背中がある。
追いかける。
追いかけてしまう。
それが自分の選択だと認めるのは、少しだけ悔しかった。
首元の金属が、冷たい。
整合タグは沈黙したまま、いつもの温度でそこにある。
熱はない。
痛みもない。
なのに凛の指先は、無意識にそこを確かめようとして――途中で止まる。
触れたくないわけじゃない。
触れたら、何かが始まりそうで。
ルカの背中を見ていると、それだけで胸の奥が軽くなる。
理由は分からない。
でも、それは確かだった。
「ほら、凛! こっち!」
ルカが振り返って手を振る。
凛は小さく息を吐いて、その隣に並んだ。
*
それから一週間ほど。
凛とルカは、待ち合わせをしなかった。
約束もしなかった。
なのに、会う。
駅前の角。
商店街の入口。
ゲームセンターの前。
どこかのタイミングで、ふと視界に入る。
金色が光を拾って、そこだけ輪郭がはっきりする。
ルカはいつも通り、手を振ってくる。
「やっほー! 今日もいるじゃん、凛!」
「……あなたが、いるだけ」
「それな!」
意味が通っているのかいないのか分からない返事をして、ルカは笑う。
その笑い声に、凛は気づかないふりをして肩の力を抜く。
胸の奥に張り付いていた薄い疲れが、ほどける。
自分の孤独とか、痛みとか。
そういうものを考える前に、ルカが次を決めてしまう。
「ねえ、映画行こ! 今やってるやつ!」
「……映画?」
「凛、絶対ひとりで行かないでしょ?」
言い切られて、凛は返せない。
行かない。
というより、行けない。
暗い館内で、誰とも話さずに座って、終わったら何もなかった顔で帰る。
それが想像できるほど、凛は自分の日常を知っていた。
でも、ルカと一緒なら。
隣でポップコーンを奪い合って、変な場面で笑って、泣きそうになったら誤魔化して。
「……別に、いいけど」
「やったー! 決まり!」
ルカは腕を掴んで引っ張る。
掴まれたところが熱い。
映画館の帰り道、ルカはパンフレットを抱えたまま、急に立ち止まった。
「ねえ、凛」
「……なに」
「クレープ行く?」
「さっき食べた」
「じゃあ、甘いのじゃなくてしょっぱいの!」
凛は一瞬迷って、それでも頷いた。
いつもなら、断る理由を探すのに。
今日は探さない。
探さなくていい。
それだけで、胸の奥が少し楽だった。
別の日。
ルカは凛を古着屋に連れ込んだ。
「凛、絶対こういうの似合う!」
「……派手すぎる」
「派手じゃない! 映え!」
ルカは勝手に服を当てる。
凛の肩に手が触れるたび、息が詰まりそうになるのに嫌じゃない。
鏡の前で、ルカは凛の後ろに回って髪を指で整える。
「はい、完成。かわい」
「……自分で言うな」
「凛がかわいいんだって!」
ルカは言い切って、ウィンクをする。
凛は視線を逸らして、でも口元だけが少し緩んだ。
その変化を、ルカは見逃さない。
「今、笑った!」
「笑ってない」
「笑った! 今の、超レア!」
ルカは勝手に喜ぶ。
凛は否定しながら、否定できない。
また別の日。
ゲームセンター。
ルカは迷いなく奥へ進む。
最新の筐体じゃない、少し古い列。
音が荒い。画面がやけに明るい。
「こっちこっち!」
「……こっち、空いてない」
「空いてるって! 今、誰もやってない!」
ルカはコインを入れる。
指が速い。迷いがない。
凛は見ているだけで、妙に落ち着く。
あの指の動きが、最初からそこにあったみたいで。
ルカが振り向く。
「凛もやる?」
「……無理」
「無理じゃない。ほら、ここ押して!」
手を取られて、ボタンに触れさせられる。
画面の中でキャラクターが動く。
凛は思わず息を呑んだ。
自分が操作したはずなのに、操作した感覚が遅れる。
――違う。
ここは、あの空間じゃない。
普通の街で、普通の機械だ。
なのに、ふとした瞬間に。
感覚だけが、勝手に思い出してしまう。
凛は首元に指を添えそうになって、止まった。
ルカの笑い声が、すぐ横で弾ける。
「凛、いけるじゃん!」
「……いけてない」
「いけてるって! ほら、今の当たった!」
ルカの言葉が、凛の心臓の速さを誤魔化す。
それでいい。
今は、それでいい。
別の日。
カラオケ。
凛が入ることのない場所だ。
でもルカは当然のようにドアを開けて、マイクを握った。
「凛、歌って!」
