23 新しい日常
駅前のざわめきは、いつも通りだった。
人の流れ。信号の点滅。スピーカーから流れる案内放送。笑い声と足音が混ざって、街は「何も起きていない」顔をしている。
――それでも。
凛は、歩きながら首元を意識していた。
制服の襟の内側、喉元に沿う細い金属の輪。
整合タグは沈黙している。
熱も痛みもない。
それなのに、存在だけがやけに重い。
昨日みたいなことが、また起きる気配はない。
なのに、身体のどこかが、ずっと「待っている」みたいだった。
凛は駅前のロータリーを抜けて、商店街へ向かう道に足を向けた。
その途中で。
「凛!」
弾む声が、背後から飛んできた。
振り向くより先に分かった。
あの声は、軽い。明るい。迷いがない。
近づく気配まで、真っ直ぐだ。
「……九条さん」
「ルカでいいって言ったじゃん!」
距離ゼロのまま、ルカは凛の横に並ぶ。
並ぶ、というより――最初から隣だったみたいに、自然に。
金髪は相変わらず艶がある。
光を拾ってきれいに流れて、傷んだ感じがまるでない。
アイメイクは濃いめで、目元だけ少し大人びて見えるのに、笑い方は年相応に明るい。
そして――手元のじゃらじゃら。
ピンクのガラケーが揺れるたび、ストラップが小さく鳴った。
凛は視線を向けて、すぐに逸らした。
気になる。
でも、言葉にしたくない。
言葉にした瞬間、重くなる。
今は――重くしたくなかった。
「どこ行くの?」
「……特に」
「それ、絶対ウソ!」
ルカは笑いながら、凛の腕を軽く掴む。
掴むのに躊躇がない。
でも、乱暴じゃない。
「じゃ、カフェ行こ! 座ろ! 話そ!」
「……急に」
「急じゃないし! 会ったら話すの普通!」
普通じゃない。
でも、否定は出ない。
凛はルカのテンポに少しだけ遅れて、歩幅を合わせた。
*
商店街を抜けた先、路地寄りの小さなカフェにルカは迷いなく入った。
木目のテーブル。甘い匂い。小さく流れる音楽。
席に座ると、ルカはすぐにメニューを覗き込む。
「え、なにこれ。ケーキかわい!」
声の調子が、軽く跳ねる。
「凛、甘いのいける?」
「……普通」
「普通って言う人、絶対好き」
勝手に決めて、ルカは笑った。
そのまま店員に注文を通してしまう。
凛は止める暇もなく、言葉だけが遅れる。
「……勝手に決めないで」
「だって凛、決めるの遅いもん」
悪びれない。
ルカは頬杖をついて、凛をじっと見た。
「てかさ」
急に、声が少しだけ落ち着く。
「こういうとこ、あんまり来ないタイプ?」
凛は一拍、言葉を探した。
「……来ないわけじゃない」
「じゃあ、誰かと来ることは多い?」
凛の返事は短い。
「……別に」
ルカはその短さを責めない。
むしろ、楽しそうに頷いた。
「いいじゃん。そういうの、落ち着く」
凛は眉を動かす。
「……何が」
「話を深掘りしないやつ」
ルカは笑った。
「ウチさ、深掘りされると飽きるんだよねー」
「だから凛、ちょうどいい」
凛は言い返せない。
「ちょうどいい」と言われて、嫌じゃなかったからだ。
ほどなく、ケーキと飲み物が運ばれてくる。
皿の上に小さく整えられたショートケーキ。
白いクリームが、やけに眩しい。
「うわ、やば。テンション上がる」
ルカはフォークを握ると、一口食べて目を細めた。
「うまっ……! これ、当たりだわ」
凛もフォークを取って、一口。
甘い。
軽い。
口の中で溶ける。
――日常の味だ。
そのはずなのに、どこかで「安心してしまう自分」に、凛は少しだけ戸惑った。
ルカが不意に顔を寄せる。
「凛」
「……なに」
ルカの指が、凛の口元へ伸びた。
凛は反射で身を引きかけて、止まる。
指先が、ほんの少しだけ頬に触れる。
柔らかい圧。
ルカは、凛の口元についたクリームを――指で、すくった。
そして。
何事もなかったみたいに、その指を自分の口へ運ぶ。
ぺろり、と。
凛は、一瞬、動けなかった。
ルカは、凛を見て。
ウィンクした。
あまりにも自然で、あまりにも軽い。
冗談みたいに、でも冗談じゃない距離感で。
凛の喉が、小さく鳴った。
「……」
「なにその顔」
ルカは笑う。
「固まってる。かわい」
「……かわいくない」
「かわいいって言われて否定するやつ、かわいい」
凛は、何も言えなくなる。
ルカは、次の一口をフォークに刺す。
迷いなく、凛の口元へ差し出した。
笑顔で。
「はい、あーん!」
凛の眉が跳ねる。
「……」
「はい、あ・あ・ん!」
もう一回。
引かない。
凛は視線を泳がせた。
店内に他の客はいる。こっちを見ているかどうか分からない。
でも――気になった。
それでも。
拒絶は出ない。
凛は、口を開いた。
フォークが唇に触れて、ケーキの甘さが広がる。
ルカは満足そうに頷いた。
「よし」
「……よし、って何」
「凛、ちゃんと食べた。偉い」
「意味分からない」
凛の声は低い。
けれど、怒ってはいない。
怒りの形を取れないまま、受け入れている。
そのことに凛自身が一番戸惑っていた。
凛が自分のケーキを切る。
フォークに一口分を刺して、少しだけ迷う。
差し出すべきなのか。
いや、そんなことをする理由は――。
考えた、その瞬間。
ルカが身を乗り出して、凛のフォークの先を勝手に食べた。
凛は目を見開く。
ルカは涼しい顔で、にっと笑う。
「はい、おあいこ」
凛は、言葉を失った。
反論はある。
けれど、それを言ったら負けだ。
何に負けるのかは分からないのに、確かにそう思った。
ルカは楽しそうに肩を揺らす。
「凛ってさ、真面目だよね」
「……普通」
「普通って言う人、だいたい普通じゃない」
ルカはストローを噛んで、ぼんやりと天井を見上げた。
「ウチ、真面目な人好き」
「ちゃんとしてるって、かっこいいじゃん」
凛は視線を落とす。
「……別に、かっこよくない」
「かっこいいよ」
「だって凛、嫌なこと嫌って顔するのに、言わないもん」
凛の指が、皿の縁をなぞった。
「……言っても、意味ない時がある」
言葉が、すっと出た。
自分でも驚くほど自然に。
ルカは顔を向ける。
でも、踏み込まない。
「そっか」
「じゃ、意味あるときだけ言えばいいじゃん」
凛はルカを見る。
「……意味ある時って、いつ」
ルカは、迷わず言う。
「今」
凛は固まる。
ルカは笑って、すぐに軽く戻す。
「って言ったら凛、困るでしょ!」
凛は息を吐く。
助かったような、悔しいような。
ルカはケーキの最後の一口を食べて、指でクリームを拭う。
その指先を、当たり前のように口に入れる。
今の仕草も。
距離も。
言葉の運びも。
初対面から二日目。
それなのに、この子は最初から「知ってる人」みたいに振る舞う。
凛は首元を意識した。
整合タグは沈黙している。
熱も痛みもない。
だから、これはただの気のせいだ。
そう思おうとして――思えない。
けれど、凛は言葉にしない。
言葉にした瞬間、壊れそうだった。
何が壊れるのか分からないのに。
カフェを出る頃には、外は夕方の色になっていた。
空が少しだけ赤く、街灯が点き始める。
ルカは歩きながら、凛の横にぴったり並ぶ。
肩が触れるか触れないかの距離。
でも、触れていない。
それが、逆に近い。
「ねえ凛」
ルカが言う。
「明日も会える?」
凛は一拍、迷って――短く答えた。
「……知らない」
「知らないって言う人、会うやつだ」
ルカは笑った。
*
駅前に戻ると、ルカは足を止めた。
「じゃ、ここで!」
あっさりした声。
迷いも、名残惜しさも、特別な意味も込めない調子。
凛は一拍だけ遅れて、頷いた。
「……うん」
「またね、凛!」
そう言って、ルカは手を振る。
そのまま人の流れに紛れていく背中は、さっきまで隣にいたのが嘘みたいに軽い。
凛は、少しだけ立ち止まった。
胸の奥を確かめる。
驚きはない。
違和感も、今はない。
ただ――
(……またね、って)
言うことも、言われることも、
もう“特別”じゃなくなりかけている。
それに気づいて、凛は小さく息を吐いた。
困るでもなく、
不安になるでもなく。
むしろ。
口元が、ほんのわずかに緩む。
それが自然になってきていることを、
自分が受け入れ始めていることを――
凛は、静かに自覚していた。