「……無理」
「無理じゃない! 無理って言う人ほど歌える!」
ルカは笑って、勝手に曲を入れる。
「じゃ、デュエットね!」
「……聞いてない」
「今聞いた!」
凛は困った顔をする。
ルカが隣で笑って、肩が触れる。
画面の歌詞が流れて、凛は小さく声を出す。
下手だ。
でも、笑われない。
ルカは大げさに手を振って盛り上げる。
「凛、最高! それそれ!」
凛は息を吐く。
自分がここにいることが、信じられない。
信じられないのに。
嫌じゃない。
それが、一番怖い。
怖いのに、心地いい。
凛はその矛盾を、言葉にしない。
言葉にした瞬間、壊れてしまいそうだから。
*
二週間目に入るころ、凛は気づき始めていた。
「またね」が、当たり前になっている。
それまでは、言わなかった。
言えなかった。
誰かに向けて「また」と言うことが、次を約束するみたいで。
次が来なかったときの痛みを知っているから。
でもルカは、軽い。
「じゃ、またね!」
そう言って手を振る。
その背中は、明日もそこにいると信じて疑わない歩き方をする。
凛は最初、返せなかった。
返す意味が分からなかった。
でも――いつからか。
「……また」
小さく言っている自分がいた。
言ったあと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
それが当たり前になっていくことが、怖い。
怖いはずなのに。
凛は、その温かさを手放せない。
手放したくないと、そう思った。
*
その日もいつも通り、二人で街を回った。
駅前の光が強くて、空は暗いのに街は明るい。
人はまだ多く、笑い声がどこかで弾けている。
映画を観て、フードコートで夕飯を食べて、雑貨屋でくだらないものを買って。
屋上の小さな夜景スポットで風に当たった。
いつの間にか、それが当たり前の日常になっていた。
凛はずっと、同じテンポで歩いていた。
ルカが隣にいるだけで、足が勝手に前へ出る。
駅前で足が止まる。
「じゃ、ここで!」
ルカが言う。
いつも通りの軽さで。
凛は頷く。
「……うん」
ルカは伸びをして、満足そうに笑った。
「いやー、今日もめっちゃ遊んだねー!
これでこそ■■ギャルって感じー!」
一瞬、意味が通らなかった。
凛は笑いかけようとして、
そのまま、表情を止める。
「……■■?」
口の中で、もう一度なぞる。
聞き間違いじゃない。
確かに、そう言った。
■■。
凛の思考が、遅れて噛み合う。
それは、ただの言い回しじゃない。
今は使われていない――
十年前の元号だ。
理解した瞬間。
首元が、爆ぜるように熱を持った。
「……っ!」
喉を押さえる暇もなかった。
整合タグが、異常な強さで反応する。
今までの比じゃない。
警告でも、違和感でもない。
拒絶に近い衝撃。
視界が一瞬、白く跳ねる。
息を吸おうとして――
入らない。
胸が、内側から押し潰される。
圧迫感。
締め付け。
空気があるのに、呼吸ができない。
(……なに、これ……)
足元が揺れる。
街は変わらずそこにある。
人の流れも、灯りも、雑音も。
なのに、
凛の身体だけが、この場を拒否されている。
――違う。
拒否されているのは、
気づいてしまった認識のほうだ。
ルカは、何も知らない顔で笑っている。
「じゃ、またね、凛!」
軽く手を振って、
人混みに紛れていく。
その背中が遠ざかるにつれて、
整合タグの反応は、さらに強くなる。
息ができない。
視界が暗くなる。
凛は、必死に壁に手をついた。
ここで倒れたら、
全部、終わる気がした。
数秒。
あるいは、もっと短い時間。
ようやく、
浅い呼吸が戻ってくる。
胸が痛い。
喉が焼ける。
整合タグは、
まだ、じくじくと熱を残している。
凛は、背中を壁に預けたまま、目を閉じた。
分かってしまった。
はっきりと。
ルカが生きている「今」と、
自分が立っている「今」は――
同じじゃない。
それでも。
凛は、その事実を口にしなかった。
問い詰めなかった。
呼び止めなかった。
壊したくなかった。
この数日間を、
この当たり前を。
凛は、ゆっくりと目を開ける。
整合タグの熱は、
まるで逃がさないと言うように、
静かに、深く、脈打っていた。
――戻れない。
そう告げられている気がした。




